第3話 両雄対面

 二人の漫画青年が、蒸し暑い六畳間の中、向かい合って座っている。

 手塚治虫、と名乗った彼は緊張しているのか、最初は正座をしていたが、大坂ときをから「まあ、気楽にしてください」と言われて、足を崩した。

 緊張が解けた様子の手塚を見て、大坂ときをはニッコリ笑い、

「漫画を見てほしいんやて?」

 と聞いた。

 手塚は愛嬌のある笑顔でコクリとうなずき、

「『まんがマン』を見て、原稿が募集されているとあったので、いてもたってもいられず、こうしてやって来たのです」

「それはええな。やる気がある、ゆうことや」

 若い者はそうでないといかん、と、自分もまだ二十代のくせに、いっぱしの先輩面をして、大坂ときをは言った。

「では、君の描いた漫画を見せてもらおうやないか」

「はい。……ええと」

 手塚はカバンの中をあれこれ弄り始めたが、やがて取り出したのは何枚かの新聞だった。

「なんやそれ、新聞か」

「はい。少国民新聞(現在の毎日小学生新聞)です」

 この新聞に僕の漫画が載っているんです、と手塚は言った。

「なんや、それならもう、君はプロやないか」

「いや……ほとんどマグレで掲載されたような漫画ですし、四コマですし、プロと言うほどのことでは」

 そう言いながらも、まんざらではなさそうな表情で、手塚は新聞を差し出してきた。大坂ときをはそれに目を通す。

 少国民新聞――すなわち子ども向けの新聞なのだが、その新聞には確かに四コマ漫画が掲載されていた。

 『マァチャンの日記帳』

 手塚治虫のデビュー作である。

 のちに「運が良かった」と手塚自身が語った通り、そのデビューは確かに幸運だった。

 手塚の実家の近くに、毎日新聞に勤める女性がいた。彼女は手塚と仲が良く、それで手塚は、自分が描いた漫画を彼女に見せたのだが、

「治君の漫画は面白いわ。私、編集長にこの漫画を見せてみる」

 と言って、本当に毎日新聞の編集長に手塚の漫画を見せてしまった。

 それからはトントン拍子だった。毎日新聞の編集長は「この絵柄なら子ども向けやろう」と言うことで少国民新聞の編集部に連絡した。こうしてあっさりと手塚のデビューが決定した。一九四五(昭和二十)年の秋のことである。手塚治虫は当時、十七歳の若さだった。

