第2章

第19話 Incidents (インシデント)


 陸上、海上、航空の各自衛隊や海上保安庁等で異変が発生してから1週間が経過し、自衛隊員や海上保安官等に戸惑いは残っているが、今までと違うながらも、それでも普段と同じ日常をそれぞれが取り戻しつつある。

 陸上自衛隊では、東富士演習場で翌週に控えた総合火力演習、通称【総火演】に向けて、安全に対して普段以上に神経を尖らせながら予行練習が行われている。

 特に事故を起こしかけたヘリ隊は、石橋を叩き壊して自前で橋をかけ直す様な慎重さで、訓練を行っていた。

 海上自衛隊では、ある国の首相の公式訪問が横須賀基地で予定され、訪問対象とされたDDH-185の護衛艦“するが”では、残り少ない時間の中で栄誉礼等の立て付けが行われている。

 【立て付け】とは予行練習の事で、海自独特の言葉であるため、統幕や地本等で陸自や空自の隊員達が海自の隊員から立て付けと言われ、用語が分からず困惑するような場面がまま見られる。

 このような各自衛隊の方言のような用語は、3自衛隊それぞれに存在している。

 それから、ある国の首相の訪問が横須賀基地であるのに、母港としている“いずも”ではなく、佐世保を母港とする“するが”に選定された理由であるが、呉が母港のDDH-184“かが”は定期ドック入り、浜田が母港のDDH-186“とさ”は浜田基地に到着したばかりで横須賀に戻る時間的余裕がなく、“いずも”は西に向けて出港したばかりだが防衛省や海幕からは正式な報道発表がされていないため、民間には認知されていない。

 しかし、横須賀の海自や艦艇の愛好家の間からSNSを通じて動きが漏れ伝わり、今回の“いずも”の動きに関して様々な疑問や憶測が飛び交っていた。

 次に海上保安庁(以下、海保)や警察等に関してだが、詳しい情報は流れてきていないものの、異変そのものは、ほぼ全国に広まっているようである。

 海保に関しては全国の所有車両に、警察と消防に関しては、一応全国で発生しているが、細かく見てみると、警察と消防の異変の比率が大きく片寄っていたり、まだ発生していない市町村もあったりとばらつきが大きく、その理由は1週間しか経っていない現在も不明である。

 そして航空自衛隊は、三沢、入間、小松、新田原にゅうたばる等の基地に、陸海自と同様の異変が起きていたのだが、ある基地で起きた異変は、陸海自や他の基地とは少し様子が違って、やや深刻なようであった。


◯北海道千歳市 航空自衛隊千歳基地 特別輸送機格納庫ハンガー UTC0027:JST0927


 白地に太い赤とその下の細い金の一直線が特徴的なデザインが施された、特別輸送機B747-400・2機のうち、尾翼に書かれた機体番号20-1101の機体後部にある右のR5ドアから、横付けされたタラップ車を使って一般客室に1等空佐が入って行き、代わりに数名の航空自衛官がタラップ車の階段を降りていく。

 内部は一般の航空機と似たような作りになっていて、シートの配置は左側から2-4-2列となっている。

 少し奥の中列を見ると、4席分の幅の壁があり、その機体後部側にモニターと、後部を向いて配置された皮張りの椅子が3脚見える。

 通常の民間航空機(以下、民航機)には無いこの設備は、テレビ等で見たことがある人もいると思う。

 この席は首相や大臣等が記者会見を行う際に使用する席で、そろそろお分かりいただけたと思うが、この特別輸送機は【政府専用機】の事で、またの名を『空飛ぶ官邸』とも呼ばれ長年親しまれている機体である。

 この政府専用機を扱っているのは、航空自衛隊航空支援集団の特別航空輸送隊(Special Airlift Group)で、特輸隊とも呼ばれている。

 その特輸隊の隊司令である明野あけの春彦はるひこ1等空佐は、その一般客室とその前方、椅子が2-3-2列の随行員席の先にある会議室に、明野と、彼と同じ第3種夏服を着用した子供がテーブルを挟んで向かいあって座り、お互いに深刻な顔をしていた。

