第20話 Accident(アクシデント)


◯北海道千歳市朝日町 国道36号線平和交差点付近 UTC2036:JST0536


 朝早くに電話で起こされた明野は、自宅まで迎えに来た公用車に乗って特輸隊の格納庫ハンガーへと急いでいた。

 シグナスの2人が発見されて以降の4日間、特輸隊の庁舎で泊まり込みをして、原因の追求や元から聞き取り調査等を行うほか、特輸隊の今後のスケジュールを再確認や調整等のため、激務となっていた。

 そして色々と目処もある程度見えてきたため、泊まり込みを止めたばかりでの出来事であった。

「まだ、見つからないのか?」

 普段と違い、その表情は険しいものとなっていて、トラブルが発生したとしか思えない状況である。

『申し訳ありません。現在捜索範囲を格納庫ハンガーから外に広げていますが、まだ見付かりません。』

 電話の相手は特輸隊整備隊長で、彼の声にも明野と同様の焦りが混じっている。

「新千歳の第1便が確か0610のはずだ。それまでには何が何でも絶対に見つけろ。シグナスの2人と民航機の安全確保を絶対最優先だ。」

 シグナス、つまり白鳥元と白鳥双葉の2人が行方不明になり、新千歳空港滑走路のオープンも迫っているため、明野と整備隊長は焦りが隠せないでいる。

 このままでは、滑走路で捜索している隊員達にも危険が及ぶため、明野は捜索中断のタイムリミットを第1便の動き出す10分前である0600に設定するよう具申してある。

 それを超えた場合、新千歳と千歳の各2本、計4本の滑走路を一旦クローズして安全確認をしてもらい、同時に2人の捜索を続行する予定として千歳基地司令達へ連絡を入れていたのである。

『了解しました。それから他の子達ですが、まだ起きたという報告を、現時点でも受けていません。ゆすっても起きないそうです。』

「分かった。だが、そっちの件は残念だが、今の段階では優先度が低い。衛生員は誰かついているな?」

『はい、5分前に到着してます。』

「なら、異常報告が無い限りそっちに任せて、行方不明のシグナス2人の捜索に集中しろ。今、平和の交差点を過ぎた。着くまでの指揮は、引き続き整備隊長に任せる。」

『了解しました。』

 子供達が現れて1週間が過ぎているのだが、整備員が格納庫ハンガーに姿を表す頃には、元や双葉を含めた全員が起きている事はここ1週間近く確認されていた。

 そのため、朝一で格納庫ハンガーへ整備員の空曹と空士数名が入っていった時、子供達の誰1人として姿を見せないことに違和感を覚えて異常と判断、班長等を通じて整備隊長、更に上官の明野にまで報告がなされていた。

 なお、タラップ車やディアイシングカー(除氷液を吹き付ける車両)等の子供達は全員、明野と整備隊長の言葉通り各車両で直ぐに寝ている状態で発見され、整備隊長の報告時点では、まだ誰も起きていないのである。

(現れたと思ったら消えた・・・。2人とも無事でいてくれればいいんだが・・・。)

 明野は、えも言われぬ不安感に襲われ、小さく身震いをしてしまう。

(・・・車両の子供達も寝ているとは聞いたが、人と同じように考えて良いのだろうか・・・。何か重大な見落としがあるのか?)

 明野はポケットに一旦仕舞った携帯電話を再び取り出すと、電話帳を表示する。

 そこから千歳基地副司令の番号を呼び出して、すぐに電話をかけようとする。

 そのタイミングで整備隊長からまた着信が入り、明野は直ぐに通話ボタンを押して受話口に耳を当てる。

「見つかったか?」

『はい、二人ともそれぞれのコックピットクルー用ベッドで、寝ている状態で発見されました。』

 コックピットクルー用のベッドは、2階であるアッパーデッキのコックピットすぐ側にあり、長時間のフライト時に機長達が十分な休憩がとれるよう、用意された2段ベッドである。

