Our house

Our house①

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 恐怖! 切り裂きシェフ!


 かつての伯爵家で手足を切断された男性が保護か?


 6月18日午後6時ごろ。


 巡回の警察官が屋敷の住人からの要請により踏み込んだ所、建物が半焼し脱出したと思われる手足を切断された男性が保護された。

 手足を切断されたのは、数ヶ月前と思われこの火災が原因では無いと考えられる。

 男性は日本人と思われ、国立病院に搬送され健康状態などの診断を受けいている。

 半焼した建物からは、焼死したと見られる成人女性一名と腐乱した成人男性一名の焼死体が発見された。


 女性の身元は不明だが、男性はこの屋敷に勤める庭師、ケリガー・クノックス(45才)と判明した。


 一方、行方不明のシェフ:ロノバン・グノーシス(30才)の自宅を家宅捜索した所、死亡した手足の切断され目や口を縫い付けられた男性の遺体がが発見された。

 遺体は、以前この屋敷に勤めていた執事:ロード・ル・フィッセさんと思われ一連に事件との関係を調査中するとともに行方不明のシェフ:ロノバン・グノーシスを第一容疑者として全国指名手配したものである。



 ~ギルセイブ新聞 第一面より抜粋~

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【八月一日】



 ああ、勘弁してほしい。


 こんな体だ、贅沢は言えないのは分かっている。


 が。


 雑にも程かあるんじゃないだろうか?


 実に勝手だが、看護師を大まかに三分割してみると、


 ・新人


 ・中堅


 ・プロ


 に分ける事が出来る。



 まず、『新人』。


 この仕事を始めたばかりで熱意に満ちてる。


 手つきなんてぎこちなくて行き届かず、ミスも多いけれどこっちを思いやる必死な表情みてたら『おう、がんばれ』って応援したくなるね。


 ちょっとまたいで『プロ』。


 完成形だ。


 まるで機械のような完璧な手際、こちらに話しかけているようでも冷静に感情を切り離し決められた手順に従い不測の事態にも対応は迅速。


 安心して体を預けられるが、どこか壁を感じる。


 そして、これだよ……一番厄介な『中堅』。


 『新人』はまだ若くこの仕事に希望をもっていて、何より一生懸命。


 『プロ』は、この仕事の酸いも甘いも噛み分けて悟りを開いているから思い悩むなんてしないで淡々とこなす。


 この2つに挟まれたこの『中堅』こそが、一番たちが悪い。


 仕事に慣れ、後輩も出来て技術面もそこそこ。


 だからこそ凡ミスが増えるという物で、更にそれを巧妙に誤魔化すとかそんな事をしてくる。


 誤魔化すなら俺たちにも感ずかれないようにして欲しいが、まだそこまでの技術は無いらしい。


 年もだいたい27~32歳くらい人生で三本の指に入るくらい人生とかに思い悩む時だとは思うけどさ……ねぇ?


 「……」


 まず、お湯がぬる過ぎる。


 それに、いくら介護用のバスタブが埋ってるからって俺みたいな重度の欠損患者を扱うのに健常者用のものに介助者一名で普通に入れるってどうよ?


 俺は頭にあるむすっとしたそばかす面を見上げてあからさまに溜め息をついてみたが、何やら今後この仕事を続けるべきか思い悩んでいるらしい彼女にはこの程度のアクションでは伝わらないらしい。


 彼女は上の空のまま、バスタブの蛇口の『水』をひねる。


 ちっ!


 これ以上ぬるくするのか?


 今日は水風呂か?


 何やら考え事をしているらしい彼女は、良いライフプランでも重いつたのか鼻歌をを歌いながら適当に俺の頭にシャンプーを垂らして適当に泡立て始めた。


 手つきはそこそこだが、痒いところには手が行き届かない。


 イライラする。


 それでも此処に連れて来られた時に短く切りそろえられた髪は、あっという間に洗髪が終了し泡が流された。


 続いて体。


 こと、局部の洗浄がおざなりなのは明らかな嫌悪を感じる。


 やる気は感じられない……早々に転職を勧めるよ……全く……はぁ。


 そして、気づけ。


 もう、俺の顎まで水かさが上がっている事に!