「ごめんなさい、明野隊司令。僕も色々と双葉と喋ろうとしてるんだけど、直接も無線も、全然返答無しで・・・。」

 男の子は明野に深々と頭を下げると、明野は頭を上げるように促す。

「謝る事は無いよ、はじめ君。無理を言ってるのは私の方だから、むしろ私が謝らなければいけないんだ。申し訳ない。」

 元とは、明野の向かいに座る男の子で、当初は02の女の子と共に、『01ゼロワン02ゼロツー』や『シグナス君、シグナスちゃん』等とバラバラで呼ばれていた。

 しかし、それでは不便であるし、何となく子供に対してそれでは呼びにくいと特別空中輸送員達等から声が上がり、01と02に名前を付ける事になったのである。

 多数候補が上がったうち、姓を「白鳥しらとり」、名を、01は「はじめ」、02の女の子の方を「双葉ふたば」と選択して、明野が決定した。

 白鳥しらとりは政府専用機の訓練時のコールサイン【Cygnus:シグナス】の和訳である“白鳥座”から名付けられた。

 皇族の方々や首相等が搭乗された際、コールサインは【Japanese Air Force 001/002】となり、そこから“日本ひのもと”や、基地のある市の名前から“千歳”等の複数が候補として上がったが、普段訓練で使用している事や親しみやすさ等が考慮された形で決定された。

 また、特輸隊所有の支援車両にも似たような子供が現れていて、特輸隊隷下の車両には、『全て姓を『白鳥しらとり」にする事』、『特輸隊の品位に留意する事』、『誰もが親しみやすく、また、緊急時に呼びやすい名前にする事』、『字や呼び方が重複しない事』の範囲内であれば、明野が承認する形で、それぞれの班等で名付けられる事になった。

 後に通称で【シグナス式】と呼ばれる事になるこの命名方法は、空自と海自航空集団に広まる事になる。

 ただ、陸自は各部隊の所有車両が多いため、海自の護衛艦隊や潜水艦隊等は独自の命名方法で行うとして、シグナス式を見送る事になるのである。

「それで、名前の事伝えたら、喋ってはくれなかったけど、気に入ったみたい。嬉しそうにしてた。まだ他の隊員さんは、やっぱり怖いみたい。」

「そうか。もう1回聞くけど、元君は私の事は怖くないんだね?」

「はい、全然怖いって思わないです。」

「元君の方は大丈夫なのか。・・・話は少し変わるが、君が気にしていた飛行停止に関して、01はもうすぐ解除されると思う。司令官からもうすぐ連絡が来ると思うから、安心してくれ。」

 名目上は02が青森空港にダイバートした時の機体の不具合を理由に、実際は保安に関する再点検で、飛行停止が2機に言い渡されていた。

 そして、01に関しては侵入犯の痕跡が無いこと等から、搭乗員の保安教育の徹底を行う事等を条件に、近く飛行停止が解除される事となり、訓練飛行も再開される見通しとなった。

 しかし、公務の予定は目処がたっていない。

 なぜならば・・・

「ありがとうございます!・・・それで、双葉の方は・・・どうなっちゃうんでしょうか?」

「それは・・・正直、分からない。何せ侵入者が何者で侵入経路はどこからなのか、それに目的も分からない。せめて、再発防止策さえ立てられれば良いんだが、調査がまだ進んでいないからな・・・。」

 通常、政府専用機の運用は要人を乗せた主務機または任務機(正)と、随行として副務機(副)の2機で運用されている。

 諸外国ではこれに予備機(予)をあわせて3機体制なのだが、当時の防衛庁(現:防衛省)が大蔵省(現:財務省)に3機目である予備の政府専用機に関する原案を提出したところ、却下されてしまうという事態になり、幾度か原案が出されるも却下され続け、退役が目前に迫った現在まで正副2機体制とならざるを得なかった。

 そのため、2016年に首相が搭乗中の主務機が鳥との衝突バードストライクをして、副務機に乗り換えとなった際、予備機が無いことから安全面等に問題が呈された形となった。

