第4話 『新宝島』始動

 この年の八月、七馬は引越しをした。

 終戦から一年が経ち、居候先から、

「そろそろ出ていけ」

 と言われ始めたからだ。

 七馬も、そろそろ出ていこうと思っていた。

(居候などしていては、志が腐る)

 住む所が確保できている環境はありがたいが、それだけその状況に甘えが生じてしまい、夢も志も失ってしまう。

 それでも昨年、大阪大空襲から終戦まではそれどころではなく、とにかく目先の生活をなんとかしなければ命が危うかったため、七馬は居候先に甘えていた。命を失えば夢もへったくれもない。

 だが、その時期は終わった。

 アメリカ軍の似顔絵描きの仕事や、まんがマンの仕事ができた。また、ぼちぼち新聞や雑誌なども世の中に出てきたため、それらのイラストやカットを描く小さな仕事もできてきた。

 よって、七馬は引越しをした。

 引越し先は、桃谷である。北に大阪城をのぞむこの場所は、商店街にさまざまな店が揃っていて便利だった。

「一国一城のあるじやな」

 路地の奥に建てられた木造の一戸建ては、廃材を使って安く建てたものであり、見た目にはかなり貧相だった。

「一城のあるじやなくて、のあるじや」

 などと、遊びに来た松葉健がからかった。彼は新世界に住んでいる。新世界と桃谷は数キロしか離れていないので、自転車に乗ればいつでも遊びに来られる距離だ。

 そんな松葉健でも、家の中に入るとあっと息を呑んだ。

 窓際にL字型の机が置かれ、窓からは小さくても庭が見えるその屋内は、ちょっとしたアトリエのようで、ハイカラな雰囲気だった。

「見た目は小屋でも、中身は大阪城に負けへんで」

 冗談めかして笑う七馬であった。


 引越しをしてから数日後、八月二十日のことだ。

 まんがマンクラブの例会が開かれた。

 場所は漫画書院――つまり大坂ときをの自宅である。

 台風が大阪を直撃して、雨と風がひどい日だった。

「なんだか、よく雨が降りますね」

 などと、手塚は自嘲気味に笑ったものだ。

 そんな手塚を筆頭に、漫画書院に集まったのは、漫画が三度のメシより好きと言う連中ばかりである。総勢二十人の漫画家志望者が集まり、あれこれ議論を交わしたり、また持ち込んだ漫画を七馬に批評してもらうのだ。

 メンバーの中には、十五歳の少年もおり、七馬を驚かせた。

(松葉君よりも若い漫画家志望か)

 その松葉健は、実家の手伝いと言うことで今日の会には参加していない。

(どんどん若いのが出てくるなあ)

 これも戦時中、国家が漫画文化をさんざん抑圧した反動ではないかと、七馬は思った。

 そんな少年に、手塚が気さくに話しかける。

「君は、名前はなんと言うのかな」

「東浦光男です」

 後に東浦美津夫と言うペンネームでデビューし、横山光輝や梶原一騎と手を組んで作品を発表することになる少年であった。彼はこのまんがマンの例会に参加したことがきっかけで、終生、手塚治虫と親交を結ぶことになる。

「東浦君か。こんな若い世代が次々と大人になって、漫画の作者や読者になったら、そのうち、おじいさんやおばあさんでも漫画を読む時代が来るかも分からんなあ」

「風刺漫画ですか」

「いやいや、違うよ。コミカルな子ども向け漫画を、お年寄りが読む時代だ」

「えっ」

「そして子どもが、ひねったテーマをもつ大人向けのような漫画を読む時代も来る」

「まさか」

「まさか、じゃないよ。そもそも漫画に子ども向けとか大人向けとか分けること自体がおかしいと、僕なんかは思っているんだが……」

 つまり、子ども向け漫画でも殺伐とした作品や、ひねったテーマのものが出てきてもいいし、逆に大人向け漫画でももっとシンプルなユーモア漫画が出てきてもいい。手塚はそう主張しているのだ。

「手塚さん、そんな漫画、誰が読むんですか」

「僕ら漫画好きならともかく……」

「作者の自己満足ですよ」

 そう言って、会員達は笑った。

 この時代にも、大人向け漫画と言うのはある。しかしそれは一コマで分かる風刺漫画、現代の世相を皮肉るようなブラックユーモア漫画ばかりであった。

 それに対して子ども向け漫画とは、四コマ以上で話を展開させる、分かりやすいギャグや冒険を基本とする漫画ばかりであった。

 手塚の言葉は、会員達には受け入れられなかった。子どもが大人向けのような漫画を読み、大人が子ども向け漫画を読む時代など、来るはずがないと会員達は思った。

 七馬でさえも思った。

(手塚君は妙なことを言う)

