6区 親子喧嘩
「どうだ、高校生活は楽しいか?」
その日の夕食時、私の真正面に座る父がトンカツを箸でつまみながら私に聞いてきた。
昼休みに私の覚悟は決まっていた。
「あのね、桂水高校に女子駅伝部があったの。私、やっぱり走りたい。だから入部したいんだけど!」
私の言葉で食卓の空気が変わった。
父は箸を止め、母は気まずそうに私を見る。
「何を言いだすんだ。そんな暇があったら勉強しろと何度も言っただろう。中学の時は部活が強制だったから、やらせていただけだ。今の時代、女性でも勉強が出来ないと生き残れないぞ。つまらんことを考えるな。話にならん」
あからさまに父の声が低くなり、不機嫌になっているのが分かる。
今までの私なら、この空気に負けて何も言えなくなっている。
でも今日は違う。
湯川麻子に怒られた後、父にきちんと自分の意見を言おうと、私の中で決心がついた。
今日は絶対に怖気づいたりはしない。
「つまらないことじゃない」
私は膝が震えそうになるのを必死で我慢しながら、声を絞り出す。
「私にとって走ることは大切なことなの。楽しいし、やりがいがあるし。そりゃ苦しいことだっていっぱいあるけど……。それ以上に嬉しいこともいっぱいある。だから私はもっと走りたい」
「だったら、大人になって走ればいいだろうが。ワシは、お前のためを思って勉強をさせようとしているんだ。今勉強しておかないと、絶対に将来困るぞ。もっと先のことを見て生きろ。それが分からんということは、まだまだ子供ということだ」
父は私のことなど相手にしていないかのように、淡々と喋りながら箸を動かしだす。
「先のこと? 将来? じゃぁ、今こうして生きている私の気持ちはどうなるの? 今の私がやりたいことを我慢して、将来楽しく生きられるの? 私はそうは思わない。そもそも、私の人生でしょ? 心配してくれるのは嬉しいけど、自分の人生くらい自分で考えて歩きたい。人の言いなりなんて嫌!」
私が言い終わるや否や、右耳の横を何かがすっと通り抜けた。
直後に後ろでガチャンという物音が聞こえる。
父の左手にあるはずの御飯茶碗がなくなっていた。
「子供が分かったような口を聞くな!」
父の口調がより厳しいものになる。
「そうよ。私は子供よ! でもね、1人の人間なの。親のペットでもなければ、人形でもない。ちゃんとした、1人の人間なの!」
私も負けじと口調を厳しくする。
後は、何を言ったか覚えていない。
こんなにも親と喧嘩をしたのは生まれて初めてだった。
その後も、父との喧嘩は30分くらい続いた。
結局話はつかず、私は御飯を途中で辞めて自分の部屋に逃げてしまった。
真っ暗な部屋でベッドにうつ伏せていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「聖香。入るわよ」
私の返事を待たずに母が部屋に入って来る。
まぁ、今の私は返事をする気もなかったのだが。
「なに?」
私はうつ伏せのまま、母の顔も見ずに気だるい声を出す。
一瞬怒られるかと思ったが、もうそんなことはどうでもよかった。
「聖香がお父さんにあんなこと言うのは初めてね。結依は、よく喧嘩していたけど」
母は少し嬉しそうに、まるで独り言のように喋る。
そういえば、姉はよく父と喧嘩をしていた。
姉が大学に行ってからは、すっかりそれも聞かなくなってしまった。
「お父さんが、走りたいのなら、駅伝部に入っても良いって」
母の言葉に私は勢いよく体を起こす。
「お父さんも自分で言えば良いのに。聖香があんなふうに自分の意見を強く言ったのって初めてでしょ。お父さんも何か思うことがあったのでしょうね。ほら、後は自分で話をしなさい」
母は早く父の所に行くようにせかす。
マンションの12階にある我が家は、私の部屋からリビングまでドア一枚だ。
部屋を出ると、すぐ目の前に父の背中があった。
「お父さん」
私の膝はさっき以上に震えそうになっていた。
父は私の方を振り返ろうともせずに話し出す。
「ワシはお前の将来を思って、勉強をしっかりやらせようと思っていたが……。今のお前をまったく見ていなかったな。そこは謝る。それと、部活をやるには条件がある」
「なに……」
「走ることだけじゃなくて、勉強もきちんとやれ。それから、将来自分がどんな人間になりたいかを高校3年間でしっかりと固めて大学を選べ。偏差値やネームバリューだけで大学を選ぶな。あの結依ですら、そこだけはきちんとしていたからな。まぁ、もしもお前が走ることで大学や企業に行くことがあるのだったら、それは別の話だ。ワシからは以上。飯が途中だろ、食べろ」
私は「分かった」と、一言だけ返し食卓に戻る。
リビングからは、「お父さん、そういうことはちゃんと聖香の目を見て話しなさいよ。まったく、自分の娘に遠慮なんかして」と、父をからかう母の声が聞こえて来た。
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