第一章 儚き時のスラフター

第1話 大いなる水龍脈

 少女――リリィの世界は、ある日唐突に変わった。

 それまでは、王都から遠く離れた片田舎の村で、家族やその他村人たちと仲睦まじく畑を耕して暮らしていた。

 時折罠にかかるイノシシの肉がご馳走で、熊なんて出たに日には村中大騒ぎで討伐するような、そんな生活。

 貧しい生活ではあったが、みんながみんな助け合い、必死で生きていた。

 小さな幸せに一喜一憂し、ただただのんびりと過ごしていく日々。

 確かにそこには温もりがあった。

 あれから3年たった今でも、あの幸せだった光景はありありと思い出せる。


 ――だが。


 所詮それは在りし日の追想に過ぎない。

 リリィはそのほっそりとした指先で首に嵌められている鉄製の首輪を撫でる。

 冷たい感触。それは、人の尊厳を奪われた証。

 それまでの光の当たる場所から、暗闇へと追いやられた人間を、ただの家畜として貶めるための道具。


「何を笑っている?」


 投げかけられた冷たい男の声で、自分の唇が吊り上がっている事実に気が付いた。

 それは、自嘲。

 過ぎ去りし日々にみっともなく縋って生きている自分自身へ向けた、嘲笑。

 それに気づき、リリィは深々と嘆息する。

 いまだ自分にそんな感情がある事に、辟易としたのだ。

 そんなもの、自殺する自由ですら奪われた家畜に入らない。

 女の尊厳ですら、実の家族に売られた11歳のころに目の前のへんたいに奪われていた。


「何を笑っているっ!?」


 男が怒鳴ると同時、ひゅん、と何かが風を切る音が響いて頬を叩いた。

 衝撃でリリィは倒れ、遅れてきた灼熱を伴う痛みに、「うぅ……」と小さく呻いたのは、そうしたほうが目の前の男の癇癪が早く過ぎるからだ。

 痛みなど、この3年間で嫌と言うほど叩き込まれ、もう麻痺している。

 その場にうずくまり、ちらりと上目遣いでその男を見やる。

 小さな男だ。贅肉も多い。

 そんな男が、全く似合わない豪奢な椅子に座って鞭を振り回している。あの先端で叩かれたのだ。

 ぽたぽたと鼻から血が流れ、木製の床を濡らしていく。 


(血の色だけは昔から変わらない……)


