第4話
次の日になると、ぼくたちは駆け足で根の国を脱出した。死の国なんかにはいられない。できるだけ早く出たい。どんな事故が起きるかわからない。とにかく、早く、生者の世界に帰りたい。
そして、ぼくらは根の国から地上へ帰還した。
「着いたあ」
ぼくは、幹の中を地上まで行くと、大きく息を吐いて、休憩した。全力で走ってきたので、かなり疲れていた。
「はあはあ。生き返ったね、影斗ら」
「うん。蘇生の秘宝ってのが効いたみたいだね。よかったあ。あのまま、死んじゃっていたら、やりきれないところだったよ」
「虫愛ずるに会いに行こう。一度、顔を見ないと、気を許せない」
「ああ、そうだね。風の声で、わかるのかい?」
「今、探してる」
ぼくは、ちょっと、腰をついて落ち着くことにした。どちらにせよ、もうすぐ日の本の島々は崩れ落ちるのだ。それがわかっただけでも、根の国へ行ったかいはあった。
やまたのなまずが島を沈めてしまうか。これは、とんでもない大事件だ。
虫たちが騒いでいた。地上へ来てから、虫たちが飛び交いつづけている。虫愛ずるが、日の本存亡の時に備えて、動き始めたということだろうか。
「風音、日の本にとって不吉を表すことばを知っているかい?」
ぼくは休憩中に聞いてみた。風音は、首を傾げる。
「『し』とか?」
ぼくは風音の返答に満足する。
「うん。日の本では、長いこと、尊い人の前では死を嫌うため、『し』と発音しない習慣を守る人たちがいるね。縁起深いのだろうけど、これがどの程度、正式な習慣なのかは知らない。『しきたり』というべきところを、『し』を避ける人たちは、『し』を『よ』に置き換えて、『よきたり』といったりする。しを数字の四、よんで置き換えるという風習なんだけど」
風音は興味深く聞いていた。風音がしを避けないのはもうわかっていた。そういうみやびな習慣のもとで育てられたわけではないのだ。
「でも、正解は別。日の本にとって不吉なもの。それは『雨』だよ」
「どうして?」
ぼくはひと呼吸おいて話かける。
「日の本の君主、天皇家は太陽神の子孫を称しているだろう。だから、太陽にとって敵対するものとして、『雨』が日の本にとって不吉を表す暗号になっているのさ。和歌の雨は全部、日本に不吉なものとして読めばいいのさ。それで本当の意味がわかる。天皇家にとって敵だと思っていたものが実りを成した場合に使われることばが『水穂みずほの国』さ。『雨が降り、水穂が実り、味忍ぶ』なんて俳句があったら、日の本に危機があると思ったけど、逆にそれが幸いとなって、幸せに暮らしている、という意味なんだよ」
ぼくはちょっと面倒くさい暗号学について熱を入れて語ってしまった。これは、興味のない人には引いてしまう内容かもしれないけど、風音は、一応、まともに聞いてくれたみたいだ。
「初めて聞いた」
といっていた。風音は、
「じゃあ、これから起こるのは雨だね」
といった。
「雨だよ。雨。土砂降りさ」
とぼくは笑った。
さて、休憩がすんだところで。
「虫愛ずるの位置、わかったかい?」
「うん。樹の上の方。真っ直ぐ登って行こう」
「わかった」
ぼくは、風音の荷物をもって、歩き出した。
また、長い旅になった。幹の大都会を一直線に歩いて、樹の上の方へ向かっている。
「ぼくらは樹上性の生き物なんだよ。樹上性の生き物が根の世界では生きてはいけないね。あそこはまったくの別世界だ」
とぼくがいうと、
「うん。でも、生と死の関係がわかったから、何か魔術が作れるかもしれない。根の国の仕組みには興味あるよ。たぶん、虫愛ずるはその仕組みをかなり把握しているはず。たぶん、この国の生と死を操って生きているのよ」
「それじゃあ、虫愛ずるは大魔王かい?」
ぼくは率直に聞いてみた。
「わからない。会ってみないと。でも、恐ろしい魔術師ね」
ぼくはちょっとおどけていってみた。
「それじゃあ、風音といい勝負だね」
風音はわりと真剣にそれを受け止めたようで、
「ううん。一度、殺されているから、負けているかもしれないかな」
