276区 えいりんの策略
体が思わず、えいりんの方へとよろけそうになる。
強烈な風が橋の上に吹いていたのだ。
まさか、えいりんはこの風が来るのを分かっていたと言うのだろうか。
と、えいりんが私の右斜め後ろに下がる。
今度は左斜め前から、脚を一歩出すだけでも体力を大幅に削られそうな風が吹いてくる。
ふと、私の中で、昨年みんなで見た都大路の場面が蘇る。
「まるで、風がいつどの方向から来るか、分かっているようです」
あの時、解説者はえいりんに対してそんなことを言っていた。
もちろん、なにかしらのからくりはあるのだろう。
今年の初詣の時、えいりんは何かを言いかけて辞めていた。
対戦する時のために手の内を見せたくないと。
まさか、あの時点でここまで予測していたのか?
ああいう言い方をする以上、風の吹き方を見破る方法があるのは確かだ。
何か周囲の木々の揺れなのかも知れないし、もっと別の何かかも知れない。
私にはその答えが何であるかは分からないが、えいりんは確かに風が吹いてくるタイミングと方向が分かっている。
その証拠に、さっきからえいりんは完全に私を風よけに使っている。
私がペースを落とすと、えいりんもペースを落とす。
左に少しだけ蛇行すると、ぴったりと付いて来る。
ラスト2キロでえいりんが私を前に出させたのも、このためだったのかもしれない。
橋の直前になって先頭を入れ替わるより、その前から入れ替わっていた方が位置取りも変更しやすい。
先頭に立った時、多少はえいりんの作戦にハメられている気もしていた。
それでも、先頭を走るのは気持ちが良かったし、自分のペースでレースを進められるので特に問題はなかった。
それがまさか、こんなことになるとは。
アップの時、紗耶の携帯で紘子の走りを見る限り、こんな風は吹いていなかった。
だからこそ、完全に油断したのだ。
もちろん、この金魚橋に時折強烈な風が吹くことは知っていた。
でも、昨年葵先輩が走るのを映像で見る限りここまで酷くなかったし、一昨年も1区を走った時に風がなかったせいで、深く考えていなかったのも事実だ。
まるで台風のような強烈な風だ。
きっと、えいりんも多少は風を受けているだろう。
それでも、私を風よけに使っている分だけ影響は少ないはずだ。
先ほどからまともに風を受け続けている私は、かなりピンチな状況へと陥り始めていた。風の中を進むせいで、体力消費が半端なく大きい。
さらには先ほどは心地よいと感じていた秋風もここまで強烈だと、痛いくらいに冷たく感じてしまう。
この冷たさが体をものすごい速さで冷やして行き、体温を奪っていく。
このまま行けば、橋を渡り終える頃には、まともに風を受けている私とえいりんでは、体力的余裕にかなりの差が出てしまう。
まだ橋を渡り始めて60mも走っていない。
そのわずかな間で、私は天国から地獄へと落とされていた。
とにかく、橋を渡り切ってこの強風から逃げなければ。
そう思いペースを上げようとするが、風のせいで体はなかなか前へと進んでくれない。せめて追い風なら良かったのだが、先ほどから風はずっと向かい風のままだった。
それでも、少しでも早く金魚橋を渡り終えたい私は、臆することなく風に向かって行く。もちろん、この強風から逃げたいという思いもあるが、えいりんが有利な状況を1秒でも速く無くしてしまいたいという気持ちもあった。
そう思いながら、風を受けつつ必死で走っていると、自分の息が今まで以上に上がって来る。
普段なら、息が上がるくらいに必死で走ると、体中が熱くなって来るのだが、今はあまりにも風が冷たいせいで体温がどんどんと下がっていっているのが分かる。
そして次の瞬間、私は決定的なことに気付く。
えいりんの呼吸音がほとんどしないのだ。
橋を渡り始めた時には確かに私と同じくらい息が上がっていたのに。
私を風よけに使うことで、えいりんの体力は呼吸が整うほどに回復していると言うことか。
その事実が私をパニックに落とし入れる……。
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