219区 自分へのご褒美
食事を終えてホテルに帰ると、私はある事実を知らされる。
「ちょっと! なんで2人で一部屋なんですか!」
なんと、チェックインの時にフロントマンが私達にくれた鍵は一本のみだった。
「文句は校長先生に言ってくれ。このホテル、1人一部屋より、2人一部屋の方が1人あたりの値段が安いんだ。ようは予算が下りなかったんだよ。女性同士だしなんの問題もないだろう」
永野先生は鍵を受け取り、私にそれ以上反論をさせまいと、スタスタとエレベーターの方へと向かって行く。
私もこれ以上は何も言う気になれず、永野先生の後ろを黙って付いて行った。
部屋に入り荷物を置くと、そのまま永野先生はベッドへとダイブする。
いやいや、だらけすぎでしょう。
「いやぁ、それにしても公費で年3回も旅行に行けるとは思わなかったな」
「3回? どう言うことです?」
「簡単だろ。澤野の日本選手権、若宮のインターハイ、駅伝部の都大路」
「私以外はまだ予選すら終わってませんが?」
まさに捕らぬ狸の皮算用だ。
「まぁ、昨年のようなアクシデントがなければ、若宮のインターハイは決まりだな。なんせ北海道はまだだが、各都道府県の総体が終わった時点で3000m8分台は全国でも4人しかいないからな」
「そう考えると、紘子ってやっぱりすごいんですね。全国でたった4人ですよ?」
私が心のそこから驚きの声を上げるのとは逆に、永野先生は苦笑いをする。
「いや、3000m障害で9分台を出している高校生は、過去を含めても日本でただ1人しかいないんだがな。そっちの方がよっぽどすごいだろ。8分台は歴代でみると何人かいるからな。北原だってそうだったし」
ふと懐かしい名前を聞いた気がした。
「そう言えば、久美子先輩って今何をしてるんですかね。昨年の夏合宿以来会ってないんですよね。葵先輩は頻繁に連絡を取ってたみたいですけど」
「なんだ? 澤野は連絡をとってないのか。北原なら保育士になるために、今年の4月から大阪の専門学校へ通ってるぞ。都大路に出場したら京都まで応援に来てくれるそうだ」
「えらく詳しいですね永野先生」
「まぁ、あいつとはよくメールしてるしな」
思わず私は永野先生の顔をまじまじと見てしまう。
久美子先輩と永野先生が連絡を取り合っているというのが、想像出来なかったからだ。
てか、久美子先輩は大阪にいるのか。
保育士なら広島県でも取れそうなのに、わざわざ大阪に行くなんて……。
ふと、麻子のお兄さんが大阪で働いていることと、1年生の冬に久美子先輩と2人で麻子の家を訪れたことを思い出した。
いやいや、まさかね。
前に麻子に聞いた時も、お兄さんはそのことについて何も教えてくれないと言っていたし、久美子先輩にわざわざ聞くのも気が引ける。
「まぁ、それは良いとしてだ。プログラムを見る限り、今回3000m障害に出場しているメンバーのうちで9分台を持ってるのは澤野と柏場美代の2人だけな」
先ほど競技場で買ったプログラムを見ながら、永野先生が私に教えてくれる。
とは言うものの、いきなり知らない名前が飛び出して私は困惑した。
いや、美代と言う名前。
昼間、氷室さんが口にしていたような気が……。
「その柏場美代って人はもしかして?」
「そう。現在女子3000m障害日本記録保持者。昨年度は9分53秒73のランキング1位。ちなみに昨年度まで、日本選手権女子3000m障害4連覇。まぁ、今期はまだ1本も走っていないし、もしかしたら調子が悪いのかも知れないが」
「いやいや、試合に出てないからって、調子が悪いってわけでは……」
「うーん。少なくとも柏場はそういう性格だったからな。自分が納得の行く時しかレースに出てこないというか……」
どうも永野先生の口ぶりを聞くあたり、柏場さんとも知り合いのようだ。
水上さんに氷室さん、柏場さんと日本でも上位で活躍する人達と知り合いという事実に、改めて永野先生の凄さを実感する。
次の日は、最終調整ということで軽めのジョグと流しで練習を終える。
あまり疲労を溜めすぎないようにと、それ以外はホテルでゴロゴロしていた。
「私はちょっと東京観光をして来るから、大人しくしとけよ。このことは、くれぐれも他の先生には内緒な。お土産買って来てやるから」
永野先生は早朝にそう言い残して出かけて行き、部屋に帰って来たのは夕方だった。
しかも両手いっぱいに荷物を抱えていた。
「やっぱり東京は物が揃うな」
買って来た洋服やアクセサリーをベッドに並べ、永野先生は嬉しそうに整理を始める。
「いったい何をしに先生は東京へ来たんですか?」
「飛行機に頑張って耐えたから、自分へのご褒美があっても良いかなって」
私がため息交じりに尋ねると、永野先生がそうつぶやく。
返答に一切の迷いを見せない永野先生。
そんなにも飛行機が怖かったのだろうか?
「あの、先生? ひとつ思ったんですけど……」
「うん? なんだ?」
「紘子がインターハイに出たらどうするですか? 今年って確か北海道で開催でしたよね? 飛行機で往復でしょ? 大丈夫なんですか?」
その一言を聞いた永野先生の顔を見る限り、とても大丈夫そうではないことが分かった。
と言うより、紘子がインターハイに出るだろうと予想していても、移動が飛行機になるということは考えていなかったのだろう。
まるで子供のような泣き顔になる永野先生。
この顔を見るのは昨日に続き2度目だ。
ダメだ、本当に可愛い。
このままでは目覚めてはいけない趣味に目覚めてしまいそうだ。
自分の思いをかき消すかのように、永野先生の頭を優しく撫でる。
よく見ると、永野先生は若干目に涙を溜めていた。
ここまで来ると、なんだか逆に可哀想になって来た。
そんなやり取りをした後、また2人で食事に出かけ、私はお風呂に入り、ミーティングを終わらせ早めに就寝する。
私に合せてくれたのだろう。
永野先生も随分と早く寝入ってしまった。
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