 「……はぁ」


 やる気の無い看護師は面倒くさそうに溜め息をついて、迫り来る水没の危機に瀕した俺を引き上げようとバスタブの中に手を突っ込み______ ズルッ。


 は?


 ザボンと水しぶきと共に俺は、もはや水風呂となったバスタブの底に沈む!


 俺を抱えたままの看護師と共に。


 おー……マジかよ?


 俺はいたって冷静だ、風呂に落とされるのは慣れていたし自慢じゃないが泳ぎは得意なほうだし。


 まぁ、このまま大人しくしていれば引き上げてくれるだろう。


 そう思い、体の力を抜き大人しくしていたんだか俺を抱えた状態の看護師は一向に引き上げる素振りを見せない……何やってんだ?


 看護師は、俺を抱えたままだから当然頭は水の中で_______。


 まさか、コイツ!


 ぼやけた視界の中、真横にある頭から大量の泡が上がる!


 マジか!?

 コイツ、溺れてやがる!


 水に落ちたショックでパニックを起したのか、冷静になれば地面に足がつくと言う事に気がついて体を起すだろうに全くそれがわかって無いらしい。


 このままでは、二人仲良く水死体だ!


 俺は、少し体をよじってみる……うん、ガッチリとしがみ付いたままだ。


 手を離し足が地面につく事にさえ気づけばどうにかなるものを……仕方ないな。


 俺は全身の力を使って体をよじって、しがみ付く看護師のを巻き込むようにバスタブの中に引きずり込んだ!


 驚いた看護師は、さらに俺にしがみ付いてくる!



 ちっ!



 俺は、そのままバスタブの中で立ち上がりまだパニックを起してしがみ付く看護師を縁の方へ押し付けた!


 「ゲホッ! ゲホッ! うげぇぇぇぇぇ~~~!!!」


 やっと俺を解放して、淵にしがみ付いた看護師は飲みこんだ大量の水を嘔吐する。


 全く!


 俺がこんなんで良かったな?


 じゃなきゃ、こんな狭い所で身動き取れなかったぞ?


 「……! ……!!」


 ようやく水を吐き終え肩で息をする看護師が、俺のを見て驚愕の表情を浮かべている。


 見開くその青い目と乱れた金髪が、あの時の『誰かさん』と同じで俺は久しぶりに……本当に久しぶりに『大声』で笑ったんだ。







 キュルキュリキュリ……。





 俺を乗せた車椅子が廊下を進む。


 騒ぎに気がついた看護師長にこってり絞られた金髪頭が、雫を滴らせうな垂れながらその背を押す。


 誰かの押す車椅子。


 それが、ここに連れて来られてからの俺の唯一の移動手段だ。



 もどかしい。



 本当ならこんなもの使わなくても、移動は出来る。


 が、ここの連中は俺が四足で這い回るのを良しとしなかった。



 『君は人だ』



 車椅子を拒否する俺に、カウンセラーが諭すように言った。



 此処では誰もが俺を『人』として扱ってくれる。


 鞭も鎖も理不尽な暴力もない。


 窓から差し込む光、薄暗くも湿ってもいない。



 それは、あの暗闇にいるとき心から望んでいた事だ。



 それなのに、それなのに……。



 どうして?



 きゅっと、車椅子が止まり看護師がドアをあける。


 俺の部屋。


 フローリングにベッドが一つの四畳どの広さの個室だ。


 ずぶ濡れの看護師が、車椅子を部屋に入れ俺を抱き上げてベッドに座らせ窓のカーテンを引く。


 さわさわと暖かな風に揺れる木の葉が、太陽の眩しさを遮る。


 「……助けてくれて有難うございます」


 ぼんやり揺れる木の葉を眺めていた俺に、看護師がいう。


 振り向くと、看護師は申し訳なさそうにもじもじとして下を向いた。


 俺は首を振る。


 「……いいえ……患者さんに助けてもらうなんて、わた……看護師なのに……!」


 俺がもう一度首を振ろうとした時、あけたままのドアがコンコンと叩かれた。



 ああ、来たのか。



 このところ毎日だな。

 