「クルーのベッドで?探したと聞いているが、なぜ見落とした?」

『原因は不明です。ベッドはコックピットと共に複数回別の者が立ち入って捜索していますが、その時はいなかったと聞いています。』

「分かった。見つかったのなら、それでいい。私はこれから基地司令と副司令に1報を入れる。」

『了解しました。この件の報告書を作成しますがよろしいでしょうか?』

 整備隊長の言葉に対して、間髪入れずに明野は返答する。

「よろしく頼む。まだ新千歳には騒ぎが伝わってないと思うから、そっちは恐らく大丈夫だと思うが、基地側は警備小隊と歩哨犬を出してくれた。落ち着き次第、すぐに基地司令に謝りに行くから、それまでには形にしておいてくれると助かる。」

『了解しました。』

 明野は通話を終えると、すぐさま先程電話しかけていた副司令に電話を入れ、その後、第2航空団司令兼千歳基地司令にも連絡を入れた。

 電話を終えた頃格納庫ハンガーが見えてきたのを、運転席と助手席の間から身を乗り出して確認すると、その姿勢のまま運転手の空士に話しかける。

「すまんが、出来るだけ格納庫ハンガーの近くにつけてくれ。ドアは自分で開ける。それからさっき聞こえたと思うが、基地司令に会いに行く。時間は追って連絡するから、その時は車を頼む。」

 明野本人は気付いていないが、普段よりもやや早口になっているため、運転している空士にも、明野が感じている危機感をはっきりと感じ取ってしまっていた。

「了解しました。それから隊司令、こんな時なので少し言いにくいのですが・・・」

 明野は疑問を浮かべながら、空士の横顔を見る。

「悪い報告か?」

「いえ、違います。隊司令の目の下に、隈が出来ていますので、お知らせしておきます。」

「隈?」

「はい。大分顔色が悪く見えてしまったものですから。」

 明野はルームミラーに視線を向けると、ミラーに映る自分の目の下に、血色の悪い黒ずんだ下の瞼が見えて思わず溜め息をついてしまう。

「あぁ、確かにな。」

 明野はシートに座りなおして、右目瞼の下を人差し指で数回なぞる。

 空士はルームミラーでその様子をちらりと見てから、前方に視線を戻す。

「ここ1週間、泊まり込まれたり指揮を執られたりと、お忙しいのは私もお側で拝見させていただいていますので分かりますが、無理はなさらないで下さい。皆、心配しておりますので。」

「そうか・・・。無理をしているつもりは無かったんだが・・・。心配をかけてしまっては、元も子もない。教えてもらえて助かった。ありがとう。」

 明野は特輸隊司令としては数少ない、輸送機パイロット出身者である。

 ほとんどの歴代特輸隊司令は戦闘機パイロット出身者で、その中での彼の着任はかなり珍しいケースと言える。

 彼が政府専用機副務機のコ・パイロットから機長をしていた間も、当然だが隊司令達はF-15J等のパイロットの出身者であった。

 そのため異動辞令が下り、特別輸送機副務機長最後の日には、夜遅くまで特別輸送機に寄り添うように佇む姿が整備員達に目撃され、最終的にはその整備員達に説得されて一緒に出る事になった。

 その時、彼の胸中に過った事は本人のみにしか知り得ないのだが、輸送機パイロット出身者の彼の立場を考えれば、もう2度と政府専用機には関われないと思ったとしても、無理の無い話ではあったのである。

「隊司令、到着しました。」

「うん。」

 通常の状態であればあり得ない事なのだが、明野は自分で言った通り、運動手の空士に開けてもらう暇も惜しんで自分でドアを開ける。

(彼等に会うまで、安心は出来ん!)

 逸る心を体現するように、明野はまるでスクランブルを受けた戦闘機パイロットのように、全速力で格納庫ハンガーへと向かって駆け出していた。


◯北海道千歳市美々びび 新千歳空港国内線ターミナルビル二階 午前六時二十二分


 千歳基地で騒動が起きている事を微塵も感じさせず、羽田行きの始発便である、北海道航空HKK12便が定刻通りの午前六時十分、駐機スポットからトーイングトラクターによるプッシュバックが行われて、この日もいつもの日常が始まっていた。

 民航機の出発や到着の時刻はしばしば誤解される事があるが、定義としての出発時刻は『航空機が動き出した(プッシュバックがスタートした)時間』、到着時刻は『航空機が停止した時間』の事である。

 その定義の定刻通りに予定が進んでいるという事は、新千歳空港にとっても、エアライン各社にとってもプレッシャーから解放されると同時に、次のプレッシャーが待ち受けているという事になる。