と答えた。
なるほど。そういうものか。
高天が原の神々の会話すら聞いている風音に対抗できる魔術師となると、虫愛ずるは相当な使い手のようだな。
「虫は、高天が原まで飛んで行けるのだろうか?」
ぼくが聞くと、
「少しは行けると風はうわさしているね」
と風音は答えた。それは大変だ。
樹を上へ上へと登って行った。どこまでも、枝を伝い、こんがらがった迷路のような樹の枝を上へ上へと登って行った。
かなり、樹の上まで来た。
風音が驚いて、声をあげた。
「見て。花が咲いてるよ」
この樹の世界の大木に花が咲いていた。大きな、大きな花だった。とても美しく、花弁は何色にも入れ替わり彩られ、咲き誇っていた。
「樹の花を見たのは初めてだな」
「あたしも初めて」
風音の澄んだ声が響いた。
「宿り木の花しか見たことなかったよ。やっぱり、樹の花は大きいんだねえ」
「うん。とっても綺麗」
風音はうっとりと見とれているようだった。
そんな風音をぼくはのんびりと眺めていた。
そんな安穏なひと時が過ぎた時。
虫が飛んできた。
十センチはあるトンボがぼくらの前をゆっくり飛んでいる。
「近くに虫愛ずるがいるよ」
「戦いになったりしないよな。ぼくたちは、日の本存亡の危機を救おうとしている仲間のはずだ」
「そうだといいけど」
そして、花の影から、美しい黒髪の美女が現れた。
ひどく青白い顔をしている。健康的な食事をとっていないんじゃないだろうか。奇妙な縦長の着物を着ている。
「あなたが虫愛ずるね」
「そうです、風音さま」
「ぼくは影斗ら」
「はい。存じています、影斗らさま」
ぼくは虫愛ずるの声に少し冷ややかなものを感じた。
「一人なの? 仲間はいないの?」
「わたしはずっと一人ぼっちでした。でも、虫たちがいますから」
「日の本を救うには、イザナギとイザナミがこねた泥を探すしかない。それがわかった今、あたしたちは用済みかしら」
ぼくはどきりとした。はは、まさか、戦いになるのか。これから。この二人の。
「風音さまと影斗らさまには、本当に尽力ありがとうございました。ですが、あなた方は、神具を任せるには心もとない。天照さまは、わたしに任せるとおっしゃいました。わたしは誰も信用しません」
「天照は、あたしよりあなたを信じたようね。でも、あたしは負けないよ。泥は、あたしたちが使う」
突風が吹いた。風音が戦闘態勢に入ったのだ。
虫の大群が花の後ろから飛んできた。
激突する。
うん?
なんだ?
急に、体の力が、抜けた。
あれ。立っていられない。
ぼくはバタりと倒れた。
「何がどうしたんだ。体が動かない」
「蚊に刺されたのよ」
え? 虫愛ずるにやられたのか。
風音は、大丈夫か?
「あたしは大丈夫。風に守られているから。虫は一匹も近づけない」
強風が吹いた。
風音の技。突風殺。風が切り刻んで殺す技。
虫の大群がそれを防ぐ。虫たちが大量に死んだ。
「あら、こんなに虫が死んだのは初めてだわ。どうやら、風音さまには適わないようです。参りました」
「あら、あきらめが早いじゃない」
「これ以上、虫を死なせるわけにはいきませんから」
おうおうと虫愛ずるは泣いた。
「だったら、泥はあたしたちが持って行っていいんだね」
風音が凄む。
「はい。微力ながら、力添えさせていただきます」
虫愛ずるは大人しく従った。もう逆らう気はないようだ。
おれは、動けない。
ぞ。
「ふごごごご」
「あら、すみません。影斗らさまの治療がまだでした」
また、蚊がおれに針を刺すと、今度はみるみるうちに体が軽くなった。動く。動くぞ。体が動く。
「ようし、なんとか、復活だ。虫愛ずるさん、ひどいよ」
「すみません。命まではとる気はなかったのですが。一時的に動きを止めさせていただこうかと。ですぎた真似でした」
「うん。おれはいいんだけどね。高天が原の声を聞いている二人の対決だったんでしょ」
虫愛ずるはこくんとうなずいた。
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