 「貴方! 立ち入り禁止のはずでしょう!」


 慌てた看護師が、俺を守るように立ちふさがる。


 ドアに手を付いたトレードマークの赤い袖のジャンパーに99。


 金髪の髪に青い目の白人が、不機嫌そうに俺を睨む。



 ソウル・バトゥスキー。



 市警の刑事……俺の幼馴染。


 ソウルは、左足を少し引きずるようにしながらずかずか入ってきて看護師を押し退け俺の入院着の襟に掴みかかった。


 「何故ダ! 何故、裁判デ証言シナイ!!」


 片言の日本語。

 

 荒々しく俺を揺さぶるソウルの腕に看護師が飛びつき、『警備を呼びますよ!』と声を荒げる。

 

 「どうして……! お前が証言すれば、あの男を捕まえる事が出来るんだ! どうして黙ってる!!」



 今度は英語で怒鳴ったソウルは襟から乱暴に手を離すと、部屋の隅を指差す。


 そこにはスタンドにモニターと、キーボードのついた機械が静かに鎮座する。


 あの機械は、備え付けのキーボードに文字を打ち込むとそれが音声となって再生されるという物……つまりアレを使えば喉の潰れた俺でも裁判で『証言』出来ると言うわけだ。



 俺は溜め息をつき、ソウルから視線を逸らす。


 そんな態度に怒りが押さえら得なかったのか、ソウルは少し上半身の浮き上がっていた俺をを乱暴に放し出て行ってしまった。



 「なんて人!」


 看護師は乱れた俺の入院着を整えながら、ソウルの出て行ったドアをにらみつける。


 ソウル……。


 俺の住んでた田舎には軍の基地があって、ソウルはその基地の中に住んでいる軍人の子供で俺が野球ボールをフェンスの中に落としたのがきっかけで友達になった。


 地元民と軍人の子。


 言葉も通じなかったが、フェンス越しに身振りなんかで会話して……ソウルの親父さんが有事で派兵される事になってそのまま離れ離れになったっけ……。



 ……大学にもいかず、語学留学にかこつけて来たこの国で勉強も何も上手くいかなくてカフェとかでバイトなんかしながら無気力に過ごしていたころ、俺は偶然この国で刑事になったソウルに再会した。


 ガキの頃、少ししか遊んだことが無かったのにソウルは俺の事をずっと親友だと思っていてくれた……嬉しかった。


 ソウルは、俺が無気力にバイトばかりして過ごしているのを知ると本気で怒ってくれてもっと実入りのよい職場を紹介してくれた……それなのに俺ときたら紹介先で女の子に襲い掛かったセクハラ上司を殴ってクビになって結局安いバイトばかりしてたっけ……事情を知ったソウルはその上司を見事にしょっ引いてたな確か。


 それからソウルは、俺の事を気にかけてカフェで見聞きした事件の捜査に使えそうな情報を買ってくれたりした。



 語学力のない俺の情報なんてクソの役にも立たなかたろうに……このままじゃいけない……ソウルの世話になりっぱなしじゃ申しわけなくて馬鹿な俺は『あの日』うっかりあんな誘いに乗ってしまったんだ。



 ああ、ソウル。


 こんな、惨めな姿でまた再会するとは思わなかった。


 死ぬ気で俺を探してくれて、今回逃げる事が出来たのもソウルがいてくれてたお陰だ。


 わかってる。


 けれど。




 「あの」



 入院着も整え終えて、もうここになど用の無い筈の看護師がおずおずと話しかけてきた。



 「なにか、私に出来る事はありませんか? 大した事なんて出来ませんが……助けてもらったお礼がしたいんです!」


 

 青い目が必死に俺の事を見てる。


 

 ああ、そうか。


 俺は、手足をばたつかせて角の機械を持って欲しいと頼む。


 看護師は、すぐさま機械をベッドサイドに持ってきてスイッチを入れキーボードをベッドの簡易テーブルに置き俺の口にガーゼを巻いた専用の棒を咥えさせた。



 とん。



   ととっ。



 とん。



 『I want to come home』



 機械音が無機質に言葉を紡ぐ。



 看護師の顔が歪んだ。


 俺の姿を目の当たりにした母親が発狂し、引き取り拒否をした時の事を思い出したんだろう。



 『I want to come home』



 無機質な願いは、静まり返った病室にリピートする。



  『I want to come home』


  『I want to come home』

 

