第5話 その原稿に光を見た
育英出版での打ち合わせから数日が経った。
七馬は、手塚を引き上げてやりたい。
「手塚君は、スティーブンソンの『宝島』は知っとるかな」
「もちろんです」
宝塚にある手塚の自宅で、二人は合作について打ち合わせをしていた。八月二十八日のことだった。
開いた窓から流れ込んでくる熱気は蒸し暑い。二人は滴る汗を拭いながら、合作について語り合う。
「スティーブンソンを知っとるなら、ロビンソン・クルーソーも知っとるな」
「はい。子どものころ、夢中で読んだものです」
「わしもや」
七馬はニッコリ笑った。
「わしが考えとる漫画はな、育成出版のほうでも言ったんやけど、それに近いものなんや。宝島もの。冒険もの……子ども向けの王道やな。わくわくする、手に汗握る大冒険……」
まさにその語っている七馬の手にも、汗が滲んでいる。暑いのだ。
「ただ、そんな宝島ものはいままでにも仰山あった。良く言えば王道やけど、悪く言えばマンネリや。――だからわしは今回の作品で、ちょっとした冒険をしてみることにした」
そう言って七馬は、ぼろぼろのカバンから一冊のノートを取り出した。
「こんな感じの作品をやってみたいんや」
七馬は、手塚にノートを手渡した。
表紙には『新宝島原案』と書かれてある。
「拝見します」
手塚は、汗でずれた眼鏡の位置を直してから、ノートを開いた。
(あっ)
手塚は息を呑んだ。
ノートには、作品の出だし部分が描かれていた。
主人公らしき人物――まだ人物と呼ぶにはあまりにも荒っぽい、ほとんど線と丸だけで描かれた、人形のようなキャラクターが、走り回っている。
漫画用語で言うところのネームである。コマ割りや構図、キャラクターの配置等を大雑把に描いたもので、下書きの下書きと言っていい。
そのネームを見て、手塚が息を呑んだのにはわけがある。
(アニメみたいな)
そのネームは、既存の漫画とはまったく異なる雰囲気だった。
そもそもこの時期の漫画は、舞台の上でキャラクターが芝居をしているような、平面的な構図の漫画が多かった。九十九パーセントがそれだと言っていい。だが、七馬が描いたこのネームは違う。
まさに、アニメの動画を見るが如しである。
主人公が歩く。動く。走る。
流れるように、物語が展開している。
「まるでアニメだ! これは凄い!」
「そうか、凄いか」
手塚の賞賛に、七馬は照れた。
「いや、冒険をしてみた、とおっしゃった意味が分かりました。これはアニメをそのまま漫画にしたようですね」
「さすが手塚君や、そこを見抜いてくれたか」
七馬は洋モクをプカプカやり始めた。
「こういうやり方はな、別にわしの独創ではない。戦前には宍戸左行さんちゅう人を始め、何人もの人がこういう漫画を描いたりしとった。まるで映画やアニメのような漫画や。映画的手法、ちゅうのかな。当時は邪道や言う人もおったが、わしはこういう漫画が好きでな、一度、自分の手でやってみたかった。今回、長編漫画の依頼が来たことでやっと挑戦できる……」
「宍戸左行……『スピード太郎』ですね?」
「そうや。さすが手塚君、詳しいの」
『スピード太郎』は戦前にヒットした漫画である。昭和五年『読売サンデー漫画』から『よみうり少年新聞』にかけて五年間連載された作品で、アメリカ帰りの漫画家、宍戸左行のセンスが発揮された漫画だった。アメリカンコミックの影響を強く受け、尚且つ、映画的手法を多用したその斬新さは、当時、漫画関係者の間で話題になったものだ。
「漫画は大好きですから。そうか、そう言えば『スピード太郎』に似ている……アニメみたいな漫画……」
「わしらはいずれ、日本のディズニーになるんやないか。その第一歩としてこの『新宝島』や。本当のアニメやあらへんのは残念やけど、まあ千里の道も一歩からやな」
「そうですね」
二人は笑い合った。
育英出版は、二百ページほどの長編漫画の依頼をしてきた。雑誌連載ではなく、単行本による出版だ。
この時期、これだけの長編漫画を描かせてもらえるというのは幸せなことであった。雑誌連載の漫画など、月に三ページだとか四ページだとかの時代である。
「何百枚も漫画を描くのは大変やけど、やりがいはあるわな」
「はい」
「とにかく手塚君、わしの原案はこれや。でも、この見本描きはあくまでもシノプシスやから、気にせず、手塚君の好きなように料理してくれや」
「は……」
手塚は緊張した面持ちである。