 子どもはどこまでも子ども向け漫画を愛するし、難解な作品は好まない。

 大人は知識と知性を持ってしまった生き物である。子どもが読むようなギャグ漫画や冒険漫画など読むはずがない。

 七馬や会員達だけではなく、それが世間一般の認識であった。

 場の雰囲気を察したのか、手塚は何も言わず、笑いながら頭をかいた。

 それから、大坂ときをが用意したスイカが出た。

 会員達はスイカを食べながら、昨今の漫画について語り合った。


 例会は夕方には終わった。

 誰もが満足そうな表情で帰っていったが、七馬と大坂ときを、そして手塚だけはその場に残っていた。

 その表情は決して明るくない。

「まんがマンの評判があまりよろしくないんですわ」

 大坂ときをが、低い声で言った。

「この手紙を見てください」

 そう言って、大坂ときをが差し出した手紙を開くと、辛らつな文章が載せられていた。

【批評ではありません悪口を書きます。好いところはわからないらしいです。表紙を僕はあくどいと見ています。品が全然ありません。作品の並べ方(組み方ですか)など、やになりました。本当です】

「ふむ」

 七馬は顔をつるりと撫でた。

 経験豊富な七馬である。雑誌などをやっていれば、こういうことのひとつもあろう、と思った。

「金を取る雑誌を出せば、賞賛ばかりというわけにもいくまいな」

「どうしてかなあ、まんがマンはこんなに面白いのに」

 手塚は手元にあったまんがマンをパラパラめくる。

「例会だって、あんなに盛り上がったのに……」

「漫画好きだけを見すぎていた、ちゅうことかな」

 七馬の言葉に、大坂ときをが黙ってうなずいた。

 つまりマニアックすぎたのである。漫画マニアが喜ぶような作品と編集をしすぎたため、一般人からは嫌われたのだ。

「難しいものですね、雑誌とは」

「おおとも、難しい」

 手塚の言葉に、七馬がうなずいた。

 七馬も雑誌の編集をしたことがある。戦前、『大阪パック』と言う雑誌の編集をやったことがあるのだ。

「読者の望むような誌面を作らなあかんし、かと言って読者に媚びすぎるとそれはそれで嫌われる。難しいものや」

 例えば、まんがマンの誌面をいまから一般向けにしたら、今度は例会に集まった漫画好きから叩かれるだろう。

「まあ、こういう意見もある、いうことやな」

「酒井先生は動じませんな」

「動じてどうこうなるような問題なら、おおいに動じるけどな」

 そう言って七馬は、洋モクを取り出してプカプカやり始めた。

「売れてはおるんやろう? まんがマンは」

「ええ、いまのところ返品もほとんど来ておりません」

「なら、ええわ。売れへんのが一番問題やからな」

 ニヤリと笑った七馬は、余裕綽々という表情だった。

「何、これからや。江上君、これからも頑張ろうやないか。手塚君、これからも漫画をどんどん描いてくれ。まんがマンに載せるで」

「はい」

「ええ……」

 だが、大坂ときをと手塚は浮かない顔であった。

 解散間際、手塚はぽつりとつぶやいた。

「しかし酒井さん。まんがマンにこういう意見が来たということは、一考するべきでしょうね」


 ――手塚君は何やら焦っとるな。

 桃谷の自宅に戻ってから、七馬はぼんやりと考えていた。

 大人向け漫画と子ども向け漫画について語ったときも、最後にまんがマンへの意見についてつぶやいたときも、手塚の将来に対する漠然とした不安が垣間見えた。

 ――このままで自分は良いんだろうか。

 ――漫画は自分の将来を託すに足る道か。

 そう考えているのだろう。

(分かる気がするわ)

 手塚は既にプロとしてデビューしているが、まだヒット作と呼べるものを出していない。漫画家としては不安定な状態と言っていい。

 その傍らで、医学生としての顔ももっている。

(医者になるか、漫画家になるかで悩んでいる……)

 七馬にはそう思えた。

 無理もない。弱冠十八歳の青年である。おおいに悩む時期だ。まして、医者と漫画家である。どちらも気持ち半分で勤まる職業ではない。だから、

 ――まだ十八歳だから。

 と言う理屈は通用しない。十八歳だからこそ、早急に道を決める必要がある。どちらに進むべきか……。

(手塚君は漫画家になりたいに違いない……)

