第2話 アギレウス

 目覚め――リリィは冷たいごつごつとした不快な感触の中に、すがすがしさを覚えながらその身を起こした。

 今まで、寝床はいつだってバージェスの布団の中だった。

 彼は激しい虐待の延長としてリリィを抱き、そして満足すると魔法で彼女の傷を癒して、今度は甘える様に彼女の胸の中で眠りにつく。

 処女膜ですら再生させられ、破瓜の痛みを毎回毎回味わわされるのだ。

 暴力と暴欲の中で、意識を手放し、そして目覚める毎日。

 人として大切な何かを無理やり消費させられて生きてきた日々。

 冷たい石の感触は、その日々からの解放を物語っていた。


 ――だが。

 指先で自らの顔を確かめ、そのまま滑らせて首元を触る。

 そこに冷たい鉄の感触を認め、リリィは凍り付いたような表情で深い深いため息をついた。

 それは嘆息。クソッたれな人生から逃げる最大の機械を逸したことに対する、深い深い落胆。

 奴隷はどこまで行っても奴隷なのだ。

 この首輪がはまっている限り、どこに行っても奴隷としてみなされる。

 唯一つの例外もなく、この首輪があるかぎり、一生奴隷なのだ。

 奴隷に人権はない。

 ただ消費されるだけの道具。

 リリィは誰かに見つかれば、すぐさま耐え難い屈辱の日々に戻ることを強引に悟らされていた。


 と、そこでリリィは初めて周囲を見渡した。

 洞窟――今いる場所は洞窟を流れる川に出来た岸辺だった。

 どうやらそこにひっかかり、一命を取り留めたらしい。

 リリィは肌寒さを覚え、思わず腕を抱く。

 「くしゅん」と小さなくしゃみが出る。

 腕をさすり、そこでようやく服を着ていないことに気がついた。

 ゼナススクルドの濁流のなかで、流木や岩に引っかかり服は千切れて流されてしまったのだ。

 もっとも、服と呼んでいるが、実態はただの布に首を通す穴をあけただけの、ボロキレのようなものではあったが。

 ましてや下着をつける許しは出ておらず、全裸とそんなに変わらない、と言えば変わらなかった。


「……いや、少しは変わるわね」


 ボロキレでも纏っていれば、少なくとも寒くはなかった、とリリィはため息を吐く。


「いつまでもここにいる訳にはいかないのよね……」


 そう呟きながら立ち上がろうとし――


「っつ――」


 足に走った痛みを自覚し、そのまま力が入らずに倒れてしまう。

 したたかにぶつけた鼻をさすりながら、自分の足を見ると、あらぬ方向に曲がって赤く腫れていた。

 どうやら折れているらしい。

 今まで気が付かなかったのは、骨折程度の痛みならば慣れてしまっていたからだ。

 リリィはなにか添え木になるようなものはないかと周囲を見渡し――その瞬間だった。


 ざばぁっ、と川から何かが上がってくる音がして、そちらを見やる。

 するとそこには、緑色のつるんとした肌に、ひれのついた手足、そしてエラのある首元。

 どことなく生臭いそれのぎょろりとした瞳とリリィは目が合った。


「サ、サハギンッ! う、嘘でしょっ!」


 水棲モンスター、サハギン。手足を得て、水陸両用となった魚の魔物。

 何より厄介なのは、濁流を泳いでいるうちに発達した筋肉と、体力だ。

 また、数時間の潜水を可能とする肺活量に物を言わせて高圧の水流を吐き出し、岩ですら真っ二つにする。

 とてもではないけれどリリィではどうすることもできない魔物だった。

 サハギンはどこかぬぼーっとした視線でリリィの裸体を舐めまわす様に見ている。

 思わず胸と股を腕で隠した。


(ああでも、ここで終わるならそれもいいわね……)