 千歳基地同様、そういった緊張感を搭乗客へ微塵も感じさせない新千歳空港・国内線搭乗口C付近の保安検査場を抜けた先には、北海道航空を含めた大手や格安等数社の航空会社の乗り口が集中している。

 その中の北海道航空の搭乗ゲート側のベンチに、何人もの搭乗客が思い思いに過ごしている。

 窓側から離れた最後列の端の方に、紺色のスーツ姿の大塚と鮎沢が座っていた。

 大塚は昨夜と違い、空自の専門紙であるADN(Air Defense News)を読んでいて、鮎沢は週刊海自新聞を読んでいる。

「鮎沢、私は騒ぎを起こすなと言ったはずだ。何を考えている。」

 大塚が新聞を読みながら話しかけると、鮎沢は顔はそのままに、新聞を見ていた視線だけを大塚に向ける。

「申し訳ありませんが、何の事か分かりかねます。」

 鮎沢は興味が無いといった風に、先程まで読んでいた鹿児島県鹿屋市にある、海自鹿屋かのや航空基地の鹿屋通信システム分遣隊々長着任の挨拶や、横須賀の第2術科学校2術校に隣接した、海自が設立した保育園の利用状況の取材記事に目を通していく。

「ふざけるな。あの騒ぎが拡大すれば、帰りの飛行機が遅れて後発航帰になる所だった。相手が待ってくれないのも、分かっているよな、鮎沢?」

 鮎沢の耳には当然、大塚の怒りを抑えているような声が聞こえているが、それを無かった事のように平然と読み進めている。

「分かっています。ですが、結果を見れば、空港は定刻通りに予定が消化されています。問題などありません。それに、大塚さんが彼らに対して安眠を期待されていた。私はそのお手伝いをしただけです。」

 鮎沢は保育園の記事を読み終えると、その下にある広告欄に視線を向ける。

 そこには、デフォルメされた護衛艦こんごうと、同じデフォルメされ挙手敬礼している、3種夏服姿の女性と男性海上自衛官のイラストが描かれている。

 そのイラスト群の右側には、饅頭がカットされた写真があり、そこには『佐世保の出張土産に護衛艦こんごうまんじゅう!』と書かれ、その横にはパウンドケーキが3切れ並べられており、側には『護衛艦くらまのパウンドケーキもあるよ!!』と添えられている。

 鮎沢はパウンドケーキの下に書かれている地図に視線を落とす。

 その地図は土産物店の略図で、佐世保地方総監部と海上自衛隊佐世保史料館の両方がその店から比較的近いようで、両方の場所が略地図に図示されている。

「勝手な行動は慎め。次も許されると思うなよ。」

「了解しました、大塚さん。」

 二人が黙ったと同時に、チャイムに続き館内にアナウンスが流れる。

『お客様に搭乗開始の御案内をいたします。六時四十七分、羽田空港行き、北海道航空HKK16便の搭乗案内を開始いたし・・・』

 それを聞き、鮎沢はスラックスの右ポケットからスマートフォンを取り出し、大塚は胸ポケットから垂れている銀色の鎖を引き上げて、同じ銀色をした懐中時計を取り出して蓋を開ける。

 鮎沢は待ち受け画面で時間を確認すると、すぐにポケットへとしまい、大塚は鮎沢から一拍遅れて、蓋をパチンという音と共に閉じ、胸ポケットにしまう。

「行くぞ。続きは機内でたっぷりと聞かせてもらう。」

 大塚は自分のビジネスバッグを持って立ち上がると、鮎沢を見て彼女が立ち上がるのを待つ。

「飛行機は嫌いなのですが・・・。仕方ありません。」

「安心しろ。私も嫌いだ。」

 鮎沢もビジネスバッグを左手で持って立ち上がると、胸ポケットから右手で航空券を取り出し、先に搭乗ゲートへ向かった大塚の後を、渋々着いていく。

 アナウンスを聞いて集まってきた搭乗客が列を作り、一人、また一人と通過していき、大塚も流れに乗って先に通過し、鮎沢も通過するため、チケットをゲートへかざそうとする。

