5区 『湯川 麻子』
湯川麻子は私を屋上に連れて来ると、絶対に逃がさないといわんばかりに私の前に仁王立ちし、間を置くことなくしゃべり始めた。
「昨日、あたしたちのこと見てたでしょ」
何も知らない人がこの状況を見たら、私が絡まれていると思うだろう。
いや、ある意味間違ってない気もするが……。
「あなた、この前もう走れないって言ったわよね? あれってどう言う意味?」
「いや、言葉どおりだけど?」
「だから理由を聞いているのよ!」
私の返答に湯川麻子はイライラした態度をみせる。
「父から『高校生になったら部活をするな』と言われているの。だから高校の陸上推薦も断って、この高校に来たのよ。本音を言うと走りたいって気持ちも少しはあるんだけどね。でも父は頑固だから。もうあきらめた」
自分の言葉に段々と寂しくなってきた。
ふと、こうやって私の置かれた環境を話すのは、幼馴染の晴美以外では初めてだと気付く。
どうしてこうもあっさりと、目の前にいる湯川麻子に話したのだろうか。私自身が誰かに聞いて欲しかったのか。それとも、目の前にいる彼女にはそうさせるだけの不思議な魅力があるのだろうか。
そんなことを考えていたから、湯川麻子の一言を聞きのがした。
「え? ごめん今なんて言った?」
慌てて私は聞きなおす。その行動が彼女の怒りを買ってしまった。
「馬鹿じゃないの! って言ったのよ!」
耳を塞ぎたくなるような怒鳴り声が返って来た。
「親がダメって言ったから走らない? だから高校の推薦も断った? 何それ。確かにあなたみたいな人が、この高校にいるのは変だと思ったのよ! あたしだって中3の時にあなたに勝ったのは奇跡だって分かってる。あの後、陸上部の先生から、あなたがどれだけすごい人間か聞いたもの。あなた、今の生き方に納得してるの? まぁ、今のあなたの顔を見ると、とても納得している様には見えないけど? そもそも、自分の人生を親に勝手に決められてそれで満足なの? 本当にやりたいことがあるんだったら、戦ってでも勝ち取りなさいよ! 戦いもしないのに敗者なんか気取るんじゃないわよ!」
湯川麻子のまくし立てに、私は何も答えられなかった。
そんな私を見て彼女は「もういい。じゃあね」と私を1人置いて屋上から去って行く。
彼女が勢いよく閉めた屋上と階段を繋ぐ扉を見つめながら、私は呆然とその場に立ちつくしてしまう。
湯川麻子という人間はいったい何者なのだろうか。
少なくとも私が今までに会ったことがないタイプの人間だ。
晴美とは幼稚園からの付き合いだし、喧嘩をしたことも何度かある。
だが、同級生から本気で怒られたのは生まれて初めてだ。
1人残された私に、強い春風が吹き付けて来た。
それは走る時に受ける風に似ていた。
体の体温を奪って行きながらも、気持ちを落ち着かせくれるどことない優しさがそっくりだった。
その風に当たると走っている気分がして来た。
今ならはっきりと分かる。
やっぱり私は走るのが好きだ。走りたい。
この気持ちをもっともっと味わいたい。
そんな思いが私の中から湧き上がって来る。
いや、ずっと前から湧き上がっているのに必死で押さえつけていたのだ。
そして、それとは別に、自分の心の中である決心が固まった。
ふと空を見上げる。入学式の日と同じように遥か彼方まで青空が続いていた。
ただあの時と違い、空は澄んで見えた
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