第3話 臆病風邪

 体温計の液晶に並ぶデジタル数字は十分前とまるで変わらない値だった。季節の変わり目に北風が運んできた微熱は、いつまでも理沙の身体を出て行こうとしない。もう三日も学校を休んでいる。

「そんなすぐに下がったりはしないだろ」

 椅子に腰掛けた葵がベッドに横たわる理沙をどこか呆れた表情で見た。彼の手には序盤のページが開かれた文庫本が乗っている。すぐ横の本棚から今しがた見繕った一冊だ。

「別にいいの。他にできること無いんだし」

「寝ていればいい」

「さっきまで寝てたから眠くないの」

 理沙はそう言うと口を尖らせて寝返りを打った。口調こそ普段とほとんど同じだが、やはりいつも通りの溌剌さは無い。

「大丈夫なのか?」

「平気だよ。慣れっこだもん」

「慣れるようなもんじゃないだろうに」

 葵の言葉に理沙は何も言い返さなかった。晩秋の風に揺さぶられた窓が代わりに音を立てる。ハロゲンヒーターの灯ったこの部屋の中は暖かい。

「お前は昔から病弱だったよな」

「大丈夫だって。今回は楽な方。それより移しちゃわないかが心配だから帰ってもいいよ」

「俺には移らない」

「……何とかは風邪引かないって言うもんね」

 理沙は身体にのし掛かる布団を毛布ごと引っ張ると、表情を隠すように頭までを覆った。葵は小さなため息を吐く。

「似合わないぜ、強がってるの」

「別に強がってないけど」

「お前はちょっとわがままぐらいがちょうどいい」

 理沙は少しだけ布団を下げて顔を覗かせたが、葵と目が合うとまたすぐに隠れた。

「何か食いたいものでもあるか?」

「さっきお粥食べたからお腹は大丈夫」

「そうか」

 椅子が小さく軋む。ページの捲れる音。外の世界で街角を抜ける風。


「ねえ」

「ん」

「わがまま言っても嫌いにならないよね」

 膨らんだ布団の中から籠った声がした。弱々しい声色は風邪だけのせいではなかった。けれど葵は本の上に並んだ文字から目を逸らさず、ただ鼻で笑う。

「いつも俺がお前のこと嫌いになってると思うか?」

「……意地悪」

「何が欲しいんだ? 飲み物か?」

「違う」

「漫画でも買ってきてやろうか?」

「分かってて聞いてるくせに」

 鼻から上だけを出して理沙は不満げに眉を寄せる。寝汗で湿った前髪の奥から葵を力なく睨む。

「……はいはい」

 葵は本を閉じて棚に戻し、代わりに鞄から原稿用紙を取り出す。渋るような言い草とは裏腹に楽しげな顔つきだ。

「テーマは何がいい?」

「今は『風邪』以外思いつかない」

「分かった」

 葵のペンが原稿用紙の上を走る。不規則な律動が理沙の耳に届く。

 葵の腕が動くときの僅かな空気の流れ、気配。

 世界が創られていく。


 ◆


「そう、また風邪だって言うの」

 リビングでママが電話をしてる。たぶんパパだ。

「熱はないみたいなのよ。うん。具合が悪いって言って早退したの」

 ママの声はちょっと怒ってるみたいだった。それはきっと、僕がうその風邪をひいたと思ってるからだ。僕が風邪をひいたと言ったとき、ママは僕のことを信じてくれない。パパは信じてくれる。

 僕はうそをついてるわけじゃない。熱はないけれど具合はほんとに悪い。風邪をひいたときは、いつもめまいがしてるし、今日も吐き気が止まらない。

 ドアの陰に隠れていた僕をママが見つけた。

「ちょうど今起きて部屋から出てきたとこ」

 ママが僕にスマホを渡す。

「もしもし」

「おお、風邪だって?」

 やっぱりパパの声がした。

「ほんとだよ」

「分かってるよ。でも明日運動会だろ? 今日中に頑張って治さなきゃだな」

「いいよ、治んなくて」

 そう言うとママに頭を軽くはたかれた。おっかない顔をしてる。

「俺も今日は早く帰るから。あんまりママを困らせるなよ」

「はーい……」

 僕は電話を切ってママに渡した。

「切ったの?」

「切った。パパ、早く帰るって」

「そう」

 部屋はなんだか心細いからリビングにいようかと思ったけど、ママの機嫌が悪そうなので部屋に戻ることにした。


 明日は運動会だ。走るのは嫌いだ。だから僕は走るのがいらない種目だけに出ようと思ってた。でも運動会の最後にある全員リレーだけは別扱い。足の遅い人も無理やり参加させられる。どうしてもやだって言ったけど先生は許してくれなかった。

 今日も二時間目の体育で最後の練習があった。せっかく勝ってたのに僕が三人に抜かれたせいでチームは負けてしまった。最悪の気持ちになった。それからだんだん具合が悪くなってきて結局早退した。