七馬はひとまずこのノートを手渡して、あとはなるべく手塚の好きにさせようと思っていた。この若い漫画家が、宝島の物語を、そして七馬の考えたアニメ的手法のネームを、どのように料理するか楽しみでもあった。
(頑張れや、手塚君)
汗を流してノートを見つめる手塚に、七馬は心からエールを送った。
数日後、手塚は七馬の家までやって来た。
「具合はどうや」
「はあ」
手塚は照れたような笑いを浮かべている。この、彼がはにかんだときの表情は、やはりたまらない愛嬌がある。この男のためならなんとかしてやりたい。他人にそんな気持ちを抱かせる笑顔だ。
「苦戦しております」
手塚の正直な気持ちであっただろう。七馬は大きくうなずいた。二百ページもの大長編を描こうというのだ。苦戦しないほうが嘘だ。
「なんと言いますか、緊張しているせいでしょうね。満足できる絵が全然できない」
「ふむ」
「描いては消し、描いては消し……その繰り返しです」
無理もない。
――後年の手塚の回想から言葉を借りれば「これまでの仕事と違って、世の評価と批評を真っ向から受ける大仕事であり、しかもぼくの漫画家としての運命がそれで決まってしまうのだ」から、緊張するのは当然といえた。
「えてしてそういうものやな」
七馬もそういう時期があった。手塚の苦心は痛いほど理解できる。
「それでも、こうしてわしの家に来たということは、一応は描けたということやろう?」
「……はい」
そう言って、手塚はカバンから封筒を取り出した。
「酒井さんのノートを参考にしつつ、自分なりに料理してみました。まだ一枚目の扉絵だけなのですが」
「拝見しよう」
七馬は、この若手漫画家が、扉絵をどう仕上げてくれたのか、わくわくしながら封筒を開けた。
原稿を手に取る。
すると――
(なっ)
七馬の目に、自動車が飛び込んできた。
帽子をかぶった少年が、車に乗っている。いや、動かしている。
その車が、走っている。
走る音がした。
確かにした。
漫画の原稿には、擬音も何もない。【冒険の海へ】と書かれたサブタイトルに、少年が運転している自動車が走っているだけだ。――それなのに。
(なんや、これは……!)
車が走っている。
間違いなく、音を立てて、煙をあげて、走っている!
(アニメや!)
絵が動いている。
音が出ている。
これはアニメだ。映画だ。漫画ではない。
いや、漫画だ。間違いなく、紙の原稿に描かれた漫画だ。そうだと分かっているのに、七馬の目は、耳は、間違いなく走っている自動車を認識しているのだ。
「酒井さん、どうですか」
「ア――」
間の抜けた声を漏らす七馬がそこにいた。現実の世界に戻ってきたのだ。
七馬は何秒間か、漫画の世界に飛び込んでいた。その感覚は目もくらむような衝撃だった。
(これは、わしの描いた『新宝島』ではない)
「アニメみたいな漫画をとおっしゃったので、こう描いてみました。……酒井さんのノートとは、かなり違う構図になってしまって、申し訳ないです」
(線が光っとる。漫画の線が光っとる――)
「こんな感じで描いていきたいのですが、いかがでしょうか」
「……」
いかがも何もない。
こんな原稿を見せられて、七馬に何を言えと言うのか。
アニメ的原稿、映画的手法。それは間違いなく七馬が提案したもので、手塚はそれを受けた。
だが、それにしてもここまでの漫画を描けるとは……。
「手塚君」
「はい」
「君が描いたんか、この扉絵」
「は――」
「あ、いや」
あまりに間抜けな質問である。手塚が描いたのに決まっている。そんな当たり前の事実を思わず確認してしまったほど、その原稿は素晴らしい出来で、十代の青年が描いたとは思えないものだったのだ。
その原稿は、漫画なのに、アニメそのものだ――
「……これでええ」
「良いですか!」
手塚は、例の愛嬌たっぷりの顔で笑う。
「うん、ええ」
七馬としては、そう言うしかない。
「では、こんな感じで続きをどんどん描いていきます! 原稿が描けたら、持ってきますので!」
そう言って手塚は立ち上がり、
「失礼します!」
そう言って、七馬の家から出て行った。
「……」
七馬はその場に呆然と座っていた。
(これで二度目や)
手塚の原稿を初めて見たとき、七馬はその原稿に光を見た。
そしていま、手塚の描いた『新宝島』から、またも光を感じた。
それも、その光はさらに強烈になっている。
七馬はあぐらをかいたまま、目の前に残された手塚の原稿をまた眺めた。
少年が自動車を運転している。
それだけだ。
それだけのシーンに、どうしてここまで心を奪われる?
――手塚治虫は、日本のディズニーになるぞ!
