第14話 始まりの翌日・前編


 海上・陸上・航空の各自衛隊で、子供達が現れた事象から1日が経ち、各自衛隊では未だに混乱が続いていて、子供達の発見と異常の報告は、3自衛隊の全国にある基地、駐屯地の7割から8割に達する。


 各自衛隊の対応であるが、最初に陸上自衛隊を見ていくことにする。

 静岡県の陸上自衛隊東富士演習場のある滝ヶ原駐屯地では、発見された子供達を児童相談所へ連れて行く対応となり、マイクロバス等に子供達を乗せて移動しようとした。

 しかし、車両が駐屯地から少し離れたところで、1人2人と消えていくのが確認され、最終的に子供が全員消えるといった事象が報告された。

 慌てた隊員達は急いで駐屯地に現状を報告し、捜索を開始しようとしたところで、2人の子供が駐屯地内に戻っているのが発見されたのを皮切りに、全員の子供が次々に駐屯地内のあちこちに戻っているのが確認と報告された。

 子供達を集め直し、もう一度乗せて出発したのだが、同じ事象がおきてしまい、滝ヶ原駐屯地では児童相談所や静岡県警御殿場警察署の生活安全課等に来てもらい、陸自隊員も立ち会う中、子供達に聞き取り調査等を、数日に分けて実施される事になった。

 日数が分けられたのは、子供達に負担がかからないようにとの配慮からである。


 次いで、航空自衛隊であるが、入間基地では発見された子供達のうち、意識が混濁していた数名の子供を、自衛隊入間病院へ連れて行って精密検査が行われた。

 そこで医官、看護師達は大混乱に陥る。心拍数や血圧が0、SPO2エスピーオーツーが0%、体温が27~28℃と言うのは、現場の芹沢や堀兼達から、事前連絡や申し送りで知っていたため、混乱はしたものの、そこまで大きいものでもなかった。

 しかし、血液検査を行おうとしたところ、注射器シリンジに一滴も血液が採れなかったり、レントゲン写真が体の形で真っ白くなってしまい、骨や内臓が一切読み取れなかったり、トイレに行く様子を一切見せないため尿検査等も出来ないと言った事態も起きていて、医官、看護師、診療放射線技師等は混乱し、頭を抱える事になった。

 さらに、病院や基地の医務室等にいる子供達は、出された食事を平らげている子もいるが、一切食べない子供、少ししか食べない子供もいて、基地の方にいる子供達には、自衛隊入間病院から内科医や臨床心理士等が派遣され、診療並びにカウンセリングを始める所である。


 そして海上自衛隊については、陸上、航空の両自衛隊と比べて目立った混乱は、館山や厚木等の全国の航空基地では発生していたが、港湾の基地(函館、大湊、横須賀、舞鶴、阪神、呉、浜田、佐世保、沖縄)では、車両等のみ混乱していて、艦艇船舶に関しては現在もの発見や混乱の報告は、海上幕僚監部(以下、海幕監部)等には届いていない様である。

 陸上自衛隊と合同演習中に、AISやエンジン等のトラブルで日本海沖で停泊していた『北方転地護衛艦隊』であるが、点検終了が各艦艇から護衛艦とさに報告され、海幕監部と自衛艦隊司令部等の許可により、同様のトラブルにより派遣中に佐世保へ緊急入港していた補給艦なかうみが、再度派遣されて現場海域へ到着、艦隊は補給を受けながら16時間遅れで北海道に到着予定となっている。


 別件にはなってしまうが護衛艦”とさ”へ出頭した、輸送艦”いわしろ”の長浦海里3等海尉、御船祥子3等海尉、陸自第4施設団304施設隊の浜山陸斗3等陸曹は事情聴取を理由に、現在は護衛艦”とさ”に留め置かれている。

 浜山に関しては本人の知らない所で、更に別の動きがある。

 海幕監部と陸上幕僚監部(以下、陸幕監部)との間でどの様な話し合いが行われているかの詳細は不明ながら、『北方転地演習』の終了後から期限付きで、海自への派遣を陸自側へ要請が出されている。