 3年もたてば骨ばっていた少女の体は鳴りを潜め、ふっくらとした女のそれとなる。

 屈辱と汚辱に塗れた、暴力に支配された心折れる生活ではあったが、食べる物だけは満たされていた。

 女としての体つきを維持させるために。

 女としてのリリィを最大限楽しむために。


 と、不意にリリィと男がいる部屋が揺れ、ギィと軋んだ。

 男が「ひぃっ」と悲鳴を漏らし、身体を震わせる。

 揺れるのは当たり前だ。

 なにせ、ここは船上なのだから。

 この男率いる商隊は現在、世界最大の激流かつ、世界最大の水棲の魔物の住処である「大いなる水龍脈ゼナススクルド」を横断している最中にあった。


「リ、リリィ、何をやっている! こっちへ来い!」


 鼻血を拭きながら、命じられるままにリリィは男に近づき、3年間で豊かに育った胸で男の頬を包み込んだ。


「あぁ、リリィ、リリィ、どこにもいかないでおくれ、リリィ」


 吐き気すら催す気色の悪い声。

 呪詛にもにたそれを吐き出しながら、ぐりぐりと胸にその頬を押し付けてくる男を見ながらリリィは想像する。この男は怖くて怖くて仕方がないのだろう。

 自らが所有する奴隷が、得体のしれない笑みを浮かべていた。

 それがただの自嘲であると分からずに、なにか自分にとって不都合なことを考えているとでも思ったのだ。

 この40代の商人に売られてから、何度も何度もこの体にはこの男を刻み込まれてきた。

 それでもなお――否、だからこそ、男はいつか復讐されることを恐れ、常軌を逸した痛みでもって支配しようと足掻いている。

 それは、奴隷たるリリィの心が男に向いていないことを、自らが認めているという証左でもあった。

 常日頃から尊大に振る舞い、しかし何かあるとすぐに精神が不安定になる小物。

 3年間の付き合いで、リリィはこの男が勇敢とは対極に位置する男だと存分に知っていた。

 ましてや、汚職がバレて王国に追われ、ゼナススクルドを横断する羽目になった現状では、なおさらである。


 再び、船体が揺れて部屋がギィと軋む。

 リリィをつかむ腕に、力が込められた。

 肉体的な痛みなど、いつものことだ。

 嗜虐的な趣味を持つこの男に、叩かれていない場所などない。

 眼球や肛門の中ですら耐えがたい痛みに晒されてきた。

 その度に、傷一つなく回復魔法やアイテムを駆使して治療される。

 いつしか、痛みに対する恐怖はなくなっていた。

 不意に来ると驚きはするが、それだけだ。

 痛いなら、痛くなくなるまで耐えればいいだけの話。

 そうしてこの3年間行きてきたし、これからもそうするのだろう。

 最初の方はクソ食らえと思ったが、すでにリリィはあきらめの境地に達していた。


 と、不意に強く船が揺れて、リリィを巻き込んで椅子事男が倒れる。

 慌てたように遠慮のない足音がどかどかと聞こえ、乱暴にドアが開かれた。


「バ、バージェス様っ!」


 見ると血相を変えた水夫の格好をした男が一人、喚くようにその名を呼ぶ。

 男――バージェスはリリィにしがみついた格好のままで、「何事だ!」と怒鳴った。


「ま、魔物が……魔物がこの船を襲ってます! グレダもゲインもみんな、みんな食われちまったぁ!」

「な、なななななっ! もう少しなのにっ! この川さえ超えれば、俺はやり直せるのにっ!」


『るごぅぉぉぉぉぉぉぉあぁぁぁぁぁっっっっっ!』


 と、不意に部屋の外から魔物のいななく声が響く。


「ひぃっ」

 水夫が腰を抜かして悲鳴を上げる。


 リリィに縋り付いたままのバージェスの腕の力がより一層こめられ、リリィを圧迫した。

 ふと、リリィの太ももになにか生ぬるい温もりが生まれる。

 訝しみながら視線を送ると、バージェスが失禁していた。


「死にたくない……死にたくない……死にたくない! お、おい、お前! なんとかしろぉっ!」


 腰を抜かしている水夫に怒鳴るも、彼は立つことができない様子だった。

 リリィはその様子を見て、不意に悟った。


 ――これはチャンスだと。このくそったれな世界を終わらすことのできる、最大にして最後のチャンスが来たのだと。


 死んでいた自分の瞳に力が戻るのをリリィは感じた。

 そしてその思考に導かれるまま、彼女はバージェスに言った。


「ご主人様……わたしに剣を……わたしが囮になりますので、ご主人様はお逃げください」


 その言葉の意味が分からなかったのか、束の間バージェスは茫然としていたが、やがて苦痛に耐えるような表情になった。

 その姿をみて、自分の命とリリィの体との天秤にかけているのだろうと察する。

 これでリリィの体を取るようであれば、見直してもいいのかもしれない、などと言う奴隷思考を内心で自嘲しつつ、リリィはダメ押しとなる口を開いた。


「時間がありません、ご主人様」


 ただ一言。それは彼に自分の命の残り時間が無い事を示唆する、言葉。

 やがてバージェスは決断したのか、震える体を無理やり動かすと、部屋の片隅に立てかけられていた剣を持って、リリィに差し出した。


「俺は救命船で脱出する。奴隷リリィ。貴様に命じる。その命を懸けて囮となり、俺から魔物を引き離せ!」


 そういうと、最後に無理やりリリィの唇を奪い、いまだ腰を抜かしている水夫を蹴飛ばして無理やり立たせると走り去っていった。


 ぽつん、と残されたリリィは一人、その気配が消えたことを感じ、口元を手の甲で拭った。

 そして、最初はくつくつと静かに、そしてそれはやがてその声を大きくして、ゲラゲラとリリィ以外いなくなった船に響き渡った。

 耐えられないと言わんばかりにおなかを抱え、リリィは笑い続ける。


「あー、おっかしいっ! ここはゼナススクルドの真っただ中よ。脱出したところで生き延びる可能性なんて万に一つもないと言うのに!」


 そういいながら、受け取った剣を捨てた。

 そんなものに意味はなかった。使ったことすらないし、なにより持ち上げるだけで精いっぱいだ。

 なによりも、魔物の前に立とうとも思わない。


「ああ、でも、最高だわ! こうして死ぬ間際になって自由になれるなんて!」


 叫ぶように言い、ひとしきり笑い続け、ふと、その笑みに影が差した。

 そして――


「なんだったのかしら、わたしの人生って……」


 そう零した瞬間だった。

 何かが破壊されるようなすさまじい音が響き、船体が軋む。

 少女の流した一粒の涙が木製の床に染みるころ、限界を迎えた船はバラバラになり、夜の闇の中で荒れ狂うゼナススクルドの激流の中に消えていった。

 後に残るは、その参事を引き起こした、一匹の魔物のみ。


 その魔物こそ大いなる水龍脈ゼナススクルドの化身、水龍王ゼナス


 戯れに人間の船を沈めたゼナスは、一声天に吠えると、その身を激流の中に沈めていった。

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