かつて手塚が、七馬と大坂ときをの前で高らかに宣言したあの場面が、脳裏によぎった。
「――くう……」
七馬は拳を作った。
強く、強く握った。
歯軋りする。
悔しい。
悔しいのだ。
七馬は嫉妬の念を覚えた。
手塚は二十歳にもならぬ年齢で、四十歳を超えた自分よりもはるかにうまい絵を描ける。そんな事実を突きつけられた七馬は、妬みの気持ちを抑えることができない。
(あんな若者が――)
それは吐き気にも似た気持ちだった。
(何を悔しがる。手塚君を引き上げようと決めたのはわしやないか)
それなのに、なぜ、こうも悔しいのか。
七馬自身にも、分からない。
――分からない。
「は」
手塚が描いて、持ってきた下書き。それを読んでいた七馬が、ぽつりとつぶやいた。
「ストーリーがな、分からない。分かりにくい。ひねりすぎや……」
「はあ」
七馬のダメ出しは珍しかった。
手塚が『新宝島』に着手してから、既に一ヶ月が経っていた。夏の盛りは過ぎ、秋の匂いが漂っている。
この日、手塚が見せに来たのは二百五十ページにも及ぶ『新宝島』の下書きであった。ワラ半紙に描かれたその漫画は、起承転結が綺麗に出来上がった物語なのだが、
「なんと言うか、大人向けやな。手塚君の漫画は……」
「……」
「話が……皮肉的すぎるわ」
手塚の考えた『新宝島』の話は、こうであった。
主人公の少年が宝島に辿り着き、現地の青年バロンと協力しあって海賊と戦う。そして最後は宝を手に入れて、バロンと共に宝島を後にする。
――しかし。
結局、それは妖精が少年に見せた夢であった。
現実ではない。
現実ならば、こんなことはありえない。いまは二十世紀、科学の時代だ。ドクロマークの海賊など時代遅れだし、バロンを少年の国に連れ帰れば不法入国者として逮捕される。手に入れた宝だって、税関で没収されるのがオチだ。
いまはそんな夢のない時代なのだ。だから妖精は少年に夢を見せてあげたのだ。楽しい夢を。
だが、夢はいずれ覚めるときが来る。いまがそのときだ。さあ、覚めよう、夢から。戻ろう、現実の世界へ――
「子ども受けする話か?」
七馬にしては珍しく、厳しい口調であった。
「確かにわしはマンネリめいた宝島ものを批判した。せやけど、こういう筋書きはどうやろうな。手塚君、君は新しいということを、何か勘違いしとらんか」
「……」
「理屈っぽすぎる。君の漫画は」
「理屈があって何がいけないのでしょうか」
少し、むっとした口調で手塚は言った。
「あかんとは言わへんけど、これは漫画や。それも子ども向けの漫画やで。大人向けならともかく、子ども向けの漫画でこんなに理屈をこねたらあかん。税関とか不法入国とか……漫画なんやから、荒唐無稽でええんや。もっと分かりやすい物語を子ども達は求めとるんや」
「……そうでしょうか」
「そうや」
断定するように、七馬は言った。
さらに続けて、
「経験上、分かる」
とも言った。
手塚は何か言いかけたが、すぐに黙った。ベテランの七馬に経験を持ち出されては、手塚は何も言えないのだろう。
「まあ、そういうことや」
「……」
「それに手塚君」
七馬は一度咳払いをしてから言った。
「出版社は二百ページほどの漫画を依頼してきたんや。せやけど、これは二百五十ページもある。オーバーしすぎやな」
「……描きたいことを表現するには、それだけのページが必要でして」
「気持ちは分かるが、出版社の依頼してきたページ数をオーバーしたらあかん」
「……」
手塚は黙っていた。
彼が黙る気持ちは七馬にも分かる。全身全霊で作品を作り上げ、これこそ傑作とばかりに他人に批評を求めてみると、ボロクソに貶されて意気消沈する――七馬自身にも覚えのあることだ。
だがそれでも、七馬は言うべきことを言わねばならない。そういう立場にある。
「手塚君」
「はい」
「どうや、この漫画から、オチの部分をごっそり削っては」
「えっ!」
手塚にとって、それは思いもよらない言葉だったのだろう。目を見開いて、仰天した面持ちだ。
「つまり、主人公達が宝島を去る場面で話をおしまいにするんや。それに合わせて話を編集すれば……ほれ、百九十ページほどで話が終わる」
「し、しかし、それは……」
「手塚君」
七馬は少し厳しい口調で言った。
「君は既にプロの漫画家なんやろう。それなら、こういうこともある、と心得ておかなあかん。出版社が二百ページと言ったら二百ページで話を終わらせるんや。また、一人よがりの話を描くのではなく、読者のことを考えて描いていかねばならんのや」
――我ながらおせっかいなことやな。
七馬は言いながら心が苦しかった。もともと、説教などがらではないのである。
それでも、ここは言わねばならないと思った。手塚のためだと自分に言い聞かせて、七馬は慣れぬ論調で、あれこれと言葉を並べたてた。
結局、手塚は納得した。
下書きを七馬の言葉通りに構成しなおして、原稿を描くことを承知したのである。
だが。
手塚が帰ったあと、七馬の表情は暗かった。
説教をしたからではない。
(あの説教に、少しでも私情が入らなかったと言えるか……)
自分の息子ほども若い手塚が、きっちりとした漫画原稿を描きあげたことに、少しでも嫉妬しなかったか。本当に相手のためを思った説教だったか。
(どうもいかん……)
同志となるのに年齢は関係無いと言うのが、自論であったはずなのに、どうも近頃はおかしくなっている――
(いかん……)
七馬の心は、暗かった。
何やら、自分の精神が老いてきたような気がしてならない。
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