 陸自側はこの要請に難色を示していて、調整はやや困難なようである。

 それも当然で、単なる目撃者であれば事情聴取だけで済むはずのところ、海自への数ヶ月間派遣を依頼してきているのだから、海幕に対して訝しむ陸幕の心情も分からなくもないのである。


 そして最後に統幕等の各幕僚監部であるが、4幕長会議後に海幕長の谷本は、海幕監部に指示して陸上並びに航空自衛隊に先駆けて、一般事故調査委員会内に臨時で『特殊事象調査室』を設置、人員も急遽かき集めて調査を行うとした。

 他に、陸幕監部は『特異事案調査委員会』、航空幕僚監部(以下、空幕監部)は『入間基地等児童集団侵入事案調査チーム』の他に、『特別輸送機02ゼロツー侵入事件調査チーム』が、それぞれの幕僚監部に設置された。


 ここで自衛隊以外の組織も見てみる事にする。


 まず、海上保安庁であるが、子供が現れる事象が一番最初に発生した第3管区保安本部においても、車両等に子供達が発生している。

 またそれと同時に、海上自衛隊でも発生した、AISの表示ズレや誤表示、保有船舶のエンジン等の不具合の他に、海上自衛隊には見られなかった、船舶無線の一時混線等が発生している。

 そして、海上自衛隊と同様に、船舶に関しては現れる事はなかった。


 次に警察と消防であるが、1日経った現在、異変の範囲関東甲信越の全都県、東北四県、中部全県、関西一府一県と、自衛隊と比較してゆっくりではあるが、拡大を続けている。

 ここで特筆すべきは海上自衛隊等と同様に、水上警察署や消防署が所有する船舶に関しても、子供達も含めて現れることもなく、海上自衛隊等のようなエンジントラブル等は起きる事がなかった。


○東京都大田区蒲田 国道15号線 帝急(株)蒲田駅付近


 人通りも多く、交通量もそこそこ多い時間帯。

 信号待ちの車列に並んでいる、ある1台の車内では、AMラジオからニュースが流れている。

『・・・いてのニュースです。広島県呉市内で2ヶ月前に発生した轢き逃げ事件について、広島県警察本部は今日未明、海上自衛隊の40代の男性をひき逃げしたとして、南広島市に住む20代の男を危険運転致傷罪の容疑で逮捕しました。容疑者は当時、酒を飲んでいたと見られ・・・』

 黒塗りの、一見して公用車と分かる車両には、運転手の2等海曹、後部座席の運転席側に3等海佐、助手席側に2等海佐が座っている。

「2ヶ月前のひき逃げ、飲酒運転だったのか。これの被害者、512の“こうりゅう”魚雷員長でさ、多分もうすぐ退院だって。いや、時間的には昨日くらいには退院してるんかな?右手に後遺症・・・残っちゃってるらしいんだってさ。」

