第15話 僕を、忘れないで

「へっくしょん!」

 私は寒さに震えながら、大きなくしゃみをした。ちょっとだけ周りの目を意識して、頬が熱くなる。

 予告もなしに降り始めた雨は、あっという間に大粒のスコールとなって眼前の人々を飲み込んでいく。壁にもたれてウトウトと心地よいまどろみに身を任せていた私は、滝のような雨音によって強引に覚まされた。疲れているときに囁かれる睡魔の誘惑ほど甘美なものはないのに、突然の雨に文字通り水を注された気分。

 急な呼び出しだったため、傘を持って出るのを忘れていた。待たされる・起こされる・傘が無いと、なんとも嫌な連鎖だ。今日は私の生誕十五周年の記念日だが、こんな嫌がらせを受けるほど大それた日じゃないはずだ。

 携帯電話を取り出して時間を確認すると、彼が指定した約束の時刻は二十分も前に過ぎ去っていた。呼び出しのコールにも出ないしメールを打っても無反応。せっかくのゴールデンウィーク、しかもわたしの誕生日だというのに、彼は『用事がある』といってデートに応じてくれなかった。かと思えばいきなり電話してきて『駅で待ってて』ときたもんだ。

 勝手なヤツだ。

 ふいに、眼前のビル側面に備え付けてあった大型のプラズマディスプイが点灯し、見覚えのあるニュースキャスターが現れて真面目腐った顔で『五時のニュースです』と告げた。待ち合わせ時間から、とうとう三十分が経過したわけだ。再度コールするも『電波の届かないところにいるか、電源が――』。もう待ちきれない。わたしは暗澹たる気持ちで(あと五分だけ待とう)と心に決め、携帯電話を閉じた。

 と、どこかで私の名前が呼ばれた。

「ごめん、待った?」

 どこだろうか、声は少し遠かった。キョロキョロと周囲を見回すと、雨霞の向こう、交差点の対岸の人ごみの上で、傘に混ざって鉢植えを掲げる手が目に留まった。

「遅いよ!」

 声は厳しくしたつもりだったが、顔が緩むのを止めることが出来ない。あの花には見覚えがある。(やっと咲いたんだ)……グラウンド脇の花壇の前で、嬉々として花の説明を始めた彼の姿を、私は思い出していた。

 ――彼は、わたしのために摘んできてくれたのだ。忘れな草の鉢植えに何の責任もない。咲き誇る青い花を見て『青は進め』なんて思ってしまったわけじゃない。赤信号なのだとすっかり忘れて飛び出した自分が全面的に悪かったんだ。

「危ない!」

 誰かの叫び声に我に返った。

 急ブレーキの音がする。

 水しぶきの塊が、右からこちらに向けて突っ込んでくるのが見えた。

 耳障りなクラクションの音が鳴り響く。

 その瞬間、誰かが正面から思い切り体当たりしてきて、私は仰向けに転がった。ぶつかったお腹と、したたかに打ちつけた背中と後頭部に痛みを感じた。その直後、何かがひしゃげるような大きな音を聞いた。

 ……何が起きた?

 混濁した意識の中、耳の奥で鳴るキーンという嫌な音が私を現実に呼び戻した。同時に、冷たさ、寒さ、そして全身の痛みが戻ってきて、私は低く呻いた。

 どこかで誰かが叫んでいる。女の人の悲鳴、男の人の『よせ、動かすな!』なんて怒声。

 全身がぐっしょり濡れていた。わたしは土砂降りの雨の中、濡れた路上に転がっている自分に気が付いた。

 どれくらい横たわっていたのか分らない。救急車のサイレンが遠くから近づいてきた。

 身体を起そうとして、急に走った激痛に左手を押さえて小さな悲鳴を上げてしまう。倒れたときに身をかばって変な風に手をついてしまったのか。再度路上に転がった。

 転がったまま、痛む左手に視線をやる。と、目にも鮮やかな赤に染まっていた。左手だけじゃない。左腕も、肩も。赤を通り越してどす黒く染まっていた。どうやら、左半身を下敷きに、横向きに倒れていたようだ。

 ふと気が付いた。

 ぼんやりした視点が、左手の向こう側で焦点を合わせると、アスファルトにうつぶせになった誰かの頭が見えた。

 視界に入ってきたそれは、私の左手以上にに真っ赤だった。

 土砂降りの雨でも洗いきれない大量の血が、毛髪を真っ赤に染めていた。

 ソレは、震える手で視線の先を指差した。そこには砕けて路上に散乱した青い花が転がっていた。

「僕を、忘れないで……」

 消え入りそうな声で、彼は呟いた。



「忘れるなんて許さないから。無かった事になんてさせない」

 いつの間にか横にいた、ずぶ濡れで血まみれの彼女、いや私は、何度も何度も同じセリフを繰り返していた。

 私は、彼女を抱きしめた。

「ごめん、もう忘れないよ。アイツの事も、あなたの事も」

 自分の無責任さを呪った。彼の死を認めるのを、私は拒んだ。

 彼が死んだのは、全部自分のせいだから。

 そんなのを認めてしまったら、悲みのあまり私の心は壊れてしまう。

 だから、逃げた。

 彼の死も、彼の存在すらも、そして彼を死に追いやった自分も、全部忘れてしまう事で。

 でも、もう逃げない。

 好きだったって思い出さえも消し去ってしまう、そんな事は許さない。私自身が許さない。

「……それなら、いいよ」

 彼女は私を一度ギュッと強く抱きしめると、そのまま消えた。

 駅前の景色全てが、ゆっくりと色褪せていく。

 私が思い出してしまったことで、「忘れられた記憶の世界」に存在できなくなったんだな。

 私はそんな事をぼんやり考えていた。

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