217区 飛行機VS永野先生
県総体終了から数日後。
私は永野先生に付き添われ、日本選手権へと出発する。
今年の日本選手権は国立競技場で行われる。
家族で遊びに行って以来、4年ぶりの東京だ。
早朝に永野先生が車で私の家に迎えに来てくれ、そのまま空港へと向かう。
最寄りの空港まで永野先生の車で1時間半の距離だ。
空港での手続きを終え飛行機に乗り込むまで、永野先生にしては珍しく、事務的な会話以外まったく喋らなかった。
もしかして機嫌でも悪いのだろうか。
最初はそう考えていたが、そうではないことに気付く。
「あの? 永野先生もしかして飛行機初めてですか?」
飛行機に乗り込み、座席に座って出発を待っている時に私が尋ねると、どうやら図星だったらしく、永野先生は困ったような顔になる。
なるほど。だから喋らなかったのか。
そう言えば、私も初めて飛行機に乗った時は随分と緊張したものだ。
ちなみに窓側に永野先生が座り、通路側に私が座っている。私の左側が永野先生だ。
座席は通路を挟んで左右に3列あり、私の隣には、これから出張にでも出かけるのだろうか、スーツを来た男性が座っていた。
「なんか澤野が余裕ぶっててムカつく!」
まるで小さな子供が拗ねているような表情で、私を睨んでくる永野先生。
「まぁ、家族旅行などで7回くらい乗ってますから。と言うより、先生は実業団時代、全国各地で試合があったんじゃないんですか?」
「あったけど、新幹線で移動だったな。たまに会社の車だったり。海外で試合をしたこともないから、結果として飛行機に乗る機会もなかった」
気のせいだろうか。どうも永野先生の声が震えているような気がしてならない。
少し経つと、定刻どおりに出発することを告げるアナウンスが流れる。
この放送を聞いて、永野先生は一度だけ大きく深呼吸する。
飛行機が動き出し滑走路を走り出す。
最初は驚いていた永野先生。
だが、しばらく走っているうちに慣れて来たのだろうか、落ち着きを取り戻す。
が、離陸するために最終加速を始め、エンジン音が変わるとビクッとなり、離陸し始めて機体が上昇すると「うわっ」と小声をあげる。
ただ、窓側の席だったため、そこから見える景色にはいたく感動していた。
どうも、高所恐怖症で飛行機が怖い訳ではないようだ。
その代り、その後がいけなかった。
「お客様にご連絡いたします。これより先、乱気流の影響で強い揺れが生じる可能性があります。シートベルトの着用をお願いします」
アナウンスが流れると同時に、永野先生が泣きそうな顔をして私を見て来る。その顔を見た時、「なんだか子供みたいで可愛い」と私は能天気に思ってしまったが、きっと本人にとっては全く笑えない状況だったのだろう。
機体が右に大きく傾くと、永野先生は私の左手をぎゅっと握って来た。
その手は冷や汗でかなり冷たくなっていた。
機体も安定し、シートベルトを外せるようになると永野先生は「ごめん。ちょっとトイレ」と言って席を立つ。顔が真っ青になっており心配になったが、戻って来ると多少元気そうになっていたので安心する。
その後は何ごともなく飛び続け、しばらくすると着陸のために飛行機が高度を下げ始める。
どんどん大きくなる景色に安心したのか、永野先生は安堵のため息をつく。
「ようやく飛行機が落ち始めてくれた」
「いやいや。落ちてませんから。着陸態勢に入っただけですよ。大事ですよこれ。間違わないでくださいね」
縁起でもない発言に、私は慌てて修正を求める。
あきらかに他のお客さんが永野先生を睨んでいるし。
このまま無事に終わるかと思われたが、最後の最後でまたアナウンスが流れる。
「ただいま、羽田近辺は非常に強風となっております。着陸時に多少の衝撃があることが予想されますが、ご心配はございません」
思わず永野先生を見ると、たった今の安堵はどこへやら。
さっきのように恐怖に怯えるような顔になっていた。
着地する寸前、まるで飛行機がバウンドしたのでは? と思うくらい、強い衝撃を受ける。これが永野先生にとどめを刺してしまったようだった。
空港のロビーのソファーに座って、眼の前を通り過ぎる人を何気なく観察していた。みんな私達とは対照的に、忙しそうに歩いている。ここに座り込んでかれこれ30分は経っているだろうか。
隣に座っている永野先生は「少し休ませてくれ」と言い残し、うつむいたままピクリとも動いていない。
と、先生がようやく顔を上げる。
「よし決めた。澤野、帰りは新幹線で帰ろう。お前の分は私が全額出してやるから」
どうも相当怖かったのだろう。永野先生は帰りの飛行機を拒否する選択に出た。
「私はべつに良いですけど、先生は良いんですか?」
「当たり前だろう。多少のお金を出して、あの恐怖を経験せずに済むんだぞ」
「いえ、お金は出してもらう身なので、どうこう言えないのですが……。先生の車、空港に置きっぱなしですよね?」
私の一言に、永野先生は人生が終わったような顔になる。
たっぷり10秒はそのままだった。
「いや、待て。うちの実家にあの車の合鍵があるんだ。それを持って両親が車で空港まで行って、帰りは2台で帰ってくれば完璧だな。私は実家まで電車で帰れば良いんだし」
独り言のように早口で喋り、携帯電話を取り出すと、どこかに電話を掛けだす。どうやら母親に電話したらしく、今思いついたことを説明し始める。
交渉は上手く行ったのだろう。
電話を切ると、永野先生の表情は雨上がり後の青空のように明るく輝いていた。
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