第5話

 ううむ。気が付いたら、謎の文章がパソコンに書きこまれていたのだが、いったい誰がこれを書いたのだろうか。平行世界の自分だろうか。これが平行世界の自分の書いたものだというのなら、ぼくは平行世界から移動してきた人間だということになる。不思議なことに平行世界の記憶を受け継いではいないようだ。

 ぼくは小説を書いている。一心不乱に小説を書いている。もう小説を書くことしか生きる意味がないし、ぼくの存在理由は小説を書くことでしかない。小説なんて誰も読まないよ、小説書くより漫画を描けよということばは十五年前のぼくにいってほしい。いや、二十年前のぼくにか。もう三十代のおっさんの老化した脳では、新しく絵を描く技能を身に付けることができない。そんなのは無理だ。人間の脳は二十五歳で神経細胞の成長が鈍化するんだ。鈍化した神経細胞で、絵を描く技術なんて身に付かない。そして、これは関係あるのかどうかわからないが、精神病のため気力がなく、意欲減退していて、とにかく新しく一大事業に乗り出す気力はもうないのである。ぼくは今にも干からびて死にそうだ。

 ああ、不動産屋のこともどうでもいい。ぼくは激しく意欲が減退してそれどころではないのだ。

 大切なのは、あの哲学書のことばだ。ショーペンハウエルの「自殺について他四篇」の「我々の真実の本質は死によって破壊されられないものであるという教説について」に書かれている「個性を得たまま輪廻転生したいというが、決して満足しない自我においては個性など本質ではないのだ。」ということばだ。

 もし、ぼくが平行世界を行き来しているのなら、それはぼくは自分が満足するまであらゆることを試し、結果、あらゆる可能性の個性を得ることになる。平行世界へ移動できるなら、何度でも同じことを無限にくり返せる。ということは、ぼくは、ぼくがぼく自身でなくなってしまうかのような時まで、ずっと個性を変質させつづけることができるのであり、ぼくという個性は、自己同一性を保持することすら重要ではない。無限の平行世界を行き来するぼくは、強姦し、殺人することによって、まったく異質な性格に変容してしまうのであり、それはもうぼくという個性だということはできるのか疑問を感じざるを得ない。

 ぼくが平行世界への移行をぼくの個性が満足するまで実行していいというのなら、ぼくはそれを実行するだろう。その結果、ぼくの個性は第四章に書いてあるとおりにあらゆる自分を内包し、あらゆる可能性を実現できるのだ。

 このぼくの行動がカオス理論によって説明されるなら、どこからからどこまでの範囲ならぼくという個性がどう変わってしまうかは予測できないということである。

 ぼくの平行世界への移行の無限の連鎖は、第三章によって止められているのだが、しかし、このぼくのいる次元は無限の連鎖を止めようとする可能性世界の存在であっても平行世界への連鎖が止まるのは第三章であるのだが、第三章をいちばん最後のぼくとしながらも、その後の時間にもぼくが存在してしまうことを第三章のぼくは想定できていなかった。ぼくの平行世界への移行はまだ行われているのであり、これは止められるものではない。

 ぼくは、これからぼくの個性が満足するまで平行世界への移行をくり返し、そして、やがて世界を征服するのだ。

 近所の女の声がする。綺麗な声だ。ぼくはその女性の姿を見に行った。絶世の美女だった。

 ぼくは、「いいですか」などとは聞かなかった。ぼくは、ぼくが満足するまで転生することについて彼女に質問した。

「え。よく、わからないです」

 と彼女は答えた。ぼくは彼女の腕をつかんでいた。つかんで逃がさない。

「悩みを聞いてほしいんです」

 とぼくは彼女に話しかけた。

「どういった悩みですか」

 彼女は意外に堂々と答えた。見知らぬ男に腕を突然つかまれ、話しかけられたのに、落ち着いている。その落ち着きが危険であることは今までの平行世界のぼくが書いてきたとおりだが、彼女は落ち着いて話を聞いてくれた。

 なんだ、話を聞いてくれるんじゃん。優しい女なのかな。

「それは、ぼくの機会損失についてなんですけど」

「はあ、機会損失ですか」

 彼女は怪訝な表情をした。ぼくは堂々と自信をもってぼくの考えを話す。

「そうです。機会損失です。世界を征服する軍を派遣するはずだったぼくの人生にとって、大きな機会損失が存在しているんです。その機会損失をとり戻さなければならない。これは経済学なんですが」