  『I want to come home』

 

  『I want to come home』


  『I want to come home』


  『I want to come home』

 

  『I want to come home』

 

  『I want to come home』


  『I want to come home』




 看護婦の顔が、何かに気が付いたように強張った。



 「やめて! どうして? ソレはできません!」



 顔面を蒼白にした看護師は、『シュバルツ先生をお呼びします!』絶叫して俺の病室から飛び出していってしまった。


 少しして、ビール腹の医者が来て機械音を鳴らし続ける俺に鎮静剤を打ち込んだ。







 真夜中。



 ふと目が覚める。


 真っ暗。


 目を閉じているのか、開けているのか区別がつかないほど光一つ差さない闇。


 アレは夢だったんだろうか?


 そうだな……あんなに都合よくうまく行くなんてありえない……。


 だって、小便であの通風孔の格子を錆びさせて脆くして脱出しようってんだぜ?


 いつの時代の脱獄映画だって話だろう?


 はぁ、こんな下らない夢なんて見てないでもう一眠りすれば朝飯の時間じゃないか。



 目を閉じて耳を澄ませる。



 もう少しすれば、あの足音が聞こえてきてドアをあけ俺を呼ぶ筈だ。



 が。



 待てど暮らせど、足音は聞こえない。



 どうしたんだろう?



 また寝坊でもしてるのか?



 あ。



 不意にドアが音も無く開き、眩いほどの光が差し込む。




 『ルゥ、あいしている』







 「_______!」



 俺は目を開けた。



 そこはいつもの病室の白い天井。



 眩い光。


 少し硬いが、清潔なベッド。


 曲がり並にも取り戻した『人間』らしい暮らし。



 なんでだよ……?



 手足をもがれ。


 喉をつぶされ。


 歯を抜かれ。


 アレまで切られて。


 やっと生きて戻っても、自分の家族にすら受け入れてもらえなくなったのに?



 全部だ! 



 俺の全部を奪いやがったあのクソみたいな地獄で夢見た物が此処にあるのに、どうして______こんなに?



 頭の奥にこびり付いて離れない……あの笑顔。



 金糸のような細くて長い髪。


 大きくて真っ青な目。


 細いのに意外に力のある腕。


 小さな唇。


 血だるまになるまでいたぶられ。


 抱きしめられて。


 キスされた。



 怪我で具合が悪くなると、ずっと傍にいて俺の頬を撫でてくれたあの小さくて不器用な手。



 サシャ……! 



   サシャ……!



        

 撫でて欲しい。


 抱きしめて欲しい。


 キスして欲しい。



 あげられる筈のない声は、空気が抜けるような音をたて吐き出される。



 そんな俺の背中に、看護師の手がそっと手が乗せられた。


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 【八月五日】


 俺は飯を食わなくなった。


 別に拒否している訳じゃない……食欲が湧かないんだ。


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 【八月十日】


 点滴が首に刺さった。


 だるい。

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 【八月二十日】


 もじをうつものturaい


 かんごしもカウンセラーもどんな顔なのかぼやけてmえn

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 【八月二十七日】


 よるみまわりにきた看護師が泣いている。


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 【八月さんじゅうにち】


 真夜中。


 寝ていると、ドアがあいて誰か入ってきた。


 香水の匂い。


 あの看護師だとすぐに分かった。


 懐中電灯のライトが閉じた瞼をやたら長く照らす。


 

 カチッ。


 懐中電灯の明かりが消えて今度はベッドスタンドのライトが付く……眩しい……一体……がふっつ!?


 強制的に開けられた口にねじ込まれる棒の用のモノ!


 それがどこまで入るんだって思うくらい喉の奥へ奥へとねじ込まれる!


 抵抗しようにも弱った体はまるで赤ん坊のように弱弱しい。



 苦しい!


  苦しい!