 すると視界の端に、ボーディングブリッジに繋がれたA320が窓越しに見えると、途端に右手が大きく震えだし、足が重くなったようにすくんでしまった。

 鮎沢が焦って振り返ると他の搭乗客が、ある者は迷惑そうに、別のある者は心配そうに視線を向ける。

 鮎沢は仕方なく重くなった足を引き摺るように、一旦その場から少し離れて搭乗客の列が無くなるのを待つことにした。

 その間も震えが止まるどころか全身に広がり、鮎沢は焦りを募らせていく。

 すると、搭乗ゲートの側に立っていたグランドスタッフが、搭乗客の列と鮎沢を交互に見ながら、無線で誰かと連絡をとり始める。

(怪しまれたのではないと、いいのですが・・・)

 グランドスタッフの挙動を見つつ冷や汗をかきながら、全身に広がった震えを抑えようと必死になる。

 するとロビーの奥から、北海道航空の制服を着た女性が、鮎沢の方へ駆け寄ってくる。

「お客様、いかがなさいましたか?体調を崩されたのであれば、診療所まで御案内いたしますが。」

 近付いて、心配そうに顔を覗きこんで来るグランドアテンダントに、鮎沢は無理矢理笑顔を作って説明をする。

「いえ、あの、病気とかでは・・・。その、飛行機が・・・単に怖いだけなので・・・」

 緊張と恐怖感から言葉を詰まらせながら、腕を組んでなんとか震えを止めようと必死になっていると、鮎沢の目の前のグランドスタッフが右側に視線をそらして、すぐに鮎沢へ視線を戻す。

「失礼しました、鮎沢様。私が付き添いますので、あちらでお待ちの大塚様と一緒に行くという事で、よろしいでしょうか?」

「え?ええ・・・ありがとうございます。」

鮎沢はグランドスタッフに自分の名前を呼ばれ、しかも大塚の名前も出てきたことで面くらってしまうが、右耳のイヤホンから伸びるコードが見えて、安堵する。

(大塚さんがゲートにいる女性に教えたようですね。・・・無線という、こんな単純な事もすぐに気付けなかった・・・。任務でなければ、こんなにも情けなくなるとは・・・。なんて忌々しい記憶だ!)

 内心では毒突くもそれを表に出す事が出来ず、鮎沢の心理状態は、ストレスがストレスを呼ぶ無限ループ状態に陥ってしまい、しかもそれが自己増殖する事にもつながってしまっている。

 そのため、恐怖と怒りと混乱で、鮎沢は自分では震えを止められなくなってしまっている。

 しばらく時間が経ったため搭乗客の列も無くなっており、鮎沢はグランドスタッフに付き添われて搭乗ゲートを通過し、先に通過して待っていた大塚と3人でボーディングブリッジを歩いていく。

「申し訳ありません、航空会社の方。飛行機での移動が初めてなもので、このような醜態を・・・」

「大丈夫ですので安心して下さい、鮎沢様。それから、機内でも不安を強く感じられましたら、キャビンアテンダントにお申し付け下さい。私共から鮎沢様の御事情を説明しておきますので。」

 謝罪する鮎沢の横で歩調を合わせてゆっくり歩いているグランドスタッフは、笑顔を絶やさずに鮎沢の航空機に対する不安感を和らげようとしている。

「申し訳ありません。ありがとうございます。」

 その様子を大塚は黙って聞きながら、ボーディングブリッジの先に見えたA320のL1ドアを見る。

 先に到着していた搭乗客を応対するキャビンアテンダントがドアの機内正面に見え、大塚達が来たのに気付いたのか、姿勢をただして到着するのを待っている。

 3人がボーディングブリッジの先端、かつ、A320のL1ドアすぐそばに到着すると、機内で待っていたキャビンアテンダントが丁寧にお辞儀して挨拶する。

「お待ちしておりました、鮎沢様、大塚様。御席まで御案内させていただきます。」

「あの、なぜ、もう私達の名前をこちらの方が?」

 戸惑う鮎沢にグランドスタッフが説明をする。

「私共が先にクルーへ連絡させていただきました。それから、羽田のグランドスタッフへも連絡をさせていただきました。」

「羽田へも、ですか?」

 驚きで目を見開く鮎沢と、逆に目を細める大塚に、更にグランドスタッフは説明を続ける。

「はい。ですので、到着後も気分が優れなければ羽田にいるスタッフがすぐに御案内出来るよう、万全の体制を整えております。鮎沢様、大塚様、初めての空の旅で不安を感じられるかとは思いますが、安心して空の旅をお楽しみ下さい。」

