世界はペンで創られる

蛍:mch

第1話 珈琲男女

 目玉焼きが作れるほどの熱を帯びたアスファルト。それを憎たらしそうに踏みつけて家へと向かう葵を、誰かが後ろの方から呼んだ。溜め息で不満を中和させながら、葵はしぶしぶと振り向く。暑さで揺らめく景色の向こうに、学校で見慣れた女子制服が浮かんで見えた。

 それは葵の幼馴染の理沙だった。

 熱風を浴びて突っ立って待つ葵に、彼女は走って追いつく。

「暑いってのによく走れるな」

「まあね」

 無理して笑顔を作った彼女の額に汗の雫が浮き出ていた。

 少し時間を置いて一気に崩れる理沙の顔。まるでこの暑さに白旗を掲げているかのようなポーズで額を拭い、葵を見上げて訴える。

「喫茶店寄らない?」

「……賛成」


 自動ドアに迎え入れられた二人の顔は、ほとんど同時に輝きを取り戻した。直射日光の当たらないクーラーの効いた空間。灼熱の通学路を歩いてきた理沙たちにとって、ここは天国と形容して差し支えないほど居心地の良い場所だった。

 見回すと、同じように涼を求めてたどり着いたであろう人たちがたくさんいる。

 二人はカウンターで注文を済ませると、空いているテーブルを見つけて腰を下ろした。

「もう九月だってのに」

 窓ごしに通りを眺めて、葵が気だるそうに呟いた。彼のこめかみには汗が一筋流れている。

「暑いのは今日までだって」

 ガラスの傍に植えられた観葉植物は、冷風を受けて小さく揺れていた。吐き気さえするような外の気温など関係なしと言わんばかりに。

「ねえ……」

 理沙がテーブルに身を乗り出して話しかけた。

「なんだ?」

「いつまでいる? ここ」

「いつまでも。涼しくなるまで」

 その答えを聞いて理沙の口元が緩んだ。まるで葵がそう返事をするのを期待していたかのようだった。

「じゃあさ、じゃあさ」

「おう」

「創ってよ、世界」

 葵は少し考えてから返す。

「報酬によるな」

「さっき何注文した? 私はマドレーヌと抹茶のフラッペ」

「俺はアイスコーヒーだけ」

「それなら報酬はそのコーヒー代。三百五十円! どう?」

「よし、乗った!」


 葵は無駄の無い動きでペンと原稿用紙を鞄から取り出した。理沙は心躍る様子でその姿を見つめる。

 準備が整うと、葵は理沙を見て微笑んだ。

「テーマは?」

「そうだな。んーっと、『コーヒー』なんてどう?」

「任せろ」

 周囲の会話はもう葵の耳には届かない。深呼吸の後、葵のペンの先が原稿用紙の最初の行に触れた。

 そして世界が創られていく。



 ◆


 この会社に勤め始めて早五か月。それなのに俺は仕事が全く上達しない。今日もいつものように課長に怒られた。こっちだって不器用なりに一生懸命やっているわけだから、失敗を頭ごなしに批判されたら当然カチンとくる。だけど、悪いのは誰が見ても俺。注意された時点で素直に反省できないから同じミスを繰り返すんだ、と言われて、流石の俺も今回は重く受け止めている。

 ただ、本当に落ち込んでいる一番の理由は、もっと別のところにある。


 同じ課に同期の女がいる。彼女は俺と違って真面目で、当然仕事も俺よりはるかにできる。課長からの信頼が厚いことも見ていて分かる。たまには彼女に感化されて張り切るときもあるけれど、そのやる気が長続きすることは滅多にない。仕事に対する根本的な姿勢が違うんだろう。

 学校で言えば、彼女は優等生で俺は劣等生。彼女の働きぶりに嫉妬を覚えることもないわけではないが、やっぱり尊敬することの方が多い。一種の憧れすら抱いていた。

 今回の仕事は、そんな彼女と組んで一緒にやるように言われたものだった。俺は足を引っ張るまいと決意していたはずだった。


 言うまでもなくミスをしたのは俺の方。請求した資料がいつになっても届かない、という苦情が取引先から入ったそうだ。剣幕の課長から事情を知らされたとき、俺の背筋が凍りついた。指定の期限まで余裕があると思って後回しにしていたら、そのこと自体をすっかり忘れていたのだ。