 駅の歩道を見ながら2佐の大村が、右側に座る3佐の西原に話しかける。

 西原は書類を読むのを中断し、顔を上げて大村の方を見る。

「大村室長。なぜ、そこまで知ってらっしゃるんですか?」

 運転手の2曹は信号が青に変わったの確認すると、前の4tトラックとの車間距離に気を付けながら、ゆっくりとアクセルを踏んで発進させる。

「今回の調査メンバーだからだよ。」

「メンバーの1人なんですか?」

 大村がさも当たり前のように告げるが、西原の方は知らなかったようで大村に聞き返す。

「あ、資料は俺が持ってるんだった。えっと・・・これだ。今のうち見ておいてくれ。」

 黒のカバンを少し漁ると、数枚の書類が入った透明のクリアファイルを取り出して、西原に手渡す。

「ありがとうございます。拝見させていただきます。」

 両手で受け取った西原は、書類をクリアファイルから1枚選び出してすぐに視線を走らせる。

「俺もざっとしか見てないんだ。時間ないからとっとと始めろって、部屋から追い出されたからな。」

 大村は肩をすくめると、やれやれと言った風に右手を上げる。

「・・・こういうメンバーなんですね。・・・ああ、この坪内曹長の事ですね?」

 西原は書類に書かれている坪内の名前の欄を指差しながら、大村の方を向く。

「そう、坪内さん。色々準備があったりするから、俺達と合流は2週間後。それ以外は明日顔合わせだ。」

 大村の言葉に顔を上げると、西原は疑問の声を上げる。

「坪内曹長だけ2週間後?何故そんなに時間かかるんですか?退院直後で申し訳無いとは思いますが、調査は急いでるんですよね?そう、聞かされてますが。」

 車両は、南蒲田の信号に差し掛かると左へウインカーを出し、東京都道311号環状八号線へと入っていく。

 羽田方面を目指しているようで、道路標識には『首都高速道路』の文字も見える。

「坪内さんにはとりあえず最初に、呉の“こうりゅう”から調査してもらうつもりもあったからだ。でも本命の航空機と車両に現れた子供の件の方が、より急いでるからな。」

「本命って、その言い方だと艦艇に子供が現れていない件の調査は、急いでないって事ですか?」

 西原の言葉に大村は、少し探るような視線を運転手に向けたまま、口元に右手をあてて西原の耳元で小声で囁く。

「後で話があると思うが、俺達と艦艇担当には守秘義務が課せられる他に、航空車両担当にも内緒だそうだ。」

 大村が姿勢を戻しているのを見ながら、西原は怪訝そうな表情をしつつ考えを巡らす。

「それはどういう事でしょうか・・・?」

 普段の声量で西原は大村に問いかける。

「・・・俺にも・・・分からん。」

 大村と西原が会話を続ける中、ラジオからは淡々と今日のニュースが流れ続けている。

 国会議員が地元に戻ったとか、ある国の大統領が別の国の大統領と会談した、重工系の子会社が国際宇宙ステーションへの物資輸送衛星打ち上げに成功した等が流れている、

そんな中、大村と西原は『航空自衛隊』と聞こえた気がして、直ぐに会話を中断してラジオに耳を傾ける。

『・・・が青森空港へ緊急着陸しました。詳しい事はまだ分かっていませんが、今日午前9時半頃に羽田空港へ到着した際には、異常の報告は無かったという事で、航空自衛隊で原因を調べるとしています。』

「青森に?大変だなぁ。空自さんもなん・・・」

「室長、続きがあるようです。」

 大村が感想を言おうとするところを、西原が左手でそれを止め、続きを聞き取ろうとする。

 大村も表情を引き締め、ラジオのニュースに聞きいる。

『また、埼玉県の航空自衛隊入間基地へ、陸上自衛隊の大型ヘリコプター2機が緊急着陸した件についても、陸上自衛隊が異常の原因を調べるとしています。最後に全国の天気です。今夜遅くから明日にかけて、西からの低気圧の接近に・・・』

 ニュースも終わり、内容は番組最後の天気予報になっている。

 車両はいつの間にか、首都高速神奈川1号横羽線に入っていた。

「大変な事になってるな。陸さんは東富士でヘリが事故おこしかけて、別の機体は入間に緊急着陸、空さんも機体故障・・・。しかも天気は夜から低気圧接近。海自うちだけか。今、静かなの。」

 ニュースを聞き終わって、腕を組んで瞑目する大村。

 西原は、左手で再度受け取った書類を持ちながら、右手でスマホを取り出し、操作しながら返答する。

海自うちは静かにしてますから。それより大村2佐、この呟き、見てください。」

 大村にスマホを差し出して、画面に出ている呟きサイトのある呟きを指差す。

「見て良いの?どれどれ?・・・この『天龍響@陸好き』って、西原の事か?」

 受け取った大村は、呟きサイトの左上に出ている、名前を見て疑問を抱き、西原に聞く。

 名前に陸好きと入っていて、アカウントのアイコンも90式戦車で、呟きにも『横須賀の艦艇公開しらせ編②』等に混じって、『軽装甲機動車』とか『1トン半アンビ(陸自)とアンビ(海自)』等の陸自装備の写真付き呟きが目立つ。

