197区 嵐過ぎ去る
姉が彼氏を連れてくるというのは、初の出来事だ。
高校生の時にもいたことは知っていたが、家に連れて来たことはなかった。
いつもは寡黙でリビングのソファーに座ると動かない父が、さっきからウロウロと家の中を行ったり来たりしている。さすがの父でも落ち着かないようだ。
掃除を終え、少しオシャレな服へと着替え、もう一度綺麗に髪をとかしてリビングに戻る。よく考えると、姉は彼氏について一切の情報をくれなかった。
いったいどんな人が来るのだろうか。
相手の人物像を想像すると、なぜか私まで緊張してしまう。
だからこそ、玄関のチャイムが鳴り、姉の声が聞こえた時にビクッとなって、座っていたリビングのソファーから落ちそうになってしまった。
リビングに向かって、2人分の足音が向かって来る。
その音は、まるで駅伝のスタート前のような変な緊張感を私にもたらしていた。
「ただいま。連れて来たわよ」
「初めまして。結依さんとお付き合いをしております、坂巻慎司と申します。よろしくお願いします」
坂巻さんが父、母、私の順で目を合わせ深々とお辞儀をする。
坂巻さんの顔を見た時、私は久美子先輩を思い出した。
久美子先輩はメガネにショートカットで、まるで社長秘書が似合いそうな雰囲気だった。坂巻さんも同じようにメガネをかけ、スポーツ刈りに近い髪型。それがすごく真面目そうな雰囲気で、なんとなく久美子先輩と似ている感じがしたのだ。
「それと、これ。お口に合うかはわかりませんが、どうぞ」
坂巻さんがすっと何かを差し出す。
「まぁ、わざわざすいません。こんなことしなくても良いのに」
母が坂巻さんにお礼を言いながら受け取る。
なんとも定番のやりとりだ。
と、坂巻さんがもう一つ何かを取り出して、私の目の前に差し出す。
「はい、妹さんにはこっち。熊本でも有名なチョコレート専門店のチョコレートだよ」
突然の出来事に、私は戸惑ってしまった。
家に手土産を持って来られるのは十分に想像できていた。
だが、まさか私に個別でとは……。
あまりの驚きに、「あ、すいません。あ、あの、ありがとうございます」と、たどたどしい返事しか返せず、母親に軽く頭をしばかれてしまった。
「さて、立ってても仕方ないでしょ。せっかくですから、御飯でもどうぞ」
母の一言で全員が食卓へと向かう。
と、ふと気になることがあった。父がさっきから一言もしゃべっていない気がする。
食事が始まっても、メインでしゃべるのは母親で、それに坂巻さんが答えている。
いったいどうしたのだろうと思ったが、その理由はすぐに分かった。
「お父さん。さっきから何黙ってるのよ。なんかしゃべりなさいよ。どうせ、娘が初めて彼氏を連れて来たからどうしたら良いか分からないんでしょ?」
笑いながら、父の肩を叩く母。いつもなら「違う」とか「そんなんじゃない」とか言い返す父が何も言わないところを見ると、どうやら図星だったようだ。
ふと、姉を見ると必死で笑いを我慢していた。姉の隣に座る坂巻さんはなんと返事をしたら良いのか分からないのだろう。随分と、困った顔をしていた。
まぁ、いつもの父を知っている私達だからこそ、面白いのであって、初めての坂巻さんは対処に困るのも当然だ。
と、私は坂巻さんに対してある疑問が浮かんだ。
「あの~坂巻さん。ひとつ聞いてみたいんですけど、うちの姉のどこが良かったんですか? 掃除は出来ないし、性格悪い……」
話の途中で、言葉に詰まる。机の下で姉が私のすねを思いっきり蹴って来たのだ。
てか、何気にかなり痛いのだが……。
しかも蹴った姉はにこやかに笑っている。とんでもない悪女だ。
「いや~何というか……。結依さんと一緒にいると話が弾むし、明るいし。あと料理がすごく上手で」
なんとも嬉しそうに語ってくれる坂巻さん。
そして、それを幸せそうに聞いている姉。
その表情は、もう私の知っている姉とは完全に別人だ。
これが恋と言うものなのだろうか。