 また、1999年と2013年等に2機が主務機となり、予備機無しで運用された事もある。

 さらに、要人の日程が重なった際は“元首の優先使用”が原則となっているため、2012年に天皇皇后両陛下が政府専用機へ御搭乗なされた際、首相は民航機を利用するといった事もあった。

 そういった所から01に関して、訓練可能だとは思われ、最悪でも民航機との組み合わせによる任務フライトも出来なくもないと思われる。

 ただそれも、空幕、防衛省、内閣等の意向次第では、両機の飛行停止命令継続の可能性も捨てきれない。

 そもそも、明野の上官である航空支援集団司令官(空将)は子供と02侵入犯の問題が解決されない限り、最悪は除籍の前倒しをして、現在任務に向けて訓練中のB777-300ERの就役を早める案を明野へ仄めかしていたが、明野の説得により当面は免れた。

 しかし、早期退役の可能性は残されており、彼にとっては予断を許さない状況にあるのは、変わりがないのである。

 明野にしてみると、航空自衛官を目指すきっかけの1つであり、機長としても任務にあたっていた政府専用機B747-400に対しては、強い愛着がある。

 しかも事故で飛べなくなったわけではなく、飛行停止が解除されればきちんと飛ばせる機体であるので、明野は余計に早期退役をさせるという司令官の話を、簡単には受け入れられなかった。

 しかし、どう足掻いた所で自分の任期中に退役するのは決定しており、後任B777-300ERも既にスケジュールに合わせて訓練を進めている。

 上官や空幕、さらにはその上位者である防衛大臣や最高指揮官である内閣総理大臣からの要請で早期退役が1度発令されれば、どんなに明野が抵抗したところで、彼の立場では阻止する事は出来ない。

 明野は一刻も早く犯人が逮捕されるか、若しくは自分達で侵入経路の解明をするかして、1日も早く飛行停止を解除し、退役までに1回でも多く任務飛行させてやりたいと思っている。

 しかし、飛行停止の鍵となる自己調査は進まず、もう1つの鍵である青森県警からは現場検証以降なんの音沙汰もなく、こちらは、機内から膨大に採取された指紋やわずかな証拠と格闘中である、と思われていた。


◯青森県警察本部 刑事部鑑識課指紋係 同時刻


「係長すみません。政府専用機の件で報告があるのですが、ちょっとよろしいでしょうか?」

 指紋係の一人が指紋係長に曇った顔で、近づいてくる。

「どうした?ヒットしなかったか?」

「見ていただいた方が早いので、こちらに。」

 そう言うと、係長を指紋のデータベースが表示されているパソコンの前に連れてくる。

 画面には一致していると表示されている。

「なんだ、一致してるって表示されてるじゃないか。どうして報告しなかった?」

「係長、現物を見て下さい。こっちはホシが触った肘掛けから採取された、右人差し指と思われる指紋。もう一つは任意提出された右人差し指の指紋です。念のためにと見た所、一致してしまいました」

「どれど・・・、おい!何でこれで一致するんだ!?おかしいだろ!データベースが壊れたのか?それともスキャナーのガラスでも汚れていたのか!?まさか、倍率変えたのか!?」

 突然の大声に、部屋にいた他の鑑識員も顔を一斉に上げて係長に注目する。

「倍率はそのままです。一致判定の理由については分かりませんが、係長、とにかく確認をお願いします。」

「見ただけで違うって分かりそうなもんだろう!?」

そう言って係長はルーペを持って、二つの指紋を見比べ始める。

「確かに・・・特徴点は・・・複数一致している。それに皺の巻き方も、ほぼ一致している。確認するが、左がホシ、右が任意提出で、間違いは無いんだよな?」

 特徴点とは指紋の皺の始点、終点、分岐点等をいい、これを見比べて十二点以上が一致すると、確率を理由に同一人物の指紋と言うことが出来るのである。

 今回の侵入犯の指紋と、任意提出されたある人物の指紋は特徴点では一致したらしい。

 ただし、指紋鑑別にはある大前提が必要で、例えば極端な話、百ヶ所の特徴点が一致したとしてもこの大前提が崩れていると、同一とは言えないのである。

「間違いはありません。」

「そうか・・・だが、ホシの指紋の方が大きい。」

 政府専用機内で検出された指紋と、任意提出された指紋の大きさが決定的に違う。

 つまり、大前提とされる『皺の巻き方、大きさ等が同一』が崩れており、例え特徴点が一致していたとしても、証拠としては採用されない可能性が非常に高くなってしまったのである。