 若すぎるデビューということで、二歳サバを読んで、手塚は十九歳と言うことになったが、とにかくこれが漫画家・手塚治虫の登場であった。

「一ヶ月の約束で始まった連載だったんですが、好評だったと言うことで、三ヶ月に伸びました。……今年の三月まで連載していたんです、『マァチャンの日記帳』」

 自信ありげに、しかしまったく嫌味っぽさを感じさせず、手塚は自作について語る。大坂ときをはその言葉にうなずきながら、『マァチャンの日記帳』に見入っていた。

 ――うまい。

 大坂ときをは感心した。なんだろう、この絵のうまさは。

 未熟な面も多いはずなのに、なぜだか分からないが、手塚治虫の絵は見る者を夢中にさせるのだ。

「どうでしょう、大坂さん。僕の漫画は、関西マンガマンクラブに通用しますか」

「……通用するも何も」

 抜群だ、と言おうとして、大坂ときをはさすがに口をつぐんだ。

 手塚はうまい。確かにうまい。

 けれども、うまいだけなら他にもいるのだ。大坂ときをが思わず惹きつけられた手塚漫画の魅力は、もっと言葉にはできない何かなのだ。

 言葉にはできない何か――そんな得体の知れない感情だけを理由に絶賛するわけにもいかない。

「うまいよ。十分に、通用する」

 胸の内の興奮を抑えつつ、あくまでもポーカーフェイスを装って、大坂ときをは冷静に手塚漫画を評した。

「それは良かった、今後もどうぞよろしくご指導ください」

 そう言って笑った手塚を見ながら、大坂ときをは思った。これは酒井先生と彼を引き合わせねばなるまい。


 手塚と大坂ときをが出会ったその日のことは、手塚治虫の日記に克明に記されている。

「大坂ときを氏に面会」

「まだうら若い青年であった」

「髪がもしゃもしゃで腕が白かった」

 大坂ときをは、復員した当初こそ日焼けして色黒であったが、それから半年以上が経過したこの頃になると、すっかりもとの色白に戻ってしまったらしい。

 日記はなおも続く。

「彼は『まんがマン』第三号の原稿の山や、同氏がかいた動物漫画や、一流の画家のかき古しなどを見せてくれた」

 そして、七馬の名前が登場する。

「酒井七馬氏の絵は一番気に入った。やはり思った通り、酒井氏は昔漫画映画に手をつけたそうだ」

 手塚は『マァチャンの日記帳』の他に、いくつか描きだめの原稿を持って来ていた。大坂ときをに批評してもらおうと思って持ってきたものだが、酒井七馬の絵を見て興奮した手塚は、

「できればこの漫画を、酒井七馬先生に見てもらいたいのです」

 と、言いだした。

「大坂さん、お願いします。……実は僕、四コマ漫画ではなくて、もっと長い漫画が描きたいんです。長編漫画と言うやつです。今日、持って来た原稿は、まさにその長編漫画なんです。長い漫画ですが、ぜひ酒井先生に読んでいただき、その感想をお聞きしたいのです! お願いします!」

 土下座するような勢いで手塚は頭を下げる。

「おいおい、よせや。……そこまで頭を下げられて断ったら、僕は悪人やないか。……ええよ。手塚君の漫画を、酒井先生にお見せしよう」

 元より会わせてみるつもりやったしな、と、大坂ときをは心中思ったが、それを言葉には出さない。

「せやけど、酒井先生もお忙しいから、今日明日と言うわけにはいかへんよ」

「はい、それはもう!」

 七馬に漫画を読んでもらえると言うだけで嬉しいのか、手塚は目尻を下げて、鼻息を荒くしている。

「得な男やな、君は。そう喜んでもらえると、こちらもつい、何かしたりたくなるわ」

「そうですか? 自分では変な顔やな、嫌やなと思っておりますが」

「ああ、顔つきそのものは変かもしれんな」

「ああ! 面と向かって言われると、やはり傷つきます」

 手塚は困ったように笑った。その笑顔には、やはりどこか人を和ませる愛嬌がある。

 ともあれ、手塚の原稿は大坂ときをの手元に残り、そして三日後には七馬の手元に渡った。


 七馬は自分の仕事を終えた後で、手塚の原稿を丹念に読み出した。

 手塚の原稿を読んでいる間、七馬はタバコも吸わず、ただ原稿に見入っていたと言う。

 やがて、その行為が終わった。

 七馬はふうっと息を吐くと、手ぬぐいで汗を拭き、やがてタバコを吸い始めた。

 大坂ときをは、黙ってその様子を見ている。

 それは七馬の様子があまりにも真剣だったからだ。酒井七馬が他人の漫画を読むことは、もちろんこれまでにもあった。しかしここまで真剣な顔で漫画を読み込む七馬の姿を、大坂ときをは見たことがなかった。

「酒井先生」

「……うん」

「どうですか。前途有望な新人やと思いますが」

「うん」

 生返事を返しながら、しかし七馬の脳みそはしっかりと回転している。

 彼は驚いていた。

 言うまでもなく、手塚のセンスと技術に、である。

(これはもしかしたら、希有な才能かもしれん)

 七馬は米軍の兵士達の似顔絵を描いているとき、彼らからアメリカの漫画を見せてもらったことがある。

 明るく、新しく、垢抜けたタッチと世界観。いわゆるアメリカン・コミックの魅力。――こういう漫画が世界にはあるんやなあと感心していた七馬だったが、そのときと同じ感情がいままさに、この中年漫画家の心を支配しているのだ。

 そんなアメリカン・センスが、手塚の原稿からは感じられる。

 はっきり言えば、原稿が光っているのだ。

 読んでいるだけで、ぐいぐい引き込まれる何かがある。

「江上君」

「はい」

「手塚君はアメリカ帰りか何かかな?」

「は――いや、そういうことは聞いとりません。生まれは大阪で、育ちは宝塚のほうやと言うことですが……。ああ、そう言えば彼は大阪帝大の医学部に通う学生やということです」

 この情報は正確には異なる。手塚が通っているのは医学専門部であって医学部とは違う学部であった。しかし大坂ときをはそこまで知らなかったし、医者を目指す学部であるから根本から間違っているわけでもない。とにかく、大坂ときをと七馬は手塚を医学生だと思い込んだ。

「ほう、それはインテリやな」

 七馬は手塚という男が理解できなくなった。アメリカ漫画のような垢抜けたセンスを持った、特異的な絵を描く男で、しかも医学部の学生とは。

 ――医学生がなんで漫画を描くんや?