 タスケテ! 



 「あぐっ! ゴポッ! ゴポポポッ!」

 

 「そう少し……あと200ml」



 ズルズル。


 苦痛と吐き気の中ようやくずるりと喉から棒が抜かれる。


 「げほ! げほ! ひゅっ!?」


 咳込む俺の口元をガーゼが優しく拭う。


 見上げた看護師の青い瞳はあの子と同じ色だった。


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 【看護師メアリー・クレメンス】



 「貴女、最近あの日本人の患者に掛かりきりねぇ?」


 看護婦長の言葉に、私の心臓が跳ねる。


 「別にいいのよ? 最近までの貴女は何だか上の空で仕事もおざなりだったけど見違えたわ……これからも頑張って」


 そう言うと、看護婦長は立ち去っていった。


 私ったら……。


 気を付けていたつもりだったのに、看護婦長にそんな風に見られていたなんて……。


 看護婦長の言う通り、つい最近まで私はこの仕事を続けるべきかどうか本当に悩んでいた。


 期待と希望をもってこの看護の仕事をしてきたけど、30を目の前に自分にはもっと別の道があるんじゃないかと思うようになりその結果仕事にも身が入らず細かなミスを連発して同僚から注意を受けた事もあったっけ。


 やる気のないだらだらした看護師。


 そんな私に、初心を思い出させてくれたのがあの404号の患者さんだ。


 404号の個室に入院している日本人。


 彼は、あの社会を激震させた有名な猟奇的事件の被害者だ。


 この、セント・アメリア病院はそう言った事件被害で重傷を負った患者や戦争などで一生付きっ切りの介助の必要な患者専門の施設。


 けれど、彼の状態は私が見てきた中でも一番ひどいものだ。


 四肢切断。


 全ての歯の抜歯。


 局部切断。


 声帯の人為的な破壊。


 そのほかの無数につけられた深い傷。


 どれをとっても悲惨としか言いようが無かった。


 生きているのが不思議……いいえ、その状態でなぜ生きることにしたのか理解できない。


 きっと、苦しみぬいてもがいてそれでもあきらめずにここに至ったのだと思われる。


 けれど、こともあろうに彼の両親や身内の者はその姿を見るなり悲鳴をあげ帰国。


 それきり連絡もつかない。


 彼は、体どころか家族も失ったのだ。


 けれど、彼は生きるのをやめなかった。


 それどころか車椅子を拒否し、腕の……私達の言うところの肘の骨の少し上の高さで切りそろえられた四肢を使いまるで四足の動物のように床を這いまわりあまつさえ隙をみては逃走しようと暴れその言葉など発せぬ声帯で唸る。


 私にできたのは、逃げ回る彼を車椅子に縛り付けカウンセリングに回すことくらい。


 その後の、彼のカウンセリング結果について看護師ミーティングで周知があった。


 『彼は自己の認識を家畜だと思っているらしい』


 嬉々としたシュバルツ先生の言葉に誰も食いつかず、みんな各自ノートにたんたんと書き込む。


 戦争などで心にも体にも傷を負った兵士の受け入れもしているのだ、中には『自分は大統領だ』などとのたまう輩もいるのだから自分を家畜だなどと言うのは初めてのパターンだけれどその程度の妄想など慣れっこで特段驚くようなものでもない。


 私もそう。


 だから、いつもと同じく無感動に無関心に淡々と動作をくりかえして疲れて家に帰る。


 それが日常だった。


 あの日までは。


 あの日、とことん日常にうんざりして看護師ともあろうに作業はおざなりに気を抜きまくって足を滑らせて患者さんごとバスタブに落ちた。


 落ちた水の中で考えていた事は自分が『死にたくない』それだけ、一緒に落ちた……いえ、私の不注意に巻き込まれた彼の事なんて砂粒ほども過らない。


 最低な看護師。


 そんな私を助けたのは四肢を失った彼。


 狭いバスタブで立ち上がり、しがみついてパニックを起こす私を縁へ押し付けてくれた。


 咳込み驚く私を見て、彼は本当に本当に優しい笑顔をうかべてその短い手で頬にふれたのだ。

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