 船が魔物に襲われたときに、リリィは屈辱の日々が続くのであれば死んでもいいと思っていた。

 その時は死に損なったらしいが、どうやら死神は遅刻していただけらしい。

 ――諦観。

 しかし、それは奇妙な事にリリィにとって救いでもった。

 魔物を見た瞬間に人が覚える根源的な恐怖が薄まり、冷静さを取り戻していく。

 すると、リリィはそのサハギンの様子がおかしい事に気が付いた。


 通常魔物とは、問答無用だ。

 かち合えば息つく間もなく襲われる。そういうものだ。

 しかし、このサハギンはこちらをぎょろりとした瞳で見つめるだけで、それ以外の行動を起こそうとはしていない。

 そして、リリィはサハギンがなにか持っていることに気がつき、眉をひそめた。

 それは、およそ魔物が持つものとは思えない、長細い物体。

 黒く、緩い反りを見せて長く伸びる物体。

 その途中花びらのような装飾が施され、そこから再び今度は紫色の紐のようなもので、なにかしらの衣装を施した棒が、黒い部分よりもだいぶ短く伸びていた。

 それは――


「なんで刀?」


 リリィが思わずつぶやいた瞬間。

 サハギンはびくりと体を震わせて、その持っている刀を取り落としてしまった。

 そして、サハギンはその掌をぎょろぎょろした自分の瞳に当てて覆い隠すと、その場にしゃがみ込み、


「ヒェ~~~~~、オ、オラ、オナゴのハ、ハダカなんてハジメテミタッぺヨ~~~~~ッッ!!」


 緑色の肌を紫色の染めて、そう叫んだのだった。


 リリィと言えば、きょとん、とした表情で――


「はぁ?」


 思わずそんな間の抜けた声を漏らしていたのだった。



         ☆



「オラのナマエはアギレウス・マグレガーってんダベ」


 サハギン――彼の名前を聞いたとき、その無駄に大仰な名前に思わずリリィはひきつった笑いを浮かべた。

 状況が分からない。

 混乱するばかりのリリィをよそに、彼は続ける。


「オ、オナゴがそげなカッコじゃダメダべヨ! ナニかキルモノはナイんダべか!」


 緑色の肌を紫色に染めたアギレウスは、目を逸らしては再びリリィをみやり、そしてはっとしたように目を逸らすことを繰り返している。


「ご、ごめんなさい……乗っていた船が壊されたときに、荷物全部ながされてしまったようで……」


 困惑したままそんなことを返し、なんで魔物と会話しているのかと、ふつふつと疑問がわいてくる。

 本来、魔物は人語を解することもなければ、話すことはない。

 少なくとも、リリィはそう思っていたし、大多数の人間がそうだろう。

 そもそも、人間の女の裸を見て照れる魔物など、前代未聞である。


「ソレはタイヘンだったべ! ソンナジジョウをシラナカッタとはイエ、キモチをカンガエナイコトイッテモウシワケネェ!」


 あわあわとアギレウスは手を振り回したかと思うと、慌てて頭を下げてくる。

 リリィは「気にしてませんが……」と呟くように言った。


「アンタイイヒトダベな! ンダバ、オワビのシルシにオラのゴシュジンサマのトコまでアンナイしてやるベ! きっとタスケテくれるダベよ!」


 ご主人様。

 その響きに嫌な予感を覚え、リリィは眉をひそめた。

 経験上いい思い出がないのだから、当たり前である。

 とは言え、彼女にサハギンをどうにかする力もなく、結局は従うしかないのだろうかと、リリィはどこまで行っても自由とは程遠い自らの境遇にため息をついた。


 そんな彼女を気にすることなく、アギレウスは「ンダば、イクべ」と言ってリリィに背を向けると洞窟の奥へと向かって歩き出していった。

 しかし、リリィはその場を動かない。

 いや、動くことができなかった。

 足の骨折は、痛みこそ慣れているために無視できる程度ではあるが、力が入らない。

 人体の構造的な話はどうにもならなかった。

 とはいえ、魔物にその辺の機微をさっしろというのもまた無理がある。

 結果、一匹でスタスタと歩いて行ってしまうアギレウスに、リリィは声をかけるでもなくただただ見送ったのだった。


 ふと、洞窟の奥から風が吹いて、リリィはその冷たさに体を震わせた。

 そして下腹部がじんじんと疼いていることに気づく。

 川に流され、寒い洞窟の中で裸で倒れ、そして冷たい風にさらされて――


「うぅ……」


 有体に言えば生理的欲求にょういだった。

 この際、その場にしてしまってもいいような気もしたが、リリィは腕の力と動く方の足だけでなんとかすみへ這って行くと、片足で膝たちをして、折れて力が入らない方の足を腕で持ち上げて壁に引っ掛ける。

 まるで雄犬が用を足すような格好になり、誰も見ていないにもかかわらず、羞恥を覚えて頬を赤く染めた。

 しゃがみ込めないのだから仕方がない、と自分に言い聞かせて抑え込む。

 そして力を抜くと、しゅろ、しゅろろろろ、と今まで我慢していたそれが放物線を描いていく。

 足をかけた壁に黒く染みを作り、地面に水たまりを作っていく。

 全てを出し切り、ほっとした心地で壁に引っ掛けていた足を、自分の作った水たまりに落っこちないように慎重に戻し、リリィは顔を上げ、そして――


「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 ついてこないことに気づいて戻ってきたアギレウスのぎょろりとした瞳と目があい、悲鳴を上げたのだった。

 アギレウスは何事かパクパクと口を動かしていたが、やがて持っていた刀を取り落とし、その掌で瞳を隠すと、


「ヒェ~~~~~! オ、オラ、オナゴがショウベ――ッボギュラッ!」


 最後まで言い切ることはなく、リリィが投げつけた拳大の石が顔面を直撃し、その場に倒れこんでいったのだった。

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瑠璃色少女と髑髏《シャレコウベ》 三白城侍(みしろ じょうじ) @aobasister

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