 俺が叱責を受けるのは当然なのだが、精神的に響いたのは、連帯責任の名目のもとで同期の彼女まで一緒に怒られたことだった。

 幸い先方は、すぐに必要な資料ではない、と笑って許してくれたらしい。情けないことに、そのことに甘んじた俺は性懲りもなく課長のお説教を聞き流してしまった。でも、課長が彼女に言った「がっかりだよ」の一言だけは、俺の耳の奥に張りついて離れなかった。


 外回りの帰り、会社から歩いて一分以内の喫茶店に行った。どうも気分が晴れないときは、ここのコーヒーを買って飲むことにしていたのだ。

 仕事を振られたときはあんなに頑張ろうと思っていたのに、どうしてまたいつもと同じようなミスをしてしまったんだろうか。あの子、課長に叱られて落ち込んでるに違いない。そんな明日には忘れてるような懺悔をしている途中、ふとあることを思い出した。

 カプチーノ。そういえば、彼女もよくここのカプチーノを飲んでいた。この喫茶店のロゴの入った紙コップが彼女のデスクに置いてあったのも、よく目にしている。

 こんなことで罪滅ぼしになるなんて考えは無かった。ただ、俺のせいで嫌な思いをしたあの子に、せめてものお詫びでもしようと思って、俺はコーヒーとカプチーノの入った二つの紙コップを持って店を出た。


 気づかないうちに外では小雨が降り始めていた。両手がふさがった状態では傘を差すこともできず、俺は急いで会社のビルへ戻る。

 今日はつくづくツイていない日だ、と溜め息まじりにエレベーターへ乗り込むと、「三階を押していただけませんか?」という女性の声が聞こえた。俺にはあいにく使える手が残っていなかったけれど、誰かのおかげで三番のランプが点いた。

 俺も三階で降りたかったから都合が良かった、というささやかなラッキーを味わいつつも、頭をよぎるちょっとした疑問。なんで人に頼んだんだろう。

 女性の声はボタンの近くから聞こえた気がした。すぐそこのボタンまで手を伸ばすことを躊躇うほど、このエレベーターが混んでるようには思えない。俺がそんなことを考えている間に、エレベーターはするすると昇っていく。


 三階。そこで降りたもう一人の相手を見て、俺はすべてを理解した。

 エレベーターから出てきたのは、例の同期の彼女。そしてその両手には、コーヒーとカプチーノ、それぞれが入ったコップが握られていた。


 ◆



「どうだ?」

 太陽もやや傾き、店の外が涼しくなり始めたのだろう。客の数は半分ほどまでに減っていた。

 理沙は最後の原稿用紙をテーブルに置き、葵の問いかけに答える。

「うん。面白かったよ。ただ――」

 葵の頼んだアイスコーヒーは、氷が溶けてすっかり薄くなっていた。それでも葵はミルクとシロップをその中に注ぎ入れた。

 理沙は言いにくそうに続ける。

「予定調和って言うか、なんて言うか、あくまで私の感想なんだけど、……ちょっぴり安っぽい?」

「安っぽい世界だって思われるのは仕方ないさ」

 葵がマドラーでかき混ぜると、コーヒーの表面の色が少しずつ白に近づく。一口飲んで葵は続ける。

「ほどよく甘酸っぱい世界をうまく創れるほど俺はそういうことに詳しいわけじゃないし、それに」

「それに?」

「その世界は三百五十円だ。安っぽくて当然」

「何それ。私への当て付け?」

 理沙がにやりと笑う。

「いいや。俺もまだまだだな、ってことさ」

 葵も似たような笑みを浮かべると、残っていたコップの中身をゆっくり飲み干した。その様子を見て理沙も慌ててマドレーヌを口に運び込む。


「そろそろ帰るか」

「ねえ、これどうするの?」

 理沙はテーブルにほったらかしになっていた原稿用紙を拾いまとめ、立ち上がった葵に尋ねた。

「やるよ」

「いいの?」

「お前のために創った世界だから、一応」

 葵は鞄を持つと、それ以上は何も言わずに出口の方へ歩いて行く。

 理沙は原稿用紙数枚の世界をクリアファイルに挟み込むと、急いで葵を追いかけた。

 夕焼けに染まった今年最後の夏の空に、鈴虫の鳴き声が響いていた。

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