 グランドスタッフは言い終わると、笑顔を浮かべて極力鮎沢達に不安を与えないように努めた。

「たったあれだけの・・・短時間に・・・」

「手際が・・・すごいな・・・。」

 まだ、恐怖心から震えの残っている鮎沢と、側で聞いていた大塚は、航空会社のあまりの手際のよさに、ただただ驚くばかりであった。

「それでは、鮎沢様と大塚様の事、よろしくお願いします。」

 グランドスタッフは、キャビンアテンダントに向かい、そう言葉をかけてお辞儀をする。

「分かりました。鮎沢様、大塚様、ここからは私がお二人を席まで御案内をさせていただきます。」

 グランドスタッフの言葉に応じてキャビンアテンダントは大塚と鮎沢に向かってお辞儀をすると、左手を機内の方へ指し示す。

「鮎沢様、それから大塚様。私はここでお見送りさせていただきます。行ってらっしゃいませ。」

グランドスタッフの言葉に、大塚と鮎沢も十度の敬礼のようにお辞儀して答える。

「親切にしていただき、ありがとうございます。」

「色々と助かった。ありがとう。」

 大塚と鮎沢は、グランドスタッフへそれぞれ感謝を述べて機内へ入っていく。

 入るとすぐにキャビンアテンダントは、鮎沢達に寄り添いながら歩いていく。

 後部から来たキャビンアテンダントとすれ違うと、案内をしていたキャビンアテンダントは通路側席へ先に座っていた男性に事情を説明して立ってもらい、鮎沢を先に、大塚をそれに続いて座るよう促し、立ってもらっていた男性に座ってもらい礼を述べる。

 そして、鮎沢達にシートベルトの着用方法を教えながら着用してもらうとオーバーヘッドストウェッジ(頭上の棚)に大塚と鮎沢のビジネスバッグを入れて、その場を離れた。

 なお、頭上の棚の呼び名は【オーバーヘッドビン】や【オーバーヘッドコンパートメント】等と呼ばれるが、北海道航空では親会社に合わせて、【オーバーヘッドストウェッジ】と呼んでいる。

 話は反れてしまったが、男性の方のシートベルトは、彼が座り直してすぐに手慣れた手付きで着用していたため、着用の確認だけをしていたのである。

 前方では、ロビーにいた赤ちゃん連れの家族が、キャビンアテンダントにシートベルトの着用方法のレクチャーを受けている。

 北海道航空の場合だが、貸し出された子供用のシートベルトに着いている輪を大人用シートベルトに通し、先に父親がシートベルトを着用する。

 次に、父親が子供を膝の上に乗せて子供用のシートベルトを着用している。

 この方法は北海道航空のケースであるため、別の航空会社の場合はそれぞれの方法に従って欲しい。

 近年、航空機だけでなく乗用車でもそうだが、間違った着用方法による事故が起きている。

 親と同一のベルトを使用中、事故が発生して子供がクッションになり、親だけが軽傷で子供が亡くなるといった悲劇も起きている。

 また、航空機のシートベルトは2点式、つまりベルト1本タイプがほとんどで、正しく着用出来ていないと大人でも着用位置がずれてしまい、事故の衝撃で腹部を強く圧迫し重傷を負ってしまうといった事も報告されている。

 二次災害等防止の観点から、車両であれ航空機であれシートベルトは正しく着用し、安全に乗っていただきたい。

 そして先程すれ違ったキャビンアテンダントだが、L1ドアでグランドスタッフと話をしている。

 恐らく鮎沢の事を引き継いでいるだろうと思われたが、搭乗ゲートの方から女性と男性の大声が聞こえてきて、問題は鮎沢達だけでは無かったと判明する。

「最後のお客様、お連れしました!」

「遅れてごめんなさい!」

 搭乗ゲート付近のロビーに、先導している北海道航空のグランドスタッフと、グレーのスーツ姿で手荷物を抱えた男性が走ってくるのが見える。

「まだ、お時間には余裕がありますので、御安心下さい!行ってらっしゃいませ!」

 搭乗ゲートのグランドスタッフが声をかけると、男性は振り向くいとまも惜しんでボーディングブリッジを走りながらその声に答える。

「ありがとー!お姉さん達!」

 時間に遅れかけた搭乗客が通過すると、搭乗ゲートのグランドスタッフは無線で連絡を入れてから、搭乗ゲートをクローズする。

 彼がL1ドアに近付いて来るのが分かると、グランドスタッフはL1ドアの横に立ち、キャビンアテンダントは少し後ろに下がって遅れて来た搭乗客を待った。

 そして、男性を連れてきたグランドスタッフは鮎沢達に付き添っていたグランドスタッフの横につくと、全速力の後だと思わせない笑顔で男性が機内に入っていくのを見届けると、L1担当のキャビンアテンダントと二言三言言葉を交わす。

