第2話 秋雨讃歌
放課後の教室。校舎の外では、昼過ぎからの雨が降り続いている。
上の階から滴ってくる水の粒が、一定のリズムで窓のヘリにぶつかり、まるでメトロノームが雨音のコーラスを急かしているかのようだった。
「最悪だ」
葵は窓の向こうを眺めながら溜め息混じりに呟いた。それに理沙が半笑いで反応する。
「もしかして傘持ってきてないの?」
「降ると思わなかった」
「天気予報でやってたじゃん」
「見てない」
教室からグラウンドが見下ろせる。そこにはいくつもの水溜りができていた。足跡ぐらいの小さなものから、鯉が飼えそうなくらい大きなものまで。蓄えられた水の量を見るだけで、今日の雨の威力を伺い知れる。
葵は水溜りだらけの景色を眺めているだけで、理沙のいる方向に決して視線を移そうとしない。
「ひょっとして止むまで帰らないつもり?」
「濡れるのは苦手だから」
「じゃあ明日いっぱいはここにいることになると思うよ。職員室行って傘借りてくればいいじゃん」
葵に影響されたのか、理沙も少しふてくされた口調で言った。
対する葵は無言。中途半端に振り向いて彼女を一瞥すると、ゆっくりとまた顔の向きを戻した。
「はっきり言ってよ。言いたいことあるならさ」
「いや、別に」
「怪しい……」
理沙は目を細めて葵の横顔を見つめる。そして数秒後、彼女は納得の相槌を打った。
「さては授業中寝てたかなんかで、先生に会うのが気まずいんでしょ」
葵は小さく鼻を鳴らして返事をした。
「あー、やっぱりそうなんだー」
「……分かってるんなら代わりに取ってきてくれよ」
待ってましたと言わんばかりのにやけ顔を浮かべて、理沙は葵の正面に回り込む。驚いた葵の眉がぴくりと上がった。
「交、換、条、件!」
「傘と、何を?」
「世界」
目を輝かせる理沙を見て、葵は大きく伸びをした。彼の顔も笑っているように見える。
「テーマは?」
「うーん。『雨』かなあ、やっぱり」
「雨。分かった」
葵はそれだけ言うと、鞄から原稿用紙と筆入れを取り出した。理沙は向かい合うように椅子に腰掛け、その様子を期待に満ちた表情で見ている。
少しの間、二人の会話が途切れる。静かな教室を包む雨の音。かすかに響く鼓動。理沙の頬がわずかに赤らむ。用紙を広げペンを握った葵が、ぐっと椅子を引いた。
まさにペン先が紙に届こうというとき、彼の動きが停止する。
「ん。どうしたの?」
「紙が湿ってるんだ」
「世界、創れないの……?」
「厳しい」
理沙は一瞬だけ残念そうな表情をしたが、すぐに立ち上がって叫ぶ。
「私、原稿用紙貰ってくる!」
そして、葵の返答も待たずに教室を飛び出していった。
数分後、戻ってきた彼女の腕の中に、大量の原稿用紙が抱えられていた。目を丸くした葵が尋ねる。
「どうしたんだよ、それ……」
「先生から貰ってきた!」
「職員室でか?」
「うん。余ってたから特別にあげるって」
葵は何かを言いたそうに、睨むような目つきで理沙を見た。きょとんとする理沙。
「なんか変なことした、私?」
「いや、なんでもない。わざわざ職員室にまで取りに行ってくれてありがとう」
「うん?」
腑に落ちないという顔をしながらも、理沙はゆっくりと首を縦に振った。葵はもう一度、今度はさっきよりもゆっくりと伸びをする。
「さて」
葵の手に改めてペンが握られる。スローモーションのように伸びやかに、葵の呼吸に合わせてペンが最初の一画を描いた。
満足できる書き心地を得られたことを、彼の顔の綻びが語っている。理沙は思わず自分の制服の胸元をぎゅっと握った。心音と雨音が重なって聞こえていた。
二人だけの放課後の教室、またひとつ、世界が創られていく。
◆
『今日は早く帰ってきて』
タクシーに乗り込んだ男は、スマホのディスプレイに浮かび上がったメッセージを見た。それは、家にいる彼の妻からのものだった。
彼は運転手に自宅の場所を伝えると、『今から帰るよ』という短い返答をした。
窓の外は大雨。数年に一度というレベルの、激しいゲリラ豪雨だった。
