231区 大人の駆け引き
そのゲストがやって来たのは5日目の午後だった。
昼食を済ませた直後に合宿所の前に一台の車がやって来る。
白の軽自動車に初心者マークが貼られていた。
一体誰だろうか。
少なくとも先生方に初心者マークを張っている人はいないはずだ。
運転席から降りて来た人を見て、私は思わず声を上げる。
「宮本さんじゃないですか!」
昨年、文房具屋で会った時よりも若干髪は短くなっていたが、あの時以上に茶色に染まっており、それが夏の日差しに照らされて綺麗に光っていた。
「宮本さん、相当走ってますね」
Tシャツ半パンで車から降りてきた宮本さんを見て、私は気になったことを口に出す。
半パンから見える脚は、全くと言って良いほど無駄な脂肪がなく、細いながらもがっちりとしていた。
私の質問に宮本さんは笑顔になる。
「最近は月に600キロくらい走ってるんよ。これも澤野のおかげなんやけどね。昨年、澤野が電話して来んかったら、きっと今も走ってなかったと思うんよ。あの電話がきっかけで頑張ろうって気になったもん。もちろん小柴にも感謝してるけどね。あ、今日ここに来ることを小柴に話したら、日本選手権優勝おめでとうって伝えておいてだって」
私と宮本さんのやり取りを、みんなが遠巻きに見ているのに気付いた。
宮本さんをみんなに紹介し、永野先生を呼びに行く。
「どうだ澤野。ビックリしたか?」
「ええ。まさか宮本さんが来るとは思いませんでしたよ」
その言葉を聞くと、永野先生は嬉しそうに鼻歌を歌いながら、宮本さんの所へと向かう。
宮本さんは宿泊部屋におり、すでにみんなと打ち解けたようで、楽しそうに話しをしていた。
「お疲れ宮本。悪かったな突然呼んで」
「とんでもないです。むしろこちらこそ呼んでいただきありがとうございます。ましてや一緒に練習をさせてもらえるなんて。最近1人で走っているので、こんな貴重なチャンス滅多にないです」
永野先生の声を聞くと同時に、宮本さんは話しを辞めて立ち上がり、深々と永野先生にお辞儀をする。
あ、やっぱり宮本さんは走るためにやって来たのか。
まぁ、どう考えてもお茶を飲みにきた感じではないが……。
しばらく宮本さんと雑談をしたのち、午後練開始時間となる。
今日の午後練は3000mタイムトライ。
午前中に15キロのクロスカントリー走をやっているため、脚はパンパンだ。
私達がグランドに出ると、一台の車が大きな音を立てながら入って来た。
その車を見て一瞬目を疑った。
あきらかに見覚えのある車だ。
でも信じられなかった。
なぜここに。
白のRX=7から降りて来たのは、やはり牧村さんだった。
どうして関西にある明彩大の監督がこんなところに。
牧村さんはまっすぐに私達の所へやって来る。
「牧村さんお疲れ様です。わざわざありがとうございました」
永野先生が丁寧に出迎える。
「まぁ、桂水市には一度来てるしね。迷いはしなかったけど。澤野、久々ね。考えが変わってうれしいわ」
牧村さんの笑顔とは対照的に、私は首を傾げる。
「牧村さん、その話は後で。取りあえず今らか3000mのタイムトライをやるので、見ててください」
永野先生は牧村さんに頭を下げ、私達に早くアップに行くように急かす。
アップ中にみんなが私に説明を求めて来たので、昨年合宿で行った大学の監督さんだと教えておいた。
ただ、みんなもなぜそんな人がここに? と疑問に思っていた。
もちろん、私自身まったく意味が分からない。
もしかしたら私の勧誘だろうか。
でも私の中では、理科教師という大きな目標があるので、明彩大に進学するつもりは全くないのだが。
牧村さんも見ている中で、私達は3000mのタイムトライを行う。
さすがに合宿中ということもあり、脚の動きはかなり悪かった。
元気いっぱいの宮本さんにまったく付いて行けず、終わってみれば20秒近い差が開いていた。
いや根本的に、宮本さんは9分20秒で走りきり、トップだったのだが……。
紘子が桂水高校に進学して来てから、城華大附属の住吉慶以外の相手に負けている姿を初めて見た。
紘子自身は合宿の途中ということもあるせいか、負けたことについてはまったく気にしていなかった。
そして、こんな状況にもかかわらず、朋恵は今回も3000mで自己ベストを更新する。10分15秒。あの朋恵がこんなにも早くなるなんて、一年前は想像も出来なかった。朋恵の努力と頑張りには脱帽だ。
タイムトライが終わった後、ダウンジョグが終わると、私は永野先生に呼ばれ、永野先生、牧村さん、私の3人で集まる。
「牧村さん。どうでした?」
「そうね。収穫は十分ね。澤野が昨年以上に強くなってて安心した。やっぱり無理を言って、S級推薦枠を今年は特別に一つ増やしておいて良かった」
嬉しそうに話す牧村さんを見ると心が痛い。
どうあっても、私は明彩大には進学するつもりはないのだから。
そんな牧村さんを見て、永野先生が一瞬だけ嬉しそうな表情になったのを私は見逃さなかった。
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