 そして、L1の担当によりドアがクローズされ、北海道航空HKK16便のA320は、出発の最終段階に入った。


◯北海道航空HKK16便 A320機内 シート番号E19・F19 六時四十七分


 些細なトラブルはあったものの、グランドスタッフや機内クルーの努力によって、無事に定刻の午前六時四十七分、定員(百八十名)の約八割にあたる、乗員乗客合わせて百四十五名を乗せたHKK16便は、トーイングトラクターによってプッシュバックが行われた。

 機外ではグランドハンドリングや整備員らしき、作業着姿の男性や女性が横に並んでHKK16便に大きく手を振っている。

「出港の見送りか。航空機も似たような事をするのだな。」

 窓の外を眺めている鮎沢にそう声をかけて、大塚はシートポケットの『安全のしおりーA320用』を手に取り、救命胴衣や酸素マスクの使い方、緊急脱出口や緊急着陸時の姿勢等を再確認している。

「随分入念に確認されてますが、あなたも飛行機は嫌いなんですか?」

 左隣のD19に座る男性から声をかけられ、大塚は顔を上げ男性を見る。

 彼はスーツ姿で、一見すると何処かの商社に勤めているようにも見えたが、大塚は短く切り揃えられた髪型や視線の鋭さ、日焼けした顔等の他、普通の人間の出すものではない微かに伝わってくる剣呑とした雰囲気を感じ取り、警戒しつつもそれをおくびにも出さず、笑顔で応じる。

「ええ。二人とも怖い思いしたので、それが記憶に残ってるんです。」

「私もなんです。奇遇ですね。」

 男性は苦笑いを浮かべると、軽く溜め息をつく。

「でも、空はいいんですよ、不思議と。私もそっち関係に行けば良かったと少しだけ思ってました。少しだけ、ですがね。」

「そうですか。北海道へはお仕事で来られたのですか?」

 隣の男性は首を横にふり、大塚の質問に答える。

「実家に帰ってたんですよ。この前、千葉から東京に転勤になって、自宅も落ち着いたので。」

「そうですか。失礼ですが、どんなお仕事か伺ってもよろしいでしょうか?」

 そう聞かれ、男性は少し戸惑いの表情を見せるも、大塚に笑顔を見せて答える。

「陸にいるしがない公務員です。空は昔に仕事の関係でいましたけど、地方等に呼ばれたり古巣に戻ったり。最近は中央なので、もう仕事で空に戻れないでしょうね。せっかく飛行機の搭乗回数が、降機回数を上回ってたんですが、残念ですよ。」

 男性が右手で後頭部をかきながら答えると、大塚と鮎沢は同時に疑問に思い、大塚が納得がいかないといった表情で更に質問をする。

「あの、搭乗回数と降機回数が合わないのはおかしいのでは?」

「世の中には、そういう公務員もいるんですよ。普通じゃあり得ないですがね。」

 男性は笑顔でそう答えるのを見て、大塚はそれがどうやら本当らしい事、そしてその事に関してはそれ以上の事を言うつもりがない事を、彼の目を見て察し、話題を変えることにした。

「そういう公務員の方もいらっしゃるのですね。私達は海の関係でしたが、空や陸と関わる事なく引退せざるをえませんでしたので、色々と関われるのは面白そうですね。」

「引退ですか?お2人ともお若く見えますが、そのお年で引退とは、スポーツか何かの関係ですか?」

 大塚はその言葉に、彼から視線を少しだけ外す。

 男性は大塚の曇ったような表情に変わったのを見て、踏み込みすぎたと思い謝罪しようとすると、大塚が重そうに口を開く。

「私達も・・・公務員と言えば公務員だったような、そうでないと言えばそうでなかったような・・・。すみませんが、この事は飛行機嫌いにも関係するので、これ以上は・・・。自分から言い出しておいて、申し訳ありません。」

