264区 聖香VS藍葉
藍葉を部室に案内し、アップをしていると急に緊張感が出て来る。
藍葉との対戦も、中学3年生以来3年振りだ。
藍葉は気付いてないかもしれないが、私は体力がまだ完全に戻り切っていない。
その状態でどこまで藍葉と戦えるのだろうか。
でもさっき、藍葉は気になることを言っていた。「えいりんに負けた」と。言い方を変えれば、今の藍葉よりもえいりんの方が速いことになる。
つまり、ここで藍葉に勝たないと、えいりんにも絶対に勝てないと言うことか。
色々と考えても仕方がない。
まずは藍葉との勝負に集中しよう。
スタート地点に並んだ時、私も藍葉もランパン・Tシャツ姿だった。
「制服姿といい、その姿といい、なんか今日は初めての姿を色々と見れたわ」
「ふん。そうやって、私を油断させようとしても無駄よ」
素直に意見を言っただけなのだが……。
まぁ、積る話は勝負が終わってからだ。
私と藍葉、2人だけでスタートラインに並ぶ。
だが、よくよく考えると、最近はいつも1人だったので、誰かと練習が出来るのはちょっと嬉しい気がした。
紗耶の合図で私と藍葉が勢いよくスタートする。
まず先頭に立ったのは藍葉だった。
私は藍葉の後ろにぴったりと付く。
こうして藍葉の後ろを走っていると、まるで中学生の時に戻ったようだ。
あの頃は、私と藍葉それにえいりんで県のトップを争っていた。
藍葉独特の走りのリズムが、私に昔のことを色々と思い出させてくれる。
トラックを一周して400mを通過する。
「72、73、74。一周74秒だよぉ~」
リハビリ中のためマネージャーに回っている紗耶がタイムを告げる。
復帰した時は、この通過タイムで1000mすら走れなかった。
だが、今なら3000mまで行けそうだ。
まぁ、その分ここ一ヶ月で何度も地獄を見たが……。
本当に永野先生は容赦がなかった。
ポイント練習もその日に突然言われるし、私が一番きついラインをよく熟知しており、いつも倒れる寸前ぎりぎりにタイムが設定されていた。
その設定タイムが少しずつ上がって来ると、自分の体力も戻って来たんだなと実感出来た。
それだけがここ一ヶ月で唯一の楽しみと言ってもよかった。
本当にそれくらいに練習がきつかった。
「聖香。ファイト。落ち着いて行こう」
グランドの外周を逆走でジョグしていた麻子が声を掛けてくれる。
その応援を背に、私は藍葉にぴったりと付いて行く。
そのままの状態で1000mを通過する。
通過タイムは3分8秒。
やはり、誰かが前を引っぱてくれるとかなり楽に走れる。
中学時代、私と藍葉、えいりんが競う場合は、いつもラストまでもつれたものだ。
今回もそうなる可能性は非常に高い。
ただ、私は体力が完全に戻り切っていない。
その状態でラストスパート勝負は、リスクが高い気がする。
それに、藍葉のラストが高校生になってから随分と強くなったのは、何度も見て来たレースで嫌というほど知っている。
だからと言って、今前に出るのも……。
私は選択を迫られていた。
今日に限って、永野先生は一切指示を出してこない。
すべて私の判断に任せるということか。
それに、受け身になるなんて私らしくない。
レース中、私はいつも積極的に勝負をして来た。
どうやら、そんなことまで自分は忘れてしまっていたようだ。
私は意を決して、残り3周の時点で藍葉の前に出る。
私が前に出た後200mは、藍葉もぴったりと付いて来た。
だが、それを過ぎると藍葉の呼吸音と足音がだんだんと遠ざかっていく。
勝負はあっさりとついてしまった。
もちろんラストで追い付かれることも心配していたし、ラスト1周は倒れても良いくらいの勢いで、がむしゃらに走った。
普段の練習も「ここで追い込まないと駅伝でやられてしまう」くらいの気持ちで走っているが、真剣勝負で後ろから追いかけられるのは、緊張感がまるで違った。
そう考えると、えいりんと勝負する前に、こうして藍葉と勝負出来たのは幸運だったのかもしれない。
「9分29秒」
ゴールラインを駆け抜け抜けると同時に、紗耶がタイム告げる。
後ろを見ると、藍葉がもう少しでゴールするところだった。
