氷の魔女と人魚の宝珠
第1話 異変に沈む町
馬車こそ見かけないものの、人通りはそれなりにある商店街。
人々は誰もが不安げで、引きずるように進む足はろくな靴音も立てず、スリサズの耳には自分の呼吸音ばかりが響く。
一目で余所者だとわかる重装備の十四歳の少女の姿を、更に幼い地元の男の子二人が指差して笑う。
「すっげぇ! 全身甲冑だ!」
「お城の騎士さまかよ!?」
その声が聞こえて、スリサズは苦笑した。
本当にそうならば、あんな失礼な態度を取ったら一大事だ。
ともあれ、ちょうど良い。
「ちびっこ、ちびっこ。町長さんのお家はどちら?」
騎士っぽい人物に問いかけられて、子供達は顔を輝かせた。
「ビレオ町長のお家へ行くの?」
「ビレオ町長はね、ずっと帰ってきてないの!」
「お仕事で遠くの町へ行ったっ切りなの!」
「今はフィーナばあちゃんしかお家に居ないの!」
「役場には助役のウーロのおじちゃんも居るよ!」
「でもねー、ウーロのおじちゃんは頼りになんないの!」
「あのねー、ビレオ町長が居ない間にねー、町が変になっちゃったの!」
「でもねでもね、ウーロのおじちゃんじゃ頼りになんないって、パパもママも言ってるの!」
「あのねー、鏡がヘンなの!」
「町中の鏡が全部ヘンなの!」
「鏡にねー……」
「魚が映るの!!」
きゃいきゃいと騒ぎ立てる子供達のあまりのうるささに、スリサズは思わず眉をひそめた。
「鏡の前を魚が通れば、鏡に魚が映るのは当然でしょ?」
「そーじゃなくってー、魚なんて居ないのに魚が映るのー!」
「魚が空を飛んでるみたいに映るのー!」
そして子供達は、スリサズを両側からはさんで両腕を無理矢理掴み、通りに並ぶ商店の中の一軒に引っ張り込んだ。
「こっちこっち! 鏡はこっち!」
「ここにあるやつが一番近いー!」
ドアベルの音に顔を上げた小太りの親父が、騒々しい来客にあからさまに顔をしかめる。
「ここは……宝石屋さん……?」
店主の他には客も店員も居ないが、この人数でも窮屈に感じる、小箱のような店内。
スリサズは真珠のネックレスや珊瑚のイヤリングが囲む真ん中に置かれた試着用の鏡を覗き込んだ。
鏡の中に、スリサズの頭の真後ろを、大きな魚が泳いで通りすぎていくのが映った。
「ほらほら騎士さま! 見た? 魚!」
「ね? 空中を泳いでるでしょ! 水なんてないのに!」
その話に店主もため息をつきつつ加わってくる。
「ご覧の通りですよ、騎士様。魚なんてどこにも居やしないんです。魚が空なんて飛ぶわけないんですからね。魚どもは、鏡の中に住み着いているんですよ。それだっておかしな話なのはわかっています。でもそうとしか考えられないんですよ。別に魚どもが何か悪さをしてるってわけじゃありませんよ。今のところはね。ですが、どうにも気味が悪くってねェ」
「なるほどね……」
スリサズは、鏡と店主、そして子供達を見比べた。
「ねーねー騎士さまー! 騎士さまは、このイヘンを調べにきたんでしょー?」
「騎士さまー! このイヘンって、サイヤクのヨチョウなのー? パパもママもそう言ってるのー!」
スリサズはまとわりつくちびっこ二人を無言で引き離し、両手で二人の頭を撫でた。
今はまだ、その話はしない方が良い。
町長の家の前で子供達と別れる。
スリサズが呼び鈴を鳴らすと、中から「ちょっと待って」と老婦人の声がした。
しかしここでスリサズは急に息苦しくなった。
「ヤバイっ!」
靴につけた重りを慌てて外すと、スリサズの体は地面を離れてフワリと浮き上がった。
すぐに屋根を見下ろすほどの高さになり、更にぐんぐん上昇していく。
町長の妻の、品の良い白髪のフィーナ夫人が玄関の戸を開け、まさか頭上に人が居るとは夢にも思っていない様子で不審そうに左右を見回す。
スリサズから、町の景色が遠ざかる……
海面から顔を出し、スリサズはヘルメットを取って、大きく息を吸い込んだ。
青い空の下、穏やかに光る波。
遠くには、港が見えて、漁船が行き交う。
スリサズは近くに浮かぶ
筏の上には手漕ぎ式のポンプが置かれ、ポンプの取っ手に、年老いた男性の人魚がもたれかかっている。
「ビレオさん、大丈夫?」
「すまんな。少し休ませとくれ」
スリサズに問われ、老人魚は弱々しく微笑んだ。
ポンプから伸びるホースは、スリサズの潜水服に繋がっていた。
始まりは二ヶ月ほど前。
世界樹の枝の上に広がる鳥人族の村で、翼ある人々が空中で突然飛び方を忘れて地上に墜落するという事態が相次いだ。
その翌月。
今度は丘の上にある人間の町で、住人が一斉に崖から飛び降り、多数の死者と負傷者が出て、生き残った人間達は“自分は鳥人族でいつも飛んでいると何故か思い込んでしまった”と証言した。
そして今、同様の異変が人魚の町を襲っている。
「町の人魚達は、あたしが見た限りでは全員が、自分を人間だって思い込んじゃってたわ。みんな、しっぽがあるのに泳がないで、尾びれを海底に引きずって歩いてるの。水中に居るってこともわかってないわね。周りを魚が泳ぎ回ってるのに見えてない。そうとう強い幻術よ。しかも複雑なかけ方をしてる。鏡に自分達の姿を映しても幻のまま見てるけど、鏡に映る魚の姿は魚として見えてるの。術をわざと不安定にしているのよ。だから……術者の要求を飲まないと、町民に、人魚だってことを忘れたまんま水中に居るって思い出させて、人間として溺死させるっていうのは、ただの脅しじゃないと思うわ」
「おおっ! おのれ幻術師め!」
人魚の町長、ビレオは、便せんを握りしめてうめいた。
数日前、漁獲量を巡る会議のために人間の港町を訪れていたビレオのもとに、突然届けられた脅迫状。
そこには先ほどスリサズが話したのとほぼ同じ内容が書かれ、町の人魚達全員が人質であることを告げ、身代金を求める言葉で締めくくられていた。
「恐ろしい相手ね……」
鳥人族の村を襲ったのは単なる術の練習。
丘の上の町は、自分の力を見せつけるため。
それだけのために、幻術師はすでに多くの死傷者を出している。
「金が払えぬわけではないんじゃ。我が家には、代々伝わる人魚族の宝珠がある」
「悪いヤツに従ったからって、みんなが助かるとは限らないわ。用が済んだら口封じってパターンもあるし。幻術師がどこに居るかわかれば、あたしの魔法で直接ぶちのめせるんだけれど」
「それではどうすれば……」
「もう一度、潜って様子を見てくるわ。ビレオさん、ポンプをお願いね」
「すまんな。わしが自ら行ければ良いのじゃが……」
町全体にかけられた術は、留守だったビレオにはかかっていない。
町の人魚達が人魚のままのビレオを見れば、術が中途半端に解けて、危険なことになるかもしれない。
「あたしの潜水服が騎士の全身甲冑に見えてるぐらいだから、ビレオさんのしっぽも大丈夫だとは思うけど、用心に越したことはないですからね」
そしてスリサズは再びヘルメットを被った。
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