「確かにちょっと見ただけで、十三ヶ所も特徴点が一致している。もう、ほぼ同一人物と言ってもおかしくないレベルだが・・・、これは別人だ。お前も知らないわけ無いだろ?何やってるんだよ、ったく。」

 係長は背もたれにもたれ掛かりながら、腕組みをして考え込む。

「申し訳ありません、係長。」

「頭ぁ冷やせ。じゃねぇと、見逃しが出る。俺達が見逃すって意味、その血の登った頭で、しっかり考えろ。パソコンばっかりに頼るからこうなる。今回は明らかなエラーだったから、まだ良かったが。」

「大変、申し訳ありませんでした。」

 係長は腕組みをほどくと、椅子から立ち上がり、鑑識員の左肩を軽く叩いてから自分の席に戻る。

(焦ったって良いことねえのに・・・。基本中の基本だろうが・・・。まあったく、最近のわけえ連中はすぐ解決しようとしやがる。被害者の事を考えりゃあ、わりい事じゃねえが、気持ちが前のめりじゃあな。・・・これに懲りて、少し慎重になってくれりゃあ良いんだが・・・。頼むぞ?跡継ぎ達。)

 ふと何かを思い出した指紋係長は、少し離れた隣の写真係長に声をかける。

「そういえば、専用機の画像解析って進んでるのか?」

「今、羽田の防犯カメラの映像とか探ってるが、首相、SP、随行員、記者達、空自と空港関係者しか今のところ確認できていない。まだ解析続行中だが、ホシらしい映像はまだ出てきてない。骨が折れるよ。」

「そう簡単に見つからねえか。砂漠に落ちた針より、ホシはでけぇはずなんだが。」

「まったくだ。」

 係長は湯飲みを手にとり、中に浮かぶ茶柱を見てから少し啜る。

(茶柱か・・・でかいヤマの解決が近くなると、不思議と見るんだよな・・・。連続殺傷と信金強盗はそれぞれ全国に指名手配された。どっちかか、両方のホシが捕まるか、あるいは・・・)

 係長は、政府専用機侵入犯の指紋の鑑定を再開した鑑識員の横顔を見ながら、またお茶を啜るのだった。


◯北海道千歳市美々びび 新千歳空港国内線ターミナルビル四階 午後九時二十九分


 ほとんどの店舗が午後九時で閉店しているなか、まだ営業しているカフェに、二十代中頃位に見える二人の女性が向かい合ってコーヒーを飲んでいた。

「今回は時間があって良かったです。味噌ラーメンや海鮮丼、それにソフトクリームも味わって食べる時間的余裕がありました。」

 無表情かつ抑揚もない声で、タイトスカート姿のロングヘアーの女性が、スラックスでショートカット姿の相手にそう言ってから、アイスカフェラテをストローで飲む。

 対面に座るショートカットの女性は新聞を読みながら無言でうなずいて、ホットのブラックコーヒーを啜る。

「また週刊夕雲ですか。御殿場や浜田、呉でも読んでいらっしゃいましたね。・・・そう言えば、入間や百里でも、でしたか?」

 週刊夕雲は木曜日発行で、防衛省・自衛隊の専門紙的存在であるが、申し込みさえすれば民間人でも買える新聞である。

「良く覚えているな。だが、今読んでいるのは自衛隊新聞だ。これは生活情報も載っているから、かなり重宝している。今回は横須賀の特集も載っている。これから行くし、何より懐かしいと思ってな。家から持ってきてしまったんだ。」

 この女性が読んでいる週刊自衛隊新聞は毎週火曜に発行されている。

 内容は週刊夕雲と似て、3自衛隊の人事異動や防衛関連のコラムも載っているが、週刊夕雲と違って基地周辺の店舗特集や地域イベント、割引情報等が比較的多く載っている新聞である。