 七馬はなんとなくおかしかった。医学生なら医者を目指していればいいものを、漫画も描くとはなんと物好きな。

 田舎などでは、医者は天皇の次に偉い、とまで言われた時代である。医学生でありながら漫画家を志望するとは、正気の沙汰とは思えない行動だった。

「会うてみたいな、手塚治虫君に」

「おお、会ってもらえますか」

 大坂ときをの声が大きくなった。彼は七馬と手塚を引き合わせたいのである。そうすれば、もっと大阪の漫画界が盛り上がるような気がした。それに『まんがマン』の誌面も賑やかになる。

「会おう」

 七馬はそう言ってから、「ちょっと待っとれ」と言って、便箋に何やら書き始めた。

 大坂ときをが覗き見ると、それは手塚の漫画に対する批評であり、また手紙であった。

 やがて七馬は、書き終えた便箋を大坂ときをに渡した。

「これを手塚君に渡しといてくれや。原稿の批評と、わしの予定が空いている日が書いてある。ぜひ、わしは手塚君に会いたい。会うてみたい」

 七馬の原稿批評は、大坂ときをによって郵送され、七月三日、手塚のもとに到着した。

「大坂ときを氏より返信頂戴。同封に酒井七馬氏より丁寧な原稿批評が入っていた」

 七月三日の手塚の日記である。手塚はこの手紙で、七馬の日程を把握すると、すぐに大坂ときをに連絡を取り、アポイントメントを取ったのであった。

 そして、『その日』は決まった。七月八日、来週の月曜日である。


 雨が降っていた。

 トタン張りの屋根に容赦無く降りつける土砂降りである。

 ガコンガコンと、屋根に穴が開くのではないかと思われるほど、その勢いは激しい。

 そんな中、七馬と手塚は出会った。

 七馬の居候先である。

 大坂ときをが言った。

「彼が手塚君です」

 紹介されて、手塚はぺこりと頭を下げた。

「手塚です」

(鼻が大きい)

 七馬はまず、そう思った。人懐っこそうな目付きに、細身の体つきをしている手塚だが、そのあたりは印象に残らない。ただ、やけに大きく、ヒクヒク動いている鼻だけが目に焼きつく。

(この鼻をデフォルメしたキャラを出せば、面白いかもしれん)

「酒井先生、どうされました」

「あ、いや」

 漫画家のクセであった。どんなときでも漫画のネタに使えるかどうか、考えてしまうのである。

「手塚君、わしが酒井や」

 気を取り直して、七馬は笑った。

「君の漫画は読ませてもろうた」

「はい」

「細かいところは先日の手紙に書いたと思うが、とにかく君は良いセンスをしとる」

「ありがとうございます」

「わしは君の漫画からアメリカのにおいを感じ取ったんやが、どうやろう。君はもしかしてアメリカに行ったことがあるんとちゃうか」

「まさか!」

 手塚は手を振った。

「生まれも育ちも日本です。大阪生まれの宝塚育ちです。――ああ、でもアメリカのものは好きですわ。例えばディズニーとか」

「ほう、ディズニーか」

「言われてみれば、手塚君の絵はディズニーらしい気がしますね」

 七馬と大坂ときをは同時にうなずいた。

 アニメの仕事をやっていた七馬はもちろん、ディズニーの絵柄を知っている。大坂ときをも、七馬から絵を見せられて知っていた。しかしこの時期の日本でディズニーの絵を知っているのは、よほどのアニメ好きしかいなかった。

 そもそも七馬も、実際に動いているディズニー・アニメを観たことが無い。知っているのは静止画のみだ。

 なぜならば、ディズニー・アニメは日本ではまだ放映されていないからだ。

「ディズニーの『白雪姫』が日本で観られんのは残念や。戦争さえ無ければなあ」

「いや、まったくです」

 ディズニーのアニメ映画『白雪姫』は、アメリカにおいて一九三七(昭和十二)年に公開されていた。その後、日本でも上映される計画が立ち上がったが、やがて日米の関係が悪化したために延期され、それから現在に至るまで日本では上映されていない。