「はい」

 彼女はぼくの酔狂な話に真剣に耳を傾ける。

「ぼくは世界を征服するまで満足することはありません。この同じ時間を何度もくり返すぼくにとって、世界を征服できないことは満足できる個性に至っていないことを意味します」

 ぼくはいった。彼女はちょっと考えて答えた。この頭をかしげて考えるところがかわいい。仕草がかわいい。

「でも、世界を征服しても満足するとは限らないじゃないですか。人生なんて、別に世界を征服しなくてもかまわないものだと思いますけど」

 彼女はいった。その聡明さにぼくは打ちのめされ、こんな素晴らしい淑女をぼくはこれから犯すのかと思うと、心に本当に苦しいものがあった。

「それは、ぼくは、もうぼくが本当にぼくである保障は何もない。ぼくがどんな人間だったか誰にもわからない。ぼくという人格は、自分の個性が壊れるまで平行世界へ移動し、何度でもこの時間をくり返すのです。そこには、もう、ぼくがぼくである保障はないのです。ぼくは誰ですか。あなたは誰ですか」

 女は静かに聞いてくれていた。

 ぼくは誰であり、彼女は誰なのだろうか。無限に続く平行世界への移行は、ぼくという人格をもうすでに壊し始めている。

「あの、あなたはあなたではなく、わたしはわたしではないという話でしょうか」

「そうです。まさしくその通りです」

 ぼくは汗をだらだらと書いてきた。

「ぼくは、あなたを愛しています」

 彼女の顔は見なかった。見るのが怖かった。

「あなたはぼくを愛してくれますか」

 ぼくはゆっくり慎重に彼女の表情を見て、赤く火照っているなんてことは当然ないものの、予想していたよりはずっと和やかな顔をしていて、ぼくはほっと安心した。見知らぬ男に腕をつかまれて、無理矢理話をさせられているのに。

「わたしのどんなところが好きですか」

 彼女はにやけた笑いをしながらぼくを問い詰めた。

 ああ、この平行世界は、ぼくが彼女に愛の告白をする平行世界だったのだ。今までのぼくが決してしなかったことであり、これからのぼくもおおよそ行わないであろうことなのだった。

「運命です。ぼくとあなたの」

 くっさいくっさいことばを吐いていた。まさか顔が好みだというわけにもいかず、体目当てだというわけにもいかず、ぼくはこんなことばを選んだ。

「個性が壊れる平行世界ってなんですか」

 女が聞く。

 いや、それは難しすぎてぼくには正確にはわからないのだよ。答えられない。

「ぼくがぼくでなくなっても、あなたのことを愛しているということです」

「まあ、あなたはあなたでなくなってしまうのですか」

 彼女は大袈裟に驚いて答えた。

「ええ、もう別人のように」

 ぼくは答える。

「この宇宙とそれは関係ありますか」

 彼女が聞く。

「あります」

 ぼくが答える。

「あなたがこの宇宙から見捨てられてしまうということですか」

 意外に呑みこみが早いな。そうだ。そういうことだ。ぼくがこの宇宙から見捨てられてしまい、破滅するしかなくなるから、別の宇宙へ逃げるという話なのだ。

「だから、お願いです。ぼくを愛しているといってください」

 それはあからさまな恋の告白だったけど、近所の女にとってはさすがに冷静に考えて、今、会ったばかりの見ず知らずの男の告白を承諾するわけがない。この先はいわなくてもわかっているだろう。

「ごめんなさい。わたしはあなたを愛していません」

 この平行世界はぼくが彼女にふられる世界でもあったのだ。

 そして、ぼくは彼女の腕をつかんだまま、

「いいですか?」

 と聞き、

「はい?」

 という肯定とも否定とも受け取りがたい返事をもらった後、無理矢理押し倒して犯したのだった。

「また会いましょう」

 などとぼくは図々しいことをいい、気持ちよかった性感に満足しながら家に帰って行くのだった。

 そして、やってきた不動産者のセールスマンをナイフで殺した。そして、一心不乱に小説を書く。小説を書いて書いて書きまくる。強姦して殺人してしまった。もう助からない。小説を書く行為はやがて空間の臨界点を突破し、ぼくは平行世界へと逃げていったのだった。

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