 その辺りの記事を読むと、普通の新聞に誤解されがちなのだが、週刊夕雲と同様に、御鈴みすゞ自動車の“3と1/2tトラック”や二菱ふたびし重工(FHI)の“F-2戦闘機”等が広告欄を飾っている、歴とした防衛業界紙なのである。

 この2紙の他にも以下の各自衛隊新聞が存在するのだが、説明は簡略させていただく。


・陸上自衛隊新聞(陸自新聞社:月3回と臨時版)

・週刊海自新聞(海上自衛隊新聞社:毎週金曜日)

・ADN (Air Defense News){空自新聞社:隔週水曜日(次年度から週刊化の予定)}


「横須賀ですか。私も懐かしいです。それでどんな事が書いてありますか?」

 一瞬だけ喜ぶような表情を見せるが、すぐに無表情に戻るロングヘアーの女性。

 新聞を読んでいたショートカットの女性は、それに声の変化で気づいたが、あえて指摘せずに話を続ける。

「ん?ああ。例えば『汐入にコンビニ型ホームセンターと百円均一の店が出店計画を発表』だそうだ。汐入駅の近くに出店するから、横地の隊員や防大生等も便利になるだろうと書いてある。」

「コンビニ型ホームセンター?良く分からないですが、ホームセンターとは通常大きいものなのですか?」

「記事によるとそうらしい。ただ、この予定の店は街中に作るから、コンビニのように品数を限定するそうだが、商品によっては種類を増やすそうだ。」

「全体の品数を減らすのに、一部を増やすとは、奇妙ですね。」

「近くの横地等に配慮するようだな。例えば、研磨剤のピカールなるものは、通常1種類の所、小さいチューブ入りとサイズ違いの缶入り2種類の計3種類置いて、小口の一般客からから大口に対応出来るようにするらしい。他に防大生活等に必要な雑巾や消耗品も、在庫や種類を多くするそうだ。それから、久里浜にある系列の大型店と同様に、買った商品やネット販売の配送にも対応すると書いてある。便利な世になったものだ。」

 新聞を読んでいる女性の言った研磨剤は、各自衛隊等では良く使われる物で、隊員・防大生等の金属製の徽章等の他、3自、特に海自の真鍮の部品の手入れ等にも用いられる、自衛隊生活にはほぼ欠かせないものである。

「これも平和だからこそ、ですね。」

 ロングヘアーの女性は、またアイスカフェラテを口にすると、対面の女性が持つ新聞の最終面に掲載された写真を見やる。

 そこには、ある国の首相の訪問予定の記事が載っていて、その写真は記事に関連してヘリからであろう斜め上から撮影された、艦番号185と書かれた“いずも”型護衛艦の写真が掲載されていた。

「なあ。」

 急に声をかけられたロングヘアーの女性は対面の女性を見るが、相手は新聞に隠れて顔が見えない。

「はい。」

「私達のせいでは無いにしろ・・・やはり、気が重いな。」

「・・・同感です。あいつらに会う事そのものが不愉快千万です。とにかく、早く終わらせて横須賀へ行ってしまいましょう。」

 ロングヘアーの女性はそう言って会計伝票を手に取ろうとすると、相手の女性はそれを制した。

「まだ早い。少し落ち着け。」

 ショートカットの女性は片手に新聞を持ったままカップを手に取ると、その水面をじっと見つめる。

 気が重そうに小さく溜め息をつくと、カップを鼻に近付けコーヒーの香りを鼻腔で楽しむ。

 少しずつ口に含み、舌でも堪能しながら噛み締めるように喉へ流し込んでいった。


◯北海道千歳市 航空自衛隊千歳基地 特別輸送機格納庫ハンガー UTC1457:JST2357


 新千歳空港への最終到着便である、第3セクターの北海道航空・HKK53便は既に到着していた。

 昼間の国内線や国外線の離発着の賑やかさとは正反対に、深夜の空港とそこに隣接する千歳基地には静かな時間が訪れている。

 そんな中、はじめは整備員の1人からプレゼントされた、子供が持つには似つかわしくない、警備員や警察官が使用するような黒く大きな円筒状の懐中電灯を目の辺りに逆手で持って、機首の気象用レーダーの入ったノーズレドームや、前脚ノーズギアに光を当てながら、真剣に何かを探すように見ている。