「はい、私です。情報収集用の裏アカウントです。上の許可も取っています。それより、先ほどの『空自LOVEアット今日は入間基地』さんの呟きを見て下さい。」

 西原に言われ、大村は先ほどの呟きまで画面を戻す。

「これ情報収集って言うより、西原の趣味だろ?しかも陸好きなのに“てんりゅう”に“ひびき”って着けたら変に思われるだろうに。」

「艦艇名だって言われたら『あるゲームに出てくる、旧海軍の艦艇でこれが好きだ』って言い張れば良いんですよ。幸い、似たようなアカウント名がありますから、向こうが勝手に勘違いしてくれますし。」

「実際はお前さんの乗艦した船だけどな。・・・何々?『入間に陸自チヌーク来たよ♡ダイバートかなぁ?訓練かなぁ?』・・・女性の呟きみたいだけど、もしかして見せたいのって、この呟き?それとも写真?」

 大村が女性のアカウントだとすぐに断定出来なかったのは、その女性のアイコンとヘッダーに原因がある。

 アカウントのアイコンの写真は、ブルーインパルスの使用しているT-4の機首の部分写真で、ヘッダーには6機編隊で右から左に向かって、先頭の1機を除く5機が、白い煙を一直線の軌跡として描いている写真を使っているからであった。

 大村は女性がこのような写真を使うとは思っていなかったため、呟きの文面とアイコン等のギャップに戸惑いを感じた。

 しかし、ブルーインパルスに関して、女性のファンも多数おり、中には全国を追っかける強者までいるとの事である。

「見せたかったのは両方です。その方は関東を中心に、空自の写真を撮ってらっしゃってます。ちなみに、この空自好きの方達と呉好きの方達の流し撮り、私は好きでよく拝見しています。」

「ふ~ん・・・。流し撮り、ねぇ・・・。」

 西原はやや嬉しそうな声で喋るのに対して、大村は興味なさそうに写真を眺めている。

「呉好きの方々がこの前、横須賀まで来られてたそうで、エイやカモメを流し撮りされていましたよ。」

「カモメなら分からんでもないが、エイまで?なんか知らんが凄そうだな。」

 大村は少し驚いた顔で西原の方を向く。

 流し撮りは、離着陸時の航空機や走行中の鉄道等の車両を撮影するのによく行われている技術である。

 動物でも撮影は出来るが、動きの予測が難しかったり、エイのように動きが遅い動物は、普通に撮影しているように写ってしまう事があり、中々難しいのである。

「実は私も、昨年の総火演に10式戦車や軽装甲機動車LAV、82ハチフタ式指揮通信車等を流し撮り目的で行きました。エイの書き込みも含めて見ますか?」

 総火演とは毎年8月に行われる、陸自の大規模演習の事で、正式名を『富士総合火力演習』である。

 一般公開も行われ、戦車やヘリ等の実弾射撃演習も見ることができるのだが、海自の観艦式と同様に入場券はプラチナチケットとなっている。

「後でな。それから陸自さんなんだから、82ハチニイ式って呼んで上げたら?」

 スマホを操作しながら、陸自装備の言い方を指摘する。

 同じ『2』の言い方も、海自の場合は『フタ』と言うが陸自は『ニイ』と呼んでいる。

「よくご存じですね?陸自さんに御友人でも?」

 一度視線を大村に向けて、また書類に視線を落とす西原。

「正解。おっと、こっちは別の人だな。『空自の入間ヘリ空輸と陸自の12ヘリ隊のチヌーク2ショット!!』・・・珍しいの?ん?その次は『師匠、背中で語るww』?これはまぁいいや。忘れる所だったけど、さっきのダイバートって何?」