「お客さん、これ使いませんか?」
「あ。ありがとうございます」
運転手が手渡したのはタオルだった。男は素直にそれを受け取り、スーツや髪の毛の水滴を拭き取る。
「いやあ、すごい雨ですね」
「本当ですよ。電車もちゃんと動いてないみたいで」
「それで駅前、あんなに混んでたんですね」
「はい」
そのとき、男の手元のスマホが小さく振動した。『美香も待ってるよ』という妻の打った文字が、緑色の枠の中に並んでいる。美香というのは彼の一人娘の名前だった。男は思わず、「どうだか……」と呟いた。
彼には最近娘とコミュニケーションを取った記憶が無かった。向こうから話しかけてくることはまず無く、声をかけても帰って返ってくるのはやけにクールな返事だけ。食事のとき以外は部屋に閉じ籠もり、夜遅く帰ってくると顔を合わせるチャンスもほとんど無い。そんな娘が父親の帰りを待っているとは到底思えなかった。
「さっき乗せた人に聞いたんですけどね、今日は夜まで降り続くそうですね。お客さん、早めに帰っておいて正解ですよ」
「そうですか。昨日まではもっと遅くまで仕事しているつもりだったんですけどね」
男はそう言いながら、今朝の出来事を思い出していた。いつもと同じように玄関を出ようとしたとき、珍しく彼の妻に呼び止められたのだった。
「どうした? ネクタイ忘れたか?」
男が胸元をチェックしようとすると、彼の妻は不満そうな顔を見せた。
「最近帰ってくるの遅いね」
「まあな。……言ってるだろ、でかいプロジェクト扱ってるんだって。失敗したくないんだよ」
「うん、それは分かってる。分かってるけど。今日ぐらいは残業しないで帰ってくるよね?」
「今日ぐらいって」
昨日も今日も明日も同じように忙しいんだよ、と言おうとしたが、男は直前でブレーキをかけた。なんとなく妻がわがままを言っているだけには思えなかったからだった。
「分かったよ。なるべく早く帰る。それじゃあ行ってきます」
いろいろ悩んだ挙句、男は結局残業をせずに帰ることにした。就業時間が終わり、タイムカードを切って外へ出ると、外はバケツをひっくり返したような豪雨。なんとか駅まで走りついた男は、ダイヤが盛大に乱れていることを知り、駅のロータリーでタクシーに乗り込んだというわけだった。
まさか妻が今夜の大雨を予想して早く帰るように促したわけではないだろう。そう思いながらも、男は彼女のメッセージに意味を見つけられずにいた。
しばしの沈黙の後、運転手が口を開く。
「十何年か前なんですけどね、今日みたいな雨が降った日があるんですよ。ちょうど今ぐらいの時季だったんじゃないかと思いますね」
やや退屈になっていた男の耳は、自然と運転手の声に傾けられた。
「何か思い出でも?」
「大それたものじゃないんですが、雨の中を走ってると思い出すお客さんがいるんです。当時はまだ若いサラリーマンでした」
「ほうほう」
「タクシーに慌てて乗り込んできて、急いで病院に行ってほしいって言うんですよ。何事かと思ったらその人の奥さんが搬送されたっていう話で」
「搬送?」
穏やかではないフレーズに男は身構えた。運転手は少し笑って続ける。
「奥さん、妊娠してたんですよ。陣痛って言うんですか? 生まれそうだって分かって救急車呼んだそうなんです」
「あ、なるほど」
「その人、ずっと窓にへばりつくように景色を見てたんですよ。あの病院じゃない、この病院じゃないって呟きながら」
「落ち着きのない方だったんですかね」
「ええ。何としても娘の誕生に立ち会うんだって張り切ってたみたいで。ずっとソワソワしてました」
「娘、ですか……」
男はつい先ほど考えていた自分の娘のことを思い出した。彼女が生まれてから何年経つのだろうと計算しようとして、男はふとあることに思い当たった。それを確かめようとスケジュール表を取り出してみるが、暗くてはっきりと見ることはできなかった。
その間も運転手のトークは続く。