 大塚はそう言うと、黙って視線を落とす。

「そうでしたか。これは大変失礼しました。あの、飛行機嫌いなのに乗られているという事は、業務命令か何かで北海道へ?」

 男性の問いに大塚は、視線をそのままに笑顔を浮かべ返答する。

「ええ。自宅へ帰る暇もなく、これから横須賀へ行くんです。」

「横須賀ですか?彼奴らも元気にしてるかな?」

 大塚の返答に男性は、A320の天井を目を細めながら懐かしそうに呟く。

「彼奴ら?ご友人でも横須賀にいらっしゃるんですか?」

 視線を左隣へ向けて軽く驚いている大塚に、男性も天井から大塚の方を向く。

「ええ。大学の同期で海関係に行った奴がいるんです。実はさっきの千歳には、空関係の同期がいるんですよ。」

「千歳にも、ですか?」

「はい。残念ながら1週間前から急に忙しくなってしまったので、会えなかったんですけどね。」

「1週間前から?」

「ええ。なんでも機材トラブルで飛行機が飛ばせないとかなんとかで、4日位泊まり込みだったらしいです。テレビでニュースを見た時はびっくりしました。」

 大塚はそれを聞いて鮎沢を見ると、彼女はばつの悪そうな顔を浮かべて、大塚から顔を背けて窓の外を見る。

 外には滑走路が間近に見え、着陸したばかりのB737-800が誘導路に入ろうとしているところだった。

 そして大塚と鮎沢達を乗せたA320も、空自千歳管制隊の誘導で滑走路へ進入し、一路羽田へと旅立っていった。


◯北海道千歳市 航空自衛隊千歳基地 特別航空輸送隊々司令室 UTC2212:JST0712


 隊司令室に戻った明野は自分の席に座り、どこかへと携帯で電話をしていた。

「入間に行った元部下にも確認したんだが、通常通り、全員居場所がロストすることも、声をかけても寝ているといった事も無く、普段通りだったそうだ。わかっている範囲では、特輸隊うちだけの現象だ。」

『そうだったのか。そっちではそんな事が・・・。お前からメールもらって直ぐに、高崎含めた艦長達に連絡してみたよ。』

「どうだった?異変は報告されたのか?」

『いや、行方不明や寝坊した子供達はいなかったそうだ。』

 明野の電話相手は海自第5護衛隊々司令の三条で、事前にメールでも連絡を取り合い、今朝発生したに関する情報を交換しあっていた。

 特輸隊の子供達は、元と双葉が発見された後の0600に一斉に何事も無く、騒ぎが起きた事も関知する事なく、全員が同時に起き出した。

 明野は衛生員に対しシグナスや車両の子供達へ、出来る範囲でのメディカルチェックと、データの収集をするよう指示した。

 とは言っても普通の人間とは違うため、今のデータが正常なのか異常なのかの判断は、ある程度データが集まった時にならないと如何なる判断も下せないのではあるが。

 それとは別に、明野には気になる事があった。

 白鳥双葉である。

 彼女の様子が昨日と違うような雰囲気なのだが、相変わらず警戒心が強く無口でいるため、何がどう違うのかが分からず、防大同期で事情を知っている空自の佐官だけでなく、三条や高崎達にも、相談しようと電話をかけた。

 結果、三条へは直ぐに繋がったのだが、高崎の携帯は電源が切られているか電波の圏外のため、繋がらなかったのである。

「そうか・・・。いや、すまなかった。それからこれは推測なんだが、潮静ちょうせいも子供の件を調査してるかもしれない。」

 明野は徐に立ち上がると、棚まで歩いていく。

『潮静って、あの陸自で防大同期の?』

 三条の疑問を聞きながら、棚に置いてあった政府専用機B747-400の模型を支柱の部分から持ちあげる。

 その模型の全長は、約30cm程である

「他に誰かいたか?その潮静だが、3日前に実家に寄るついでに会わないかって連絡があったんだ。休暇が終わったばかりなのに変だとは思ったけどな。ただ、会えなかったのは、俺の方の機材トラブル関係で忙しかったからなんだが。」