 その情熱は本物だろう。手塚が描いた漫画の原稿は光り輝いていた。遊び半分で描いた原稿ではない。彼の漫画への情熱は確かだ。

 しかし、漫画家よりは医者のほうがよほど将来が安定している。世間への聞こえも漫画家とは雲泥の差だ。悩むのは当然といえる。

 せめて手塚にヒット作の一本でもあれば、吹っ切れて漫画家だけの道を歩むこともできるのだろうが……。

(ヒット作か)

 七馬は机の引き出しを開けて、中から一枚の紙を取り出した。

 それは出版社からの、原稿依頼だった。

 昨日、七馬の家のポストに入っていたものだ。

【酒井七馬先生に長編漫画の原稿を依頼したし。連絡乞う 育英出版】

 ありがたい原稿依頼である。恐らく、この育英出版の編集者が七馬の家までやって来たが留守だったので、この紙をポストに入れていったのだろう。連絡先も書かれてあった。

 アバウトな原稿依頼だが、電話もろくに普及していない時代である。このようなことは、ままあった。

(ふむ……)

 七馬は、考える。

(この原稿依頼をうまく使えば、あるいは……)

「おーい、ヤノサン」

 そのときだ。外から、松葉健の声がした。

「おう、なんやー」

「遊びに来たで。入ってもええかあ」

「ああ、ちょうどクサクサしとった。――おい、今日はちょっとコーヒーでも飲みに行かんか」

「おごりならええで」

「ちゃっかりしとるわ。よっしゃ、おごったる」

 そう言って、七馬は家から出た。

 桃谷の商店街は既に復興も進み、店が立ち並んでいる。七馬と松葉健が入った喫茶店、『タマイチ』はそんな商店街の中にあった。茶色い外観をした、洒落た雰囲気の喫茶店である。

「おーす」

 既に七馬は顔なじみとなっている喫茶店である。気さくに挨拶をしながら、中に入った。

 松葉健も、続けて入る。

「おーす」

「こいつ、わしの真似をしおって」

「へへ」

 七馬は、やって来た店員にコーヒーをふたつ注文した。

「ヤノサン、今日の例会はどうやった」

「おう、盛り上がったで。東浦君という、十五歳の子も来とってな。松葉君と会わせてみたかった。せやから、君が来られへんかったんはわしも残念やった」

「十五歳かあ。そんなのも来るんやな。くそっ、ええなあ」

 松葉健は心底残念そうに言った。

「俺も行きたかった」

「次の機会にしたらええわ」

 やがてコーヒーが運ばれて来た。

 七馬は、美味そうに飲む。

「ここのコーヒーは本当に美味い」

 洋モクを吸いながら、『タマイチ』のコーヒーを飲むことが、七馬にとって最大の娯楽であった。この嗜好は晩年まで続く。

「ところでヤノサン」

「ん?」

「気分がクサクサしとったとか言うてたが、何かあったんか?」

「ふむ」

 七馬は吸っていた洋モクを灰皿に置いて、腕を組んだ。

「前にも話したやろう。例の手塚君なんやけど」

「ああ、宝塚のほうに住んでいる医大生の漫画家」

「そうや、よく覚えとるな」

「そんなけったいな肩書きをもつ人間、ようおらんからな」

 松葉健は、コーヒーを飲みながら笑った。

「そう、けったいな肩書きや。医者志望にして漫画家志望なんて人間、これまではまずおらんかったやろうし、きっとこれからもそうそう出てこんやろう」

 だからこそ彼は困っている――と七馬は言った。医者になるべきか、漫画家になるべきか、手塚は悩んでいるのだろう、と。

 松葉健は「はー」と何やら感心したような声を出した。

「頭がええ人は大変やな。いろんな悩みが出てきはる」

「気付かんでもええところに、気付いてしまうからの」

「俺はアホで良かったわ」

「まあな。アホのほうが幸せに生きられる。悩まんからの」

 そう言って七馬は笑い、松葉健も笑った。

「しかしヤノサン、その手塚さんのことを、なんでヤノサンが悩むんや。放っておけばええやん」

「いやあ」

 七馬にとって、手塚はディズニーについてあれほど語り合った同志である。彼が漫画から離れて、医学の道に行ってしまうのは悲しい。おせっかいかもしれないが、できれば、漫画家として一緒に頑張りたいのである。

