190区 聖香から麻子へ

歩道に『ラスト1キロ』の看板が現れる。


さすがに前半をオーバーペースで突っ込んだだけあって、息がかなり上がっている。


酸素を体に取り入れようとするたびに、ヒューヒューと言う、まるで秋風が落ち葉を吹き飛ばした時のような音が、自分の口から鳴っている。


それでも、脚はまだ前へ前へと進んでくれる。

なにより、心が前へと行こうとしているのが一番ありがたかった。


レース中に失速する原因の大半は心が折れることだと、永野先生に教わったことがある。


「体に限界が来ていても、気持ちが負けていなかったら走れるんだよ。その代り、そう言う時はゴールしてから倒れ込むがな。現に私も何度か経験がある」

私も総体の1500mで倒れ込んでしまったので、永野先生の言いたいことは十分に分かる。


今の自分は、このまま走り続けて倒れることが出来るだろうか。

そう考えると、不思議なことにまだ余裕がある気がした。


だったら倒れるまで走ってみようじゃないか。

そう自分に言い聞かせ、私はラストスパートをかける。


追っている時は相手が視界に入っているので、お互いの差が分かりやすいが、引き離す時は相手が後ろにいるため、どれだけ差を広げているのかが分かりにくい。


ここは、「自分の力をすべて出し切れば後ろとの差を広げられる」と信じて、自分に負けない走りをするしかない。


それに、後ろにいる工藤知恵との差を1秒でも広げたいという思いが、今の私を支えている唯一の力だった。


2区は平坦の直線コースのため、ラスト300m付近になると遥か先に人だかりが見え始めた。


麻子の待つ第2中継所。3区のスタート地点だ。


ラスト200m付近で私は早々とタスキを取る。


紘子からもらった時よりも重くなったそのタスキを両手で持ち、最後のスパートをかける。


中学生の時に、顧問の先生から「タスキを相手に渡す時は両手で持ち、相手が取りやすいようにまっすぐ伸ばして渡すように」と教わった。


と、麻子は大丈夫なのだろうかという思いが頭をよぎる。

よく考えたら昨年はアンカーだったので、誰にもタスキを渡していない。


いや、中学生の時に桂水市駅伝で渡しているので大丈夫だろう……。と、信じたい。


「聖香! ラスト! 頑張って!」

麻子の声で我に返る。

いったい自分は何を考えていたのだろうか。


もしかして本当に体が限界にきて、意識が飛びかけていたのだろうか?


麻子の声で我に返ったが、残りはまだ100m近くあった。


まったく、麻子め。今から走るのだから、そこまで大声を出さなくても良いのに。

残り50mになると麻子の姿もはっきりと確認できるようになった。


麻子がいつもレースで付けているピンク色の細いヘアバンドもはっきりと見える。麻子は中継所に立ちながら、早く走りたくてたまらなそうにソワソワと動いていた。


「お願いだから、余計な体力を使わずにじっとしていて!」

心のなかで叫ぶが、むろん麻子には届かない。


「聖香! ラスト!」

大丈夫よ麻子。そこまで両手を振らなくても、ちゃんと見えてるから。

あなたは、無人島の砂浜で沖にいる船を発見した漂流者か何かの?


「聖香お疲れ」

「あと任せた」

麻子に一言声をかけ、タスキを渡す。


本当に倒れてやろうと思って走ったが、案外倒れないものだ。


それとも、そう意識している時点で、まだ体には余裕があるのだろうか。


沿道の人達が携帯で中継を見ているのだろう。

更衣室へ着替えに行く途中で、解説の声が耳に入って来る。


「さぁ、2位の城華大附属が今タスキリレー。前を行く桂水高校とは15秒差。23年連続で都大路に出場している城華大附属。3区を1位以外でスタートするのは実に14年ぶりのことです。そして速報が出ました。2区を走った桂水高校の澤野の記録が、12分32秒で区間新記録。まだ、すべての選手が走り終わっていないので分かりませんが、2年連続の区間賞はほぼ間違いないでしょう。しかも今年は区間新」


言われて自分の時計を見ると、まだストップウオッチは忙しそうに動いていた。走るのに必死で止めるの忘れていたようだ。


更衣室で着替え終わり、競技場に向かうバスに乗ると、何人かの選手がすでに乗車していた。みんなそれぞれ携帯でテレビ中継を見ているのだろう。中継の声がバスの中にこだましている。


バスの前側に座り、私も携帯でテレビ中継を見る。

ちょうど麻子がラスト200m辺りに差し掛かっていた。


それを確認すると同時に影が映る。横を見ると工藤知恵が立っていた。

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