 元がしている懐中電灯の持ち方は、整備員から教わったもので、光源を視線の先に合わせることで、見たい部分をより明るく見ることが出来、また急に振り向いたりしても光源も一緒に向いてくれるため、確実に見たいところを照らせるという利点がある。

 また、この懐中電灯は緊急時には警棒代わりにも使えるほど丈夫で、この持ち方で即座に護身用として使用する事も出来るのである。

 これを元にプレゼントした整備員は、02の侵入犯が捕まっていないことに危機感を覚え、懐中電灯を元から点検用にとせがまれた時に思い付き、急遽ネット通販で2セット購入し、元と双葉へ渡したのである。

 最初、双葉へは特別空中輸送員から渡される筈だったが、出てくる気配が無いため整備員から渡される事になった。

 機内の右側R2ドア付近にある、民航機と同じタイプのギャレー(簡易キッチン)で発見して近付くと、双葉は怖がりはしたものの震える手で受け取って抱き締め、そのまま機内のどこかへまた隠れてしまったのである。

「ここは異常無しっと。次は・・・」

 元は機首側から機体左の主翼に、懐中電灯の光を機体に向けながら歩いていた時だった。

 何か、視線のような気配を感じた瞬間、鳥肌が立つような感覚に襲われ動きを一瞬止めてしまう。

 その直後、背後から扉の開く音が聞こえ、すかさず振り向く。

「誰だ!」

 元の出した誰何すいかの声がハンガー内に大きく響くも、扉付近に人の気配は無い。

 しかし、人の存在は確かにあったようで、閉じていたはずの扉は、大きく開け放たれている。

 元は懐中電灯のスイッチを切るか悩んだが、自分の目が暗闇に慣れる時間を考えて、そのままゆっくりと扉に向かうことにした。

 だが、そのまま向かうと遮蔽物の無いところを進むため、先ず扉付近にいるであろう不審者に警戒しながら光を向け、真っ直ぐ急いで壁に向かって行き、そこから扉へゆっくり近付くことにした。

 まだ夏も終わりかけているとはいえ、近年の夏の気温が高い状態はまだ影響していて、元の額にも汗が浮かんでいる。

 扉に近付くと一旦足を止めて呼吸を整え、懐中電灯を構えなおすと、扉の外に出る。

 付近に人の気配は一切無く、何度か周囲を見ながら誰何するも、返事は返って来なかった。

 元は急に、1人になっている双葉が心配になり、02の方へ駆け出そうとした瞬間、急に視界に白いものが見えた。

「なっ!?わっ!?」

 急な事で避ける暇もなく、何か柔らかい物に衝突して尻餅をつき、懐中電灯を手放してしまう。

「おっと、大丈夫か?」

「痛たた・・・何だ?」

 急に暗くなってしまったため、目が慣れておらず、ぼんやりした視界に動けずにいると、頭上から女性の声が聞こえてくる。

「すまなかった、私の不注意だ。立てるか?」

「だ、大丈夫です。自分で立てます。」

 少しだけ戻った視界に、正面にいた声の主らしき白い手袋を着用した右手が見え、元は手をとろうとするが思い直し、自力で立ち上がるとスラックスについた埃を手で払う。

 女性は右手を出したまま思わずあっけにとられるが、元の様子を伺いながら笑顔を浮かべる。

「あれ?ライト・・・」

 元は手放してしまった懐中電灯を見失い、背後を見た時には女性が既に拾っていて、元に手渡そうとしてくる。

「重ね重ね、すまん。」

「あ、えっと、拾っていただいて、ありがとうございます。」

 懐中電灯を両手で受け取ると、深々と頭を下げた元だったが、頭を上げると疑問が湧き、女性に質問をする。

「あの、こんな時間にここへは何の御用でしょうか?ご存知か分かりませんが、ここは航空自衛隊の施設ですので、迷い込まれたのであれば当直の誰かを呼んで、出口までご案内しますよ?」