 たぶん無理やり走ったせいで風邪をひいたんだ。このまま風邪をひいたままだったら明日の運動会も休めるからいいのに。でもこんなことを言ったらまたママに怒られそうだ。


 ベッドに横になっていたけど気分は全然良くならない。ママが頭を叩いたせいで余計に悪くなった。眠れずにごろごろしてると、インターホンのピンポンが鳴った。

「あらー、ありがとう」

 明るく振る舞うママの声がリビングの方から聞こえてきた。ママの友達かもしれない。そう思ってたらママが部屋に入ってきた。

「あなたにお客さんよ」

「僕に?」

「クラスのヒロくん」

 名前を聞いて僕はむっとした。

「なんの用?」

「なんで怒ってるの。今日のプリント届けに来てくれたんだって。ちゃんとお礼言うのよ?」

 ママに急かされて玄関の方に行く。パジャマだとみっともないからって上からジャンパーを着せられた。

 ドアを開けるとヒロくんがニコニコして立ってた。

「お、具合治った?」

「そんなに早く治るわけないじゃん」

「えー、なんでだよ。明日運動会なんだからちゃんと治せよな」

 ヒロくんはランドセルを漁って、たぶん僕に持って来たプリントを出した。ヒロくんががさつなのでプリントがシワになってる。

「いいよ。運動会なんか別に楽しみじゃないし」

「えー、なんでだよ」

「僕はヒロくんみたいに運動神経良くないし。僕が出たらリレー負けちゃうし」

「そんなわけないじゃん」

「あるよ。今日の練習だって僕のせいで負けたし!」

 僕はイライラして大きい声で言った。でもヒロくんはキョトンとしてる。

「だって今日は練習だろ? 今日はクラスの中でチーム分けしたんだから明日の結果には関係ねーよ」

「でも僕が出ない方が絶対にいいよ」

「だって代わりに誰かが二回走るんだぞ?」

「走ってもらえるならそれでいいじゃんか」

「無責任なやつだなー。二回も走ったらめっちゃ疲れるに決まってるだろ」

「それでも風邪ひいてる僕が走った方が遅い」

「お前は強情だなー。……あ、分かった」

 ヒロくんが手を打った。ニヤニヤしてるのがすごく嫌な感じだ。

「お前、リレーに出たくなくて仮病使ってんのか!」

「ちが、違うよ」

「違うくないだろ」

「ほんとに風邪ひいてる」

「そのわりには元気じゃん」

 走りたくないのに走れって言われるし、ほんとなのにうその風邪だと言われるし、僕はヒロくんと話しててだんだん悔しくなってきた。

「僕のことなんかヒロくんには分かんないよ」

「なんでだよー」

「だってヒロくんは運動神経良いから、運動会でも活躍できるじゃん。僕なんか出ても迷惑かけるだけだし、なんも良いことないよ」

「そんなことないよ。頑張ったら楽しいって」

「頑張っても勝てなきゃ意味無い!」

「じゃあクラスが勝ったら? 嬉しいだろ?」

 そりゃあ、クラスが勝ったら嬉しいに決まってる。

「でも僕が出たら勝てなくなる」

「なんでだよー。明日は同じチームなんだぜ?」

 関係ないじゃんと言おうと思った。その前にヒロくんが笑った。

「ははっ、俺がいるチームが負けるわけないだろ!」

 風が吹いた気がした。今まで嫌いだったヒロくんの笑い声が、なんだかとても頼もしかった。

「ただし、皆が頑張ってくれなきゃ意味無いけどな」



 運動会の勝ち負けはリレーまでもつれ込んだ。

「大丈夫だって、心配すんな!」

 バトンを待つ僕をチームのアンカーが応援する。昨日までの風邪がうそのように心が体が軽い。

 手のひらにバシッと。皆の気持ちを握りしめて僕は走り出した。


 ◆


 理沙は読み終わった原稿用紙を枕元に置いた。外はすっかり夜の色になっている。風が窓を揺らしても部屋の中は暖かい。

「感想ぐらい言わせてくれれば良かったのに」

 葵のペンの音に誘われ、理沙はいつの間にか眠りの世界に旅立っていた。目が覚めた時にはすでに葵の姿は無く、代わりに机の上に原稿用紙の束が残っているだけだった。

「今日の世界はまっすぐだったね。シンプルだけど読みやすかったよ」

 その場にいない葵への言葉を呟く理沙。

「風邪だから気遣ってくれた、のかな」

 もちろん返事をする者はいない。指先で原稿用紙の裏を撫でるとほんの小さな声で答えた。

「明日はちゃんとお礼言わなきゃ……」


 体温計が鳴る。久しぶりに目にした平熱を示す値。明日は金曜日、久しぶりの学校だ。思わず顔も綻ぶ。

 理沙はもう一度原稿用紙を広げて、葵の創った世界に入っていく。筆を執る横顔を思い浮かべながら、深い秋の長い夜は静かに流れていく。

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世界はペンで創られる 蛍:mch @Hotaru_mch

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