「9分36秒」
タイムを聞いた藍葉はがっくりとうなだれていた。
いや、十分に速いタイムだと思うのだが……。
「分かってるわよ! 自分でも分かってたわよ。勝てないことくらい!」
息も絶え絶えに藍葉が叫ぶ。
その姿は、大声を出し、必死に酸素を取り込もうとしてるようにも見えた。
「とり合えず2人ともダウンジョグに行け。話しはその後だ」
永野先生に指示さて、私と藍葉はウインドブレーカーを着てジョグへと向かう。
その間、藍葉は一言も喋ろうとはしなかったし、私もなんと声を掛けてよいのか分からなかった。
ダウンジョグを終え藍葉を見ると、眼に涙を溜めていた。
「藍葉?」
「最初から結果なんて分かってたわよ。市島瑛理にまったく歯が立たなかったのよ? それなのに、あなたに勝てるわけがないじゃない。それにここ最近、タイムがまったく伸びないし。それでも、このまま勝負せずに終わるのは絶対に嫌だったの! いいわよ。笑いなさいよ! 負けると分かってて、部活をサボってわざわざこんな所にやって来た私を!」
私に叫びながらも、藍葉の眼からは涙が流れ始めていた。
中学生からの付き合いだが、藍葉が泣いた姿を見せたのは初めてのような気がした。
普段はレースで負けても、不機嫌そうにするだけなのに……。
と、永野先生が私達の所へやって来る。
「あまり心配はしてないが……。山崎、今回のことは城華大附属のメンバーには黙っておいてくれよ。もちろん、阿部監督にもだ」
「いえ。何があっても言いませんよ。ばれたら私が怒られます」
「それもそうだな。てかお前、澤野のことは聞いてるのか?」
「はい。市島瑛理からそれなりには」
「また市島か……」
永野先生はため息を付く。
「本人の意思だからどうこう言わんが、素直に熊本にいてくれたなら、どれだけ楽だったか。まぁ、仕方ない。知ってるならそれでいい。今日の走りを見る限り、澤野はベストの状態で本番を迎えられそうだがな」
こう言う時、永野先生がお世辞を言わないのは、この二年半で十分に知っている。
だからこそ、その一言が素直に嬉しかった。
ここ最近のきつかった練習が報われた気がする。
「それと山崎。ライバル高校という損得を抜きにして、一教師、一指導者としてアドバイスしてやる。お前、一日でも早く病院行け」
永野先生の一言に、私はもちろん、藍葉ですら驚きの顔を見せる。
「先日の高校選手権を見た時、少し疑問に思ってたんだ。今日の走りを見て確信した。お前、軽い貧血になってるぞ。きちんと病院で見てもらえ」
言われて藍葉が「え?」と声をあげる。
「前回の検査は正常値でしたよ」
「阿部監督の指導方針が変わってないのなら、全員で病院へ検査に行くのは四ヶ月に一回だろ? この時期だったら夏合宿前に1回と、駅伝が終わって1回か。夏の走り込みが原因で貧血になる可能性だって十分にあるさ。まぁ、山崎が高校を卒業して競技を続けるかどうかは知らないが、きちんと治しとけ。明日にでも病院に行けば、駅伝の時も少しは違うかもしれないだろ。今日も病院に行ったことにして、『明日また検査になりました』とか説明しておけばよいだろう」
私は思わず吹き出してしまう。
永野先生は、藍葉の貧血を心配するだけでなく、今日部活をサボった理由まで考えてくれていたのだ。
まったく、どこまで優しいのだろうか。
藍葉は、永野先生に深々とお礼をして帰って行った。
「永野先生、優しいんですね。部活をサボった言い訳まで考えてあげて」
私はさっき思ったことを口にする。
と、永野先生に睨まれた。
「違うんだ。城華大附属の寮は色々と規則が厳しいんだよ。部活をサボったとばれたらどうなることか。本当に、あれは最悪だったぞ。サボたことを深く後悔したからな。それを知ってる分、知恵も貸したくなるさ」
それだけ言って、永野先生は記録をまとめている紗耶の方に歩いて行ってしまった。
それを聞いて私は、やはり十分に優しいなと思ってしまう。
それと、永野先生でも部活をサボったことがあるんだなと気付き、1人笑ってしまった。
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