 元は正面の女性の白い服に、沢山つけられた防衛記念章が見えたため、この人物は自衛官らしいと見当をつけた。

 しかし、航空自衛官では無いことは分かったため、違和感を覚える。

「こんな時間に失礼した。私の用事はここにあってね。昼間はゆっくりと話が出来ないから、この時間に来たのだ。」

「用事ですか?あの、名前と所属を伺ってもよろしいでしょうか?それから、誰に会いに来たのでしょうか?」

 こんな時間に用事と言われ、怪しむような声音の元の誰何に、大塚は目を少し細め、姿勢を正した。

「これは失礼をした。私は大塚おおつか、司令をしている。見て分かる通り海上自衛官だ。用事は、ある空自の者に会いに来た。これでいいか?」

「海上自衛隊の方ですか!?失礼しました!初めまして、僕は白鳥元と言います!」

 緊張した風に見える元を見ると、くすりと笑顔を浮かべる大塚。

「緊張しているようだな。白鳥はもしかして、海上自衛官を見るのは初めてか?」

「はい!初めてです!」

「この白い詰め襟の制服は、夏の一種だ。スカートも選べるんだが、私はスラックスの方が好みでね。余談だが、常装冬服はこれと意匠が少し異なるが、上下黒になる。今後の事もあるだろうから、覚えておくといい。」

「はい、了解しました!」

元の返事を聞いて、大塚は彼の背後にある政府専用機を見上げる。

「それにしても、この航空機の機体は本当に美しい。この流線型や、白地に赤と金の一直線の塗装もだ。この美しさ、まさに君の名前である“白鳥しらとり”が相応しいな。所で君に質問だが、上下に窓があるように見える。この機は2階建てか?」

 政府専用機を見上げたまま、大塚は元に質問する。

「はい、人が乗る所の一部分は2階建てです。上は操縦席と整備員等が乗るアッパーデッキ、そのすぐ下の窓の列はメインデッキです。その下にカーゴデッキはありますが、人は乗れません。」

「なるほど。初めてこんなに間近で見たが、大きいだけの理由はあるのだな。白鳥、中を見てもいいか?」

 大塚が簡易なタラップの方へ歩きだそうとすると、元は警戒心を剥き出し、彼女の前に手を広げて進路を塞ぐ。

「大塚司令、申し訳ありませんがセキュリティ上の理由で、明野隊司令以上の方の許可が無ければ、誰にもお見せする事は出来ません。残念ですが・・・、お断りさせていただきます!」

