218区 永野先生を知る有名人

空港から一度ホテルへ行き荷物を預け、電車を数回乗り換え、国立競技場へと向かう。


「高いレベルの競技を生で見るのも良い経験だ」

と、永野先生は初日から私を競技場へと連れて来てくれたのだ。


ちなみに今日のメインは女子の1万m。

私が出場する女子3000m障害は、最終日3日目の午後3時からとなっている。


「うわ! 国立競技場ってこんなに大きんですか?」

目の前に現れた建物に思わず驚きの声を上げてしまう。


ふと、私も麻子や朋恵、アリスのことをどうこう言えないなと感じた。


「取りあえずスタンドへ行くぞ」

私の一言に苦笑いしながら、永野先生が私にIDカードを差し出す。


県高校総体だと、誰でも自由に競技場のスタンドに入れるのだが、なんと日本選手権は違うらしい。


観戦にはチケットが必要で、選手や関係者は首から掛けるタイプのIDカードを提示しないとスタンドには入れないそうだ。


ちなみに私のIDカードには「選手」、永野先生のIDカードには「監督」と言う文字が入っていた。


それにしても、これだけ大きい競技場のうえに初めての場所。

永野先生からはぐれると迷子になりそうだ。


携帯電話の番号を知っているので、迷子になっても電話をすれば良いのだが、絶対にその後で何かを言われるに違いない。


その永野先生は、さっきからまったく迷うことなく進んでいる。

もしかしたら実業団時代に来たことがあるのかもしれない。


でもなぜか、私はそのことについて質問する気にはなれなかった。

スタンドに繋がっているのであろう階段を上がり始めると、上から声がした。


ふとそちらを見上げる。


そこには私でも知っている人物が立っていた。

2年前の世界選手権女子1万mで8位入賞。

現在女子1万mの日本記録保持者、氷室みどりさんだ。


「やっぱり永野じゃん。あんたどうしてこんなところに? てか何年振り? もう走るの辞めったって聞いたけど? 現にあんたの名前まったく聞かないもん」


なんと水上さんに続き、氷室さんも永野先生の知り合いだったようだ。

本当に、永野先生の人脈はどうなっているのだろうか。


「久しぶりね。前回の世界選手権見たわよ。大したものね。ちなみに私、走るのはとっくに辞めてしまったわよ」

言いながら、永野先生が自分のIDカードを氷室さんに見せる。


「監督? どう言うことよ?」

永野先生のIDカードを見た氷室さんが、なんとも怪訝な声を出す。


「今は地元の高校で教師をしてるの。駅伝部の顧問をやってて、今日は生徒を連れて来たの」


永野先生は一歩階段を下りて私の肩を叩き、氷室さんに紹介する。


私も、「どうも」と会釈をする。正直、凄い選手を眼の前にして言葉が出ない。


それを考えると、水上さんの時はわりと普通に喋れていたのだが、あれはみんなでいたからだろうか。


「あなた出身は山口県でしょ? そんなところからわざわざ生徒を連れて来たの? 随分と指導熱心なのね。てか、1人だけ? 駅伝部なんでしょ?」

氷室さんは不思議そうな顔をして、私と永野先生を交互に見る。


「いや、別に見学に来たわけじゃないから。まぁ、今日は1万mを見に来たんだけど。この子を3000m障害に出場させるの。一応9分台を持てるし」


私の「選手」と書かれたIDカードを手に取り、私の顔の横まで上げると、ひらひらと氷室さんに向けて振りながら、永野先生が氷室さんに説明をする。


その説明を聞いて、氷室さんの顔色があきらかに変わった。


「あぁ……。なんか昨年、高校生で9分台を出した子がいたわね。あんまり興味なかったけど、美代ちゃんが騒いでたからなんとなく覚えてる。へぇ、この子がそうなんだ。まさか永野の教え子だなんて思いもしなかった」


氷室さんが階段を下りて私の前に立ち、じっと私を見つめてくる。


氷室さんから受けるプレッシャーと言うか威圧感がすごく、この場から走って逃げだしたい気持ちになる。


そして、この時初めて気付いた。

なぜ水上さんは話しやすく、氷室さんには言葉が出ないのか。

この威圧感のせいだ。


水上さんは自分でも語っていたとおり、出会た時には第一線からの引退が決まっていた。対する氷室さんは今でも現役バリバリだ。なんと言うか、第一線で戦う選手のオーラが話しかけにくい雰囲気を作り出しているのだ。


「そうだ。せっかくだから永野、携帯番号を教えてよ」

氷室さんが私から目を逸らすと、私は気付かれないようにそっとため息を漏らす。


その場で携帯の番号を交換し終わると、氷室さんは


「えっと……。ごめん名前を知らないけど、3000m障害の子も頑張ってね。それと永野、私が優勝するところをしっかり見といてよ。まぁ、世界選手権前の調整だから、後半からしか前には出ないけど」


と、永野先生を指差しながら立ち去って行った。


その後行われた女子1万m。

氷室さんは有言実行をしてみせる。


4000mまでは先頭集団の一番後ろに付き、そこから1000mかけてじわじわと前へと出ると、5000mからは独走だった。


「優勝すると宣言して、本当に出来るってすごいですね」


「あいつは超が付くほどの努力の人だからな。歳は私と一緒だが、高校の時なんてインターハイも都大路も出てないぞ。あいつは社会人で一気に強くなったんだよ。それこそ、とんでもない努力をしてな」

そう語る永野先生の口調は、なぜだかどこか寂しげに感じた。


そして日本選手権を見た後で、永野先生と晩御飯を食べる。


「なんだったら氷室も呼んでやろうか?」

永野先生の提案を私は丁重に断った。

正直、あの威圧感を感じながら食事をしても御飯が喉を通らない気がした。

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