「日本ではまだまだアニメのことが知られとらん。それは本当に素晴らしいアニメができとらんからや」

「僕もそう思います。ディズニーのアニメが放映されれば、きっとみんな、アニメの素晴らしさが分かるのに!」

「手塚君もそう思うか、その通りや。……いや、素晴らしいアニメが生み出される素養は、日本にも育っとった。このわしもアニメに関わっとったからの、多少は分かるつもりや。しかし上の連中が、その素養をつぶしてしまいおった」

「ああ……」

 手塚は悲しげにうなずき、そして語り始めた。――戦時中、彼はまだ学生だったが、教師や先輩から「漫画なぞを描きおって」と罵倒され、暴力を振るわれたことがあると言う。

「戦争や暴力は、文化の芽を摘みますね」

「その通りや!」

 七馬は鼻息を荒くして、得たりとばかりに手塚の肩を叩いた。

「手塚君」

「は……」

「君は見込みがある」

「ありがとうございます」

「わしは君を同志と思う」

「同志……!」

 これには手塚が驚いた。また、二人の語らいを隣で聞いていた大坂ときをも目を丸くした。大阪の漫画界では既に大御所である酒井七馬である。そんな彼から、同志と認められるとは思わなかったのだ。年齢も親子ほど違うと言うのに。

 そんな二人の気持ちを七馬は察したか、

「年齢なんか関係あらへん」

 と笑った。

「手塚君。わしはこの江上君……大坂ときをと、新しい雑誌を作ろうと思っとる。わしらだけの雑誌や。そしてその雑誌の次は、アニメや」

「アニメ……」

「そうや、わしらだけのアニメや! ディズニーにも劣らん……いや勝るアニメや。この日本に革命を起こす、強烈で、面白くて、笑わせて、夢をもたせるアニメや。わしは江上君と、今日はおらんが松葉君と、そして君と……四人でそれをやってみたい」

「ディズニーにも勝る、ですか!」

「酒井先生、大きく出ましたな!」

 傍から見れば失笑ものかもしれない。まだ観たこともないディズニーのアニメを勝手にライバル視した中年が、それも金も持たない居候の漫画家が、ディズニーにも勝る、などと宣言するのは……。

 しかし、本人達は大真面目であった。真面目な人間でなければ、夢など見ることはできない。

 七馬は目をらんらんと輝かせている。

「そうや、ディズニーにも勝るアニメや。わしはそれを作りたい。君と一緒に作りたい。……手塚君、君とは会ったばかりやけど、なんと言うか、会うたばかりと言う気がせん。君となら大きな仕事ができる。そんな気がするんや」

「僕もです、酒井さん!」

 手塚は目を細めて言った。

 事実、彼も七馬に心を奪われていたのだ。大御所だと言うのに気さくで、偉ぶったところがない。それでいて、ディズニーにも詳しい。

 ディズニーにも詳しい、と言うところが特に嬉しかった。手塚の周りには、アニメに詳しい人間などおらず、このようにディズニーについて語り合える仲間が見つかっただけでも興奮ものなのである。そういう時代でもあった。

 話はさらに盛り上がった。

 七馬も、手塚も、大坂ときをも、ひたすら興奮し、漫画やアニメについて語り合うのである。

 酒は一滴も入っていない。夢を追う同志が語り合うのに酒は要らない。邪魔である。

「旧知のごとく形を崩して夕方まで話し込んだ。三人とても気が合って、話題はとんとん拍子に移った。これほどまでに心安い人はない」

 当日の手塚の日記である。昭和二十一年の手塚治虫は細かいところまでよく日記を書き残しているが、これほど踊るような文章で記された日記は他に無く、よほど七馬との語り合いが楽しかったものと思われる。

 三人は徹底的に話し込んだ。

 まんがマンのこと、これからの漫画のこと、そしていずれ作ろうと誓い合ったアニメのこと――

 やがて、手塚は叫んだ。

「手塚治虫は、日本のディズニーになるぞ!」

 七馬はそんな彼を見て、手を叩いてうなずいたものだ。

(また一人、同志ができた)

 それが七馬にはたまらなく嬉しい。

(わしはやるで)

 気が付けば、もう雨の音は聞こえない。外は静まり返っている。

 土砂降りの雨が、いつの間にか止んでいた。


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