 断る部分をはっきりと大きな声で言い切る元を見やると、大塚は諦めたように政府専用機01のコックピットウィンドウを見上げる。

「白鳥、あっちの専用機もか?」

 大塚が今度は隣の02の方を指差すと、元はさらに警戒心を強め、大塚の挙動を見逃さぬよう視線を鋭くする。

「双葉の方もダメです!許可をとってから、出直してください!それに大塚司令、ここは空自の施設です!僕に従って下さい!」

「許可か。要人の乗る機体だから、当然だな。」

 大塚は、そう小さく呟いて元のそばに近寄ると、コンクリートの地面に膝をつけ、彼と視線の高さを合わせる。

「白鳥、私の目を見てもらえるか?」

 この突然で意味不明な行動に、元は警戒心を強めて、手汗が滲む右手で力一杯懐中電灯を握ると、威嚇するように彼女の目の前に突き出す。

「ぼ、僕から離れて下さい!空自の僕に従ってください!お願いします、大塚司令!」

「白鳥、怯えているのか?心配する事は何もない。今、私は武器どころか、ペンの一本も持っていないのだからな。」

 白鳥の行動に対して無視するように、両手を広げて半歩分にじり寄る。

「大塚司令に怪我をさせたくないんです!言う事聞いてください!お願いします!」

 思わず大塚から逃げるように、元は少しだけ後進する。

 彼の持つ懐中電灯の先端は震え、中の電池が筐体と擦れあって出していると思われる、カチカチという微かな音も、耳をすませると聞こえてくる。

「白鳥、私の目を見なさい。」

 大塚のその言葉を聞いた元は、一瞬びくりと体を震わせたかと思うと、とたんに体の力を抜いて右腕を降ろして威嚇を解き、大塚の目を見たままになっている。

「白鳥、私の目を見ているな?」

 大塚を、虚ろな目で見返す元。

「はい・・・。」

元は大塚に返事をするが、その声に先ほどの力強さが無くなっている。

「質問する。お前は今、誰と会っている?」

「大塚司令・・・です。」

「よし。では、会う前に懐中電灯を持っていたな?何をしていたのか、私に教えてもらえるか?」

「機長の・・・行う・・・飛行前点検を・・・僕も・・・」

「そうだったのか。邪魔をしてすまなかったな。」

「いえ・・・お気に・・・なさらず・・・。」

「分かった。それでは白鳥、これから本題に入るからよく聞け。お前はこれから睡魔に襲われる。」

 大塚はゆっくりと言い含めるように、両手を元の肩に置くと諭すように声をかける。

「睡・・・魔に・・・?」

「そうだ。とても強烈な睡魔で、とても逆らえない。そのお陰で朝までぐっすりと眠る。」

「ぐっすりと・・・」

「そして、翌朝起きたら私と会った事は、しっかり忘れ、飛行前点検の途中で眠くなり寝てしまった事しか覚えていない。」

「大塚・・・司令を・・・忘れる・・・。飛行前点検は・・・途中・・・・・・。」

「それから、格納庫には何事も異常は起きていない。誰も来てはいない。いいな?」

「格納庫・・・異常・・・なし・・・。誰も・・・来てない・・・。」

「いい子だ、白鳥。さあ、もう安心して眠るがいい。そして私を、忘れろ。」

「は・・・・・・ぃ・・・」

返事が途切れ、元の体がその場に崩れ落ちたかと思うと、彼は小さく寝息をたて始めた。

 大塚がその様子を確認していると、髪をアップでまとめ、夏服3種スカート姿の女性海上自衛官が近付いてきて、大塚の少し後ろで立ち止まって休めの姿勢をとる。

「司令、時間がありませんので、白鳥双葉の方へお急ぎ下さい。後はわたくしにお任せを。」

 大塚は立ち上がると、後ろの人物へ振り向く。

「頼んだ。邪魔は極力穏便に排除してほしい。騒動になったら、予定通りの行動が出来ないからな。」

「了解しました。便対処します。」

 大塚は軽く振り返って元を見ると、また、相手の女性を見る。

 すると相手の女性は、袋のような布を二つ、大塚に差し出してくる。

 大塚はそれを受け取り、一つを右手で裏返したりしながら相手の女性に質問する。

「航空自衛隊の名前と印が入っているが、これは?」

「靴カバーです、司令。機内は土足禁止ですので、01より拝借してきました。」

 政府専用機は任務飛行以外では土足禁止のため、見学者や来客用に布製の靴用の保護カバーが用意されている。

 政府専用機の隊員達は、機内用の靴を用意しているため入る時に履き替えている。

「そうだったな。助かる。」

「恐縮です。」

 もう一人はそう言いながら、十度の敬礼をして大塚に答える

「時間はかかると思うが、私一人に任せろ。いいな。」

「了解しました。ただ、先程の彼のような事もあります。くれぐれもお気を付け下さい。」

「気遣いは有難いが、貴様には重ねて注意しておく。私が出て来るまで、絶対便に対処をしろ。いいな?鮎沢あゆざわ

「了解しました。」

「では、そっちの判断は任せた。行ってくる。」

 鮎沢は大塚に向かって十度の敬礼をするが、大塚はそれに答礼することなく、02に向かって歩いていった。

 残った鮎沢は、大塚がある程度離れると敬礼をやめ、倒れて寝ている元に視線を向ける。

 その視線は険しく、悲しそうにも、意趣遺恨が込められているようにも見える。

(便であれば問題は無いと司令は仰られた。それであるなら・・・私のとれる行動は、一つ。)

 鮎沢は数秒目をつむると、また歩き出す。

 元のそばに近付いていくと、寝息をたてている彼の頭側に立って見下ろした後、今度はゆっくりと周りを見回すのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る