第15話
「その調子よ鐘馬。何のことかよくわからないけど」千歳がエールを送る。
「うるさいうるさいうるさい。盗人たけだけしいとはこのことじゃ。『青の湯』の温泉鳥も泣いとるぞ。その温泉玉を置いてとっととこの神聖な土地から立ち去れい」
千歳がため息をつく。「あとで返すっていってるのにどうやったら信用してもらえるのかなあ」
「どうやっても信用でけん。帰れっちゅうたらさっさと帰れ」
「そう……」不意に効太郎がつぶやくようにいった。
「確かに神聖な領域を侵したのは事実みたいだけど……」
「ちょ、ちょっと効太郎……」
「いや、今ふと昼間の『青の湯』の守り神のことを思い出したんだよ。怪鳥だなんていってたけど、向こうからすりゃこっちのほうが怪人だったんだろうね。温泉玉を黙って持ち出したのは事実だし、そりゃ向こうだって怒るよね。とうぜんだよ。僕たちは本来こんなところに足を踏み入れるべきじゃなかったんだ。おい千歳、守り神のいう通りだ。秘湯めぐりをやめて帰らないか」
「……あんた、今さら何いってんの」千歳は呆然となった。「記憶をなくしてるからそんなのんきなこといってんのよ。全部思い出したらきっと後悔するよ」
しかし効太郎は取り合わず、「それに、僕はもう腹がへってダメだ。鐘馬、僕たちだけでももう帰ろうよ」
「……ですね。あるいはそのほうがいいのかもしれませんね」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ」
「おーい温泉亀。温泉亀の守り神。あんたの警告通り僕たちはもう帰るよ。だから霧を晴らしてくれよ」
「おい、コラ、コラ、コラ、そうはいくかコラ」千歳ひとりがカッカしている。「地上の危機なんだぞ。侵略の危機なんだぞ。ここで帰ったら地上は煉獄一族のやつらに支配されるんだぞ。それでもいいのか」
「そのことなんだけど……」効太郎が提案する。「話し合えばなんとかならないもんだろうか。だいいち千歳みたいにケンケン突っかかるから向こうも態度を硬くさせるんじゃないのかなあ」
「甘い甘い甘い! あんたは地上を救う勇者にならなきゃいけない湯浴一族の王子なんだからもっとしっかりしてよ!」
「僕はしっかりしてますよ、なあ」
「してますしてます、しっかりしてると思います」鐘馬がうなずく。
「してないよ! 責任放棄して逃げようとしてるじゃないのよ!」
「あははは、そうだった」
特に否定しようともせずウインクしながらペロッと舌を出した。
「ははは、効太郎さん、お茶目ですね」
「お茶目かな」
「お茶目ですよ、お茶目お茶目」
「お茶目じゃないし可愛くもない!」千歳が怒鳴る。「勇者の使命感を持ってよ!」
「おい千歳、わかるけどそんなに怒鳴ってばかりだとよけいに平和的な解決が……」
「うるさいうるさいうるさい!」効太郎の言葉をヒステリックにさえぎったその時、
「湯浴一族の……王子……?」
霧の中で温泉亀の声があたりに響き渡った。
三人は声のトーンが変わった守り神の様子にピタリと内紛を中断させると、霧の中をキョロキョロした。
「ひょっとしてあんた、御影山瞬太郎どののご子息か?」
声がたずねる。
効太郎は千歳をチラ見して、
「あ、ああ、そのようだね」
「道理で……どこかで見たような顔じゃと思っとった」
「そう……なんだ」
「あんた御影山瞬太郎を知ってるの?」千歳が聞く。
「……いいや、大昔、一度会うただけじゃ」
不意に霧が引いてきたかと思うと、三人の眼前にもうひとつの人影が現れた。
そこに立っていたのは、人間の大きさの亀だった。もう運転手の制服は着ていない。二本足で直立しており、顎から長い白髭が伸びている。甲羅から首と手足が出ている。
「……」三人は固唾を飲んで目の前に出現した守り神を見つめた。神々しくはないが少なくとも神秘的だった。霧はどこか一点に吸い込まれてでもいくかのように急激に晴れてきていた。
夜は白々と明けはじめている。
三人を包んでいる風景がしだいに露わになってきた。
「ここは……」千歳が目を剥く。
「ぜんぜん人里じゃありませんね」
V字型の渓谷の底だった。一同を挟んでいる左右の壁はおそろしく急峻な岩崖になっていて、閉塞感がハンパない。計四人の立っている渓谷の底に当たる部分には川が流れているでもなく、草も生えていない荒れた不毛の地面だった。しかもまん中が地割れており、そこから湯気が立ちのぼっている。渓谷の底の、さらに底があるのだった。
「ひょっとして、地割れの底に温泉が?」千歳が覗き込もうとするが、湯気でよく見えない。
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