「――松葉君」

「なんや」

「ちょっと、これを見てくれ」

 そう言って七馬は一枚の紙を見せた。

 それは育英出版からの原稿依頼であった。

「おっ、原稿依頼やん。さすがヤノサンや」

「うん、わしに来た依頼や。せやけどな」

「せやけど?」

「この依頼、わしは手塚君と二人で受けようかと思うとる」

「……は?」

「合作や」

「合作、って……」

 松葉健は、目を見開いた。

「その手塚治虫さんとか?」

「そうや」

「いや、しかし……」

 松葉健が言いたいことは七馬にもよく分かった。

 合作と言っても、手塚治虫は四コマ漫画を新聞に発表しただけの新人である。大阪漫画界で戦前から活躍し、また先日も『タコの行水』を二万部売り切ったベテラン漫画家、酒井七馬とは格が釣り合わない。

 だがそれでも、七馬は手塚と二人で漫画をやってみたかった。

 かつて見た、手塚の漫画原稿から感じた光は、まぼろしでは無いはずだ。

(手塚君には才能がある……)

 それを同志として、また漫画界の先輩として引き伸ばしてやりたい。そう思ったのだ。

 合作ならば、手塚が描いた漫画原稿を細かくチェックすることもできる。悪いと感じたところは指導してやれば良い。そして目指すところは、

「ヒット作を出す」

「ヤノサンと手塚治虫でか」

 松葉健は呆れたように言った。

「ヤノサン一人で描けばええと思うがなあ」

「まあ、わしの絵もそろそろ古くなってきとるしな。その点、フレッシュな手塚君と手を組むのは、わしにとってもメリットがある、っちゅうわけや」

「そうかなあ……」

 松葉健には、いまいちそのあたりが分からない。

「まあ、見とれ。わしが手塚治虫を大漫画家に育てたるさかい」

「はあ。手塚さんは幸せやな。こないにヤノサンに見込まれて」

 少し拗ねたように、松葉健は言った。手塚よりも先に七馬と出会ったのに、七馬が手塚手塚と言うのが、気に入らないのだろう。

 七馬は笑った。

「まあ、そう拗ねるなや。松葉君ももっと上手うもなったら、わしと合作しようや」

「約束やで」

 松葉健は、白い歯を見せて笑った。


 七馬は翌日、ただちに手塚と連絡を取った。

「どうや、ある出版社から話があるんやけど」

 と前置きした上で、

「ひとつ、わしのアイデアと、君の絵という合作で長編漫画を描こうやないか」

「は……」

 いきなり七馬に呼び出され、合作を持ちかけられた手塚は、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔である。

「僕と酒井さんで長編漫画……ですか」

「うん、そういう話が来とるんや。……どうや」

「どうや、と言われましても……」

 手塚は戸惑った顔付きだったが、やがて笑顔で答えた。

「やれるものなら、ぜひ!」

 新人の手塚からすれば、願ってもないチャンスである。合作でもなんでも、漫画の仕事があるというのは嬉しかった。

「でも、酒井さん。その依頼は酒井さん一人に来たものでしょう? 僕みたいな新人が酒井さんと合作すると言って、先方が承知してくれますかね?」

「そんなことは君が心配せんでもええ。こう見えても、わしは大物やからな」

「はあ……」

「とにかく、出版社に二人で行ってみようや。話はそれからや」

 二人は育英出版の社屋に向かった。

 育英出版は、十二軒町にある。

 育英出版に着くと、編集者がやってきて、丁寧に二人を応対してくれた。

 七馬と手塚を担当したのは、編集部長をやっている近藤健二という人物だった。社会全体が慢性的な人材不足だった時代とは言え、打ち合わせに部長がじきじきに出てきたあたり、七馬の漫画家としての地位が窺える。

 話し合いはトントン拍子に進んだ。

「酒井先生が見込んだ新人さんなら、大丈夫でしょう」

 近藤健二はニコニコ笑って、手塚を認めたものである。

「それで酒井先生、どんな漫画にされるおつもりですか。うちとしては、子ども向けの単行本漫画ということ以外、いっさい注文はつけませんが」

「うん、まあ、まだ基本的なアイデアしかできとらんけど」

「伺いましょう」

 近藤健二は腰が低い。

「冒険ものをやってみようかと思っとる。少年が宝島に向かうお話なんやけどな。スティーブンソンのやつとは違うで。もっと新しい、新時代の宝島ものや」

「新宝島、というわけですか」

 近藤が何気なく言った言葉だったが、七馬は思わず膝を叩いた。

「そう、それや。それ、タイトルとしていただきやな! 『新宝島』――タイトルはこれで行こう!」


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