 模型の正面を見てから支柱を少し回して、明野はL1ドア付近をじっと見つめる。

 数あるB747-400の中でも、特別輸送機政府専用機のL1ドアは、恐らく世界的にも有名であろうと思われる。

 何故なら皇族の方々や首相等の要人の方々は、必ずこの【L1ドア】から乗降され、タラップ車の最上段で1度振り向いて手を振ることが慣習となっているため、テレビの撮影や新聞社等の写真で見る機会も多いからである。

『ニュースになった件か。』

「あぁ。それから大分前に百合香ゆりかが海自に研修に行くのも聞いたよ。本人も言っていた。」

 明野は支柱を外すと、特別輸送機を水平にして持ち、机のそばまで静かに歩いて巡航させ、机上にソフトランディングさせて自分の氏名と役職名が書かれたプレートの横に駐機させた。

『電波女の榛東しんとう・・・、今は新町しんまちか、が海自に?・・・って事は・・・今だと、アショアしかないな。』

 三条の言うアショアとは、【イージス・アショア】( Aegis Ashore )の事で、端的に説明するとイージス艦のシステム(AWS)をそっくりそのまま、陸上施設として地上へ移植したものである。

 見た目も、イージス艦最大の特徴である8角形の平板アンテナ4枚を着けた上部艦橋そのままで、マストが無い見た目となっている。

 当初、イージス艦で運用実績のある海自か、ミサイル防衛の先頭に立つ空自が有力だと思われていたが、警備や移設できるなど様々な点を考慮して、陸自にイージス・アショアの運用を任せることになったようである。

「ああ。それしかない。恐らく色んな手を使って潜り込んだんだろう。百合香の披露宴の時、通信の旦那さんの前で部下達から、“電波と結婚した女”なんて言われても、肯定するぐらいだからな。あれは末期だよ。夫婦で子供達にアマチュア無線とか取らせてそうだ。」

 そう言いながら自分の席に戻ると、天井を仰ぎ見る。

『そこまでするなら海自うちに来て“こんごう”とか乗れば良かっ・・・思い出した。防大の時、何かのアンテナが可愛くないとかなんとか、散々ボロクソ言ってたんだったな。』

「そう言えばそうだったな。だったら海上無線の資格も取るなって話なんだが。そう言えば二年の時、空自うちの方に告白したらふられたって泣いてたのも、何故か思い出したよ。」

 防衛大学校防大では、2年に進級すると陸・海・空のそれぞれに振り分けがされ、それぞれ、陸上要員・海上要員・航空要員として、基礎教育の他にそれぞれの専門教育も行われる。

 本人の希望が叶うかどうかは成績次第であり、新町(旧姓、榛東)百合香のように希望叶わず涙を飲む場合もある。

 人によっては新町のように受け入れて、そのまま卒業する者もいれば、防大を退校し一般曹候補生や自衛官候補生で希望する海空自でやり直すといったケースもあるという。

『はははっ!そんな事もあったな。懐かしいよ。』

「ああ。・・・さて三条、無駄話悪かったな。貴重な情報もありがとう、助かるよ。」

『いや、こっちも子供達に関して、貴重な情報が聞けて助かった。そうだ、上に報告する時、名前出しても大丈夫か?』

 明野はすぐに許可しても良いと思ったが、考え直して、その考えを三条に伝える。

「いや、1回こっちに連絡入れてくれ。個々に判断したい。」

『分かった。こっちもそうしてくれるとありがたい。それじゃあ、あんまり無理するなよ、明野?』

「お互いにな。じゃあ三条、またな。」

 通話を終えた明野は、落ち着かないのか立ち上がると部屋の中をそわそわと歩き回る。

(うちで起きたような事は、今の所シグナス達以外、空自うちでも海自あっちでも確認されていない。陸も確認出来るならしたい所だが、潮静には聞きそびれたな。特輸隊うちでは何があったんだ?こんな異変、本当にうちだけなのか?)

 明野は、言い知れぬ不安を拭いきることが出来ず、机の上に置いた特別輸送機を手に取り、支柱を着けなおす。

 その状態で再び机に置くと、支柱によって、まるで特別輸送機が離陸するような機首の角度になる。

 その政府専用機こと特別輸送機シグナスを、考えを巡らせながら、明野はただ黙って眺めるのであった。

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