「ダイバートは、予定していた空港とは違う空港に着陸する事だそうです。空港が天候悪化で閉鎖されたり等すると、自衛隊機も民間機もダイバートするそうです。」

「それから写真の方は?」

「失礼しました。チヌーク2ショットの横、救急車が横付けされているのが撮影されています。その直後の別の人のこの写真は、飛行点検隊のU-125後部のここに、救急車アンビが写っているのが見えるはずです。」

 大村の出していた呟きの、直ぐ下の呟きの写真を人差し指で触って、写真を拡大する。

「ああ、これか。少し奥にあるからピンボケしてるけど、それらしく見えるな。」

 その写真には、消防署に配置されているような救急車が1台写っている。

「少し経つと、『救急車?事故でもあった?』という呟きが入間で撮影していた人たちの中でも広がってます。それから、百里の偵察機、RF-4Eもダイバートしているようです。『入間に来た!』って、これも一部で騒ぎになってます。」

「そうなの?へぇ・・・。何があったんだろ?おっ?青森にダイバートの飛行機も呟きに流れてたんだな。『おぉ!!ダイバートっぽい!?こちらの写真をどうぞ( ´ ▽ ` )つ』だって。」

 青森空港の滑走路、RWYランウェイ24トゥーフォー主脚メインギアが接地直前の所、誘導路に入っていく所、駐機スポットに停止中の所など、特別輸送機02の写真がいくつか投稿されている。

「何があったのかは分かりませんが、気になるのは、陸海空でここまで問題が重なる事。これは不自然です。断定は出来ませんが・・・。何かがおかしいのだけは分かります。」

「それをこれから調べるのが俺達だ。油を扱う役回りが、YOだと良いが、YGだと間違えたら炎上するからな」

 そう言いながら大村は、緑と白のコンビニ限定のサイダーを取り出すと、軽く飲んでキャップを閉める。

 西原も少ししか入っていないオレンジジュースを取り出すと、軽く振ってからキャップを開けて飲みきると、コンビニの袋を取り出し、そこに入れる。

 補足であるがYOとYGは、同じ支援船の『油船』に分類され、YOは艦艇用の重油・軽油を、YGは航空機用燃料である『JP-5』を取り扱う。

 JP-5は重油・軽油に比べて、揮発性が高くて着火しやすいため、YGはYOに比べて安全対策がより厳重になっている。

「確かに。YOの艦艇用燃料ならまだ良いですが、YGの扱う航空機用燃料JP-5だと、直ぐに大炎上してしまいます。大村室長、間違ってもYOにJP-5を積み込まないよう気をつけて下さい。それだけは冗談ではなく、強くお願いします。」

 それを聞きながらサイダーを一気飲みする大村を見ると、西原は空のPETボトルの入った袋を差し出す。

「分かったって、ちゃんと気を付けて『油は売る』って。普通なら『油売るな!』って言う所なんだろうけどな・・・。そうだ、西原。もう気がついていると思うが、この『特殊事象調査室』は、島流しなのを覚悟しておいてくれ。」