「いざ病院の前に着いたとき、その方、顔を真っ青にしてたんですよ。何事かと思ったら会社に財布を忘れて無一文だったみたいで。思わず『ここで待ってるから今はとにかく奥さんたちのところに行ってやれ』って言っちゃいました。急いでいたの知ってましたから」
ここでようやく運転手は、続いていた相槌が途切れていることを察知した。
「お客さん?」
運転手は反応を伺うように呼びかける。バックミラーを覗き込むと、男は窓の外を眺めて何かを探しているようだった。そして男は視線の向きを変えないまま再び会話に戻る。
「お金、結局受け取らなかったんですよね?」
「あ、ええ、はい。まあしばらくは待ってましたけど、別の客を見つけた方が儲かるような天気でしたから。それに、その時は私も救われたような気持ちでしたので」
「と言いますと?」
「実はその頃、家族とうまくいってなかったんです。でも彼を見ていたら不思議と頑張ろうって気になったんですよね。……そういうこともあって思い出すんです。雨の中を走っていると」
「そうでしたか……」
しばらく走った後で、男が声を出した。
「あ、運転手さん。ここで降ろしてください」
「ここで?」
そこは、初めに聞いていた目的地よりは数百メートル手前の場所だった。徐行するタクシーの窓の向こうに、小さなケーキ屋が映っている。
「今日って十日ですよね?」
「はい、そうですが……」
「ちょっと、娘にケーキでも買っていこうと思いまして」
料金メーターの表示は二千円弱。それを見た男は運転手に五千円を手渡した。
「娘さんにケーキを買ってあげるなんて、お客さん、いいお父さんじゃないですか」
「いいや、ひどい父親ですよ。大切な日すら忘れてるような男なんですから」
運転手が釣銭のコインを数えている間に、男はタクシーから降りて傘を広げていた。運転手は窓を開け、慌てて男を呼び止める。
「お客さん、お釣りお釣り」
「それを貰うわけにはいきませんよ。今日はとてもいいお話を聞かせてもらいましたから」
「いやいや、そんなこと言わないでさ。なんならケーキ買うのここで待ってますよ?」
男は笑顔を見せ、首を横に振った。
「これ以上あなたを待たせるわけにはいかないので」
◆
理沙は最後の行を読み終え、そっと顔を上げた。葵の横顔、目線の先、窓の向こう。相変わらず雨に包まれたままの校庭は、知らない間に夜の中に足を踏み入れていた。
「読み終わったよ」
「お、どうだった?」
そう尋ねながら葵は振り向く。目があった理沙が優しく微笑んだ。
「これってさ、運転手さんの話に出てくる人が、今乗ってるお客さんってことだよね?」
「まあそういうことだな」
「んー、ちょっと分かりにくい、かも……?」
「そうだな。確かにお前には難しかったかもな」
理沙は一、二度頷き、その直後顔をしかめる。
「え、それどういう意味?」
「冗談だよ。そんな怒るなって」
葵がからかうように笑う。理沙はそれを見て口を尖らせながらも、手では原稿用紙の端を揃えている。
「あのさ」
「ん?」
「貰ってもいいんだよね、これ」
「もちろん。お前がいたから創った世界なんだからさ」
「ありがと」
理沙は自分の顔がだらしなく綻んでいるような気がして、お礼を言いながら下を向いた。
葵はそんな理沙の様子を見て少しだけにやけると、鞄を持って立ち上がった。
「さあ、帰るぞ」
「あれ? 傘借りてこなくてもいいの?」
葵はもう一度溜め息を吐くと、視線を教室の前方に投げかける。理沙がそれを辿るように首の向きを変えると、普段から見慣れたアナログ時計が目に映った。時刻は七時十五分。職員室はとうに閉まっている時間だった。
「あ……」
理沙の顔が再び床を向く。
「ごめんなさい」
「別にいいよ。その代わり、お前の傘に入れてくれればさ」
「うん!」
曇っていた理沙の顔が一瞬で明るくなる。葵もつられて笑う。
照明を落とした教室は、夜と雨の音に満ちていた。窓から見下ろせるグラウンド、流れ続ける秋雨の中を、水色の傘を差した二人が歩いて行った。
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