その後も、母があれこれ質問をし、姉が坂巻さんとの出来事を色々と話す。
その話をつなぎ合わせて分かったのは、どうやら姉と坂巻さんは同い年で同じ学科ということだ。
さらには付き合い出したのは大学1年の冬。もうすぐ付き合い出して3年になるらしい。それと、姉が実家に全く帰って来なかったのも、坂巻さんがいたからだった。坂巻さんの実家が熊本市内にあり、長期休みの時は2人で一緒に過ごしていたらしい。
なんともお腹いっぱいになる話だ。
ちなみに父は、ずっと黙ったままだった。
食事をした後、母の強い勧めでそのままリビングでお茶をすることに。
それが終わると何度もお礼を言って坂巻さんは帰っていった。
なぜか、姉まで一緒に……。本当になんのために帰って来たのだか。
姉と坂巻さんが帰り、すっかり我が家はいつもの生活に戻る。
正月だというのに、いつもと変わらない生活もどうかと思うが。
いや、駅伝部のみんなから年賀状も届いたし、明日は祖父の家に家族で行く予定なので、十分に正月を満喫しているはずだ。
ただ、いつもの生活に戻ったとは言いながら、私の心は明らかにいつもと違っていた。
夜、寝ようとしてベッドに入ったものの、全く寝付けないでいた。
理由ははっきりと分かっている。
姉のせいだ。
坂巻さんと一緒にいる姉は、明らかに私の知らない姉だった。笑顔も家族でいる時のそれとは随分と違っていたし、声すらもいつもとは違っていた。
それこそ、恋する乙女……、いや、姉は乙女とは真逆の存在だが……。
もちろん、私だって誰かを好きになったことはある。
小学生の時は隣のクラスの男子が好きだったし、中学2・3年生の時は同じ陸上部の一つ下の男子が好きだった。
晴美からは「中学生で年下を好きになる女子って結構珍しい気がするかな」と言われていたが、好きになってしまったものは仕方がない。
ただ、自分から告白することもなかったし、それとなくアピールすることもなかった。
だから彼氏がいたことなんて、今まで一度もない。
告白されたのも……、この前のけいすい祭で紘子に告白されたのが生まれて初めてだ。女の子同士なのだが、あれだけ真剣な紘子の眼を見てしまったら、世間には公表出来なくても、私の中では数に入れておかないと、紘子に悪い気がした。
それと不思議なことに、高校生になってからは、好きな人自体がいないのだ。恋愛は不思議なもので、誰かを好きになろうと思ってもなれるものでもないし、逆に好きになる時は、相手が誰であろうとなってしまうものだ。
ふと、部屋の奥に目が行く。寝るために電気を消しているが、寝付けずベッドに入って随分時間が経っているため、暗闇に目が慣れてきていた。おかげで、ぼんやりと奥の壁にある物が見える。
数にして、8つの額が並んでいる。
さすがに中までは見えないが、すべて覚えている。
どの額にも賞状が入っている。
中3の時に県中学ランキング1位のタイムで優勝した1500m。
同じく中3の県中学駅伝4区区間賞。
高校1年の高校選手権800m優勝。
県高校駅伝1区区間賞。
今年の県高校総体1500m優勝。
高校選手権800m・1500m優勝。
県高校駅伝2区区間賞。
これで全部で8枚だ。
あと何枚この賞状を増やすことが出来るのだろうか。
と、自分が今好きな人がいない理由が分かった気がした。
きっと私は今、本気で走ることに恋をしているのだろう。
走るのが楽しくて仕方がないし、寝ても覚めても走ることを考えてしまう。
これを恋と言わずして、なんと言うのだろうか。
そこまで考えたら、急に眠気が襲ってきた。
眠りに付きながら、ふと、ある考えが浮かんでくる。
私もいつか、姉のように誰かと付き合うことがあるのだろうか。
その時の私はどんな声で笑っているのだろう。どんな顔で、相手を見つめているのだろう。正直、今の私にはまったく想像のつかない世界だ……。
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