 大村は袋にPETボトルを入れると、袋の口を縛っている西原を、真剣な目で見据える。

「そうですか・・・。島流しですか。どうやら、私は3佐のままで終わるようですね。」

 口調は寂しそうなのだが、表情は柔和で、寂しさをいっさい感じさせていない。

「西原の方は一時的なものだと思いたいが・・・希望的観測だろう。すぐに艦艇に戻れるかは分からないな。俺の方は、このまま飼い殺しで2佐のまま終わるだろう。」

 大村が視線を向けると、西原はその視線から逃れるように右の車窓を眺め始め、小さくため息をつく。

「申し訳ありませんが、私はもう艦艇には戻りたくありませんし、未練もありません。いつ辞めてもいいとさえ思っています。ただ・・・きっかけが無いだけです。」

 何かを思い出したのか、目のハイライトが消えたように表情を暗くしている。

「そうだよな。西原も”あの事故”に関わっちゃったもんな。俺は艦艇に未練たらたらだけど、幕は俺を戻す気が無いみたいだし。世の中上手く行かねえもんだな。」

 西原は大村の覇気のない声に、軽く驚いたような表情で視線を大村に戻す。

「未練がある、ですか?そうは見えなかったです。むしろ、あの配属で喜んでるようにも見えましたが、違うんですか?」

「ああ、あれは演技。保身だよ。ほ・し・ん。あのクソ上司のいじめから逃げるためのな。でも、これでやっと逃げられたんだから、『特殊事象調査室』だか『超常現象研究室』だかなんだか知らないが、本当に異動出来て喜ばしいよな!全く!」

 忌々しげに言葉を吐き捨てると、腕を組み下を向いてしまう。

「あの、確かによくない噂は聞いてますが、豊田1佐をそこまで言うのは、さすがに不味いのでは?」

 西原は、運転している2曹をちらりと見やってから、大村にだけ聞こえるくらいの声で諫める。

「ここだから安心して言えるんだって。流石の俺だって表だっては言えねえよ。」

 大村の方は意に介さず、忌々しげな声音で、しかも苦虫と苦い薬草を、同時に奥歯で思いっきりすりつぶしてしまったような表情を作っている。

「私の前では“裏”って事ですか。分かってはいましたが、改めて言われても反応に困ります。」

 言われた西原は反応をどうしたらいいか本当に分からず、困り切った顔で、大村を見ている。

「つっても、怒らせたらいけない人トップ10に入ってる、長浦群司令達を怒らせたからな。再就職狙ってるみたいだけど、どのみちあの性格じゃ見つからないだろ。今、確か54くらいか?ざまぁみろ!自業自得だってんだ!ったく!」

 定年は階級毎に決まっているが、海陸空の各自衛隊の1佐は定年が56才と決まっている。

 人にもよるのだが、昇進が見込めないと見切りをつけて早期退職をする者や、定年まで任官する者など、階級、考え方、生活環境等でその対応は人それぞれである。

 件の1佐は定年後の再就職を考えているようだが、どうやら援護が得られる事はなさそうである。

 普段の行いは、きちんとしておく事が必要だという一例だろう。

 正に『情けは人の為ならず 巡り巡って己が為』である。

「あの”仏の長浦群司令”が、怒ったのですか?聞いたことがありませんね。」

 目を見開き、それだけで有り得ないと分かってしまう表情をしている西原。

「仏って言われるようになったのは、2佐になって直ぐかな?それ以前の群司令の徒名は、“鬼神”とか言われていたそうで、とにかく厳しかったらしい。」

「知りませんでした。と言っても、私はお名前と評判を知っているだけで、お会いした事は一度もありませんので、そういうものなのでしょうけど。」

 進行方向の車窓を見ると、首都高の緑の案内板には出口や行き先の表示がでており、ジャンクションの案内も同時に出ている。

「そうだ、群司令で思い出した。急遽だけど、浜監の幕僚長だって。知ってたか?」

 幕僚長とは言っても、大村の言っているのは海上幕僚長の方ではなく、各地方総監部の総監を補佐する役職の事で、階級は海将補が就任する。

「はい、それは聞いています。海将補と同時に2護群の司令になったばっかりだと言うのに、長浦群司令も忙しい人ですね。」

 西原はそう言いながら、書類入りのクリアフォルダを大村に返却すると、自分のバッグから別の書類が10数枚挟んであるクリアファイルを取り出し、書類を1枚抜き出して読み始める。

「群司令の事だから、『また転勤かぁ』ってぼやいてるんじゃないか?」

 大村は右の車窓を眺めながら、第2護衛隊群司令部のある佐世保基地を思い出していたが、ふと、別のことも一緒に思い出す。

(はぁ・・・思い出しちまった。・・・“あいつ”とは・・・2度と会いたくねえ・・・な。)

 大村は憂鬱そうな顔で、海の青よりも明るい空の青を眺め、どんよりとしてしまった気分を持ち直そうとする。

 その視線の先には、だいぶ高い所を飛んでいる、羽田空港から飛び立ったらしき民間航空機の機影。

 二筋の雲を残して、西の方へとその航跡を残していっている。

 それを見て、かつて乗艦していた艦艇の後部甲板から見た光景を、ぼんやりと思い出す。


○太平洋上 数年前の秋 夕方近く


 自衛艦旗はためく飛行甲板艦尾側の、ラッタルから降りた先にあるキャットウォークと呼ばれる通路に、2人の人物の姿がある。

 そのキャットウォーク両端に、似たような装備が右舷側と左舷側のスポンソンと呼ばれる、海に張り出したスペースに1つずつ設置されている。

 よく見るとこの2つ、似た形ではあるが異なる部分がある。

 右舷側のスポンソンの方は、黒い筒が6本纏まって1本になっている部品が見え、左舷側の似た機械には、同じ部分にグレーの箱のような物が取り付けられている。


 これらの正体は、右舷側はファランクス(CIWSシウスとも呼ばれる)、左舷側が|SeaRAM(シーラム)と呼ばれる、近接防空火器である。

 ミサイル等が自艦に迫った時、ファランクスは86式20mm機関砲用徹甲弾薬包で、SeaRAMは射程距離の短い近SAMミサイルで、対象を破壊して自艦を防衛するのである。


 そんなスポンソン同士を繋いでいる、キャットウォーク中央、ラッタルそばのスタンションに手をかけ、少し離れた所の海面に現れている、プロペラと艦体が起こす泡が混じった波を見ている常装冬服姿の大村。

 その左横では、常装冬服姿の幹部自衛官が遠くの方を見ていて、その先には水平線だけしか見えず、360度のどこを見渡しても、島影も行き交う船も見えない。

 その幹部自衛官の制帽は、大村の被っている制帽とは違って丸みを帯び、帽子の左右のつばが上に折れている。

 大村は真剣な眼差しで、左隣の幹部自衛官に話しかけ続けているのだが、相手は浮かない表情で、聞いているのかいないのか、じっと遠くを見ているだけである。

 諦めて口を噤み、同じ方向を見る大村に対して、幹部自衛官は意を決したように何かを告げる。

 大村はそれに返事をしたのか、首を横に振ると、相手の幹部自衛官は寂しそうに力無く微笑む。

 スタンションを左手で強く握り締め、下の海面を覗き込むと、右手でそっと自身の制帽を脱ぐ。

 気配を感じた大村が心配そうな表情で左を向くと、大村の隙をつくように彼の制帽も脱がす。

 驚いて戸惑いを隠せない大村に、一歩近付いた直後、目をつぶり少しだけ爪先立ちをした幹部自衛官と大村の顔が重なる。

 思わず目を見開いた大村にとっての体感時間は、数秒が何十秒にも引き伸ばされている錯覚に陥っている。

 動きを止めていた幹部自衛官は、ゆっくりと目を開けて爪先立ちを止める。

 1歩大村から離れると、自身の制帽を被って整え、大村の頭にも彼の制帽を被せて整える。

 放心したままの大村へ、涙を一筋こぼしながら挙手敬礼をすると踵を返して駆け出し、キャットウォークから飛行甲板へと通じるラッタルもそのまま駆け上がっていく。

 大村の時間はそこでやっと動き出し、ラッタルの上を慌てて見上げると、幹部自衛官の体が飛行甲板で見えなくなった直後であった。

 夢を見ている感覚に襲われた大村だったが、唇に残る自分以外の温もりだけが、先程までの事が夢ではないと告げている。


 この、甘く優しい彼女の感触呪いが、彼の心の中に深く残り続けていく事になる。




訂正:2017/03/31 坪内曹長の役職“魚雷員長”の長の字が抜けておりました。訂正してお詫びいたします

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る