第13話 忘れるなんて、許さない
「そろそろ帰りませんか。雨も降ってきそうですし」
彼の言葉にふと空を見上げると、いつの間にか西の方からネズミ色の雲が流れてきていた。
ゲリラ豪雨の元になりそうな、濃い灰色をしている。
ベンチ脇の柱に設置された時計は、午後四時を回ったところだった。結構、時間が経つのも早いものだな。
「送りますよ」
「あんたはこれからどうするの?家に帰る?」
「いいえ、学校に戻ります」
「それじゃ方向が全然違うし、ここでお開きでいいよ。私の家、まっすぐ駅を突っ切った方が近いから」
「そうですか……」
彼は珍しく表情を曇らせる。
「大丈夫だって。人がいない世界なんでしょ?むしろ危険は少ないって」
だが、彼の表情は暗い。しばらく押し黙っていたが、
「……では、駅前は通らないで下さい。少々遠回りかもしれませんが、別の通りを使ってください」
「何かあるの?」
「あんまり気味の良いものでないことは確かです」
彼は口ごもる。
「曖昧にされちゃうと、余計に気になるでしょ」
彼は自身の赤毛を摘まんで、ちょっと考えていた風だったが、
「この世界は、忘れられた記憶の世界だと言いましたよね」
重々しく口を開く。
「それは聞いたけど」
「忘れられた記憶は、旧校舎や花壇や遊園地みたいな、無害で綺麗な思い出ばかりじゃないんですよ。ネガティブで『ようやく忘れられた』って類の記憶だって少なくないんです」
「何があるのよ」
「……言えません。でも、お願いですから好奇心に負けないで下さい。絶対に後悔します。忘れたかった記憶なんて、避けられるのなら避けるべきです」
「わ、分ったわよ」
結局気迫に負けて、私は頷いてしまった。
私は誰もいない大通りを、駅の方面に向けて歩く。彼は途中までのエスコートを申し出たが、私は丁重にお断りした。
少しだけ、考えたいことがあったからだ。
現実では再開発地区として更地にまばらな建物が建っているような臨港地区も、この世界ではまだ古ぼけた港湾施設が残っていて、なんだか生活感のような物が漂っていた。
再開発することで、強制的に忘れられた存在に成り果てた建物たち。それは、なんだか物悲しい。まるで世界から無理矢理消されたみたいで。
―――彼の笑顔が頭をよぎる。
彼がこの世界にいるというのは、つまり現実の世界から忘れられた存在だって事だ。
誰に忘れられた?
なぜ忘れられた?
臨港地区の建物と同様に、強制的に世界から消されたから?
それって、つまり―――死。
考えれば考えるほど、恐ろしい想像があふれ出て止まらない。一介の中学生である私が、あまり踏み込んではいけない領域なのではないか?
ふいに、考え込んでいたわたしの顔に水滴が当たった。
足を止めて空を見上げると、西から来ていた雨雲が、頭上に覆いかぶさっていた。
今にも泣き出しそうに、真っ黒な空だった。
気温が急激に下がっているのに今更気づき、私は身体を震わせた。
折り畳み傘でも持ってくればよかった。
参ったな、急がないと。
改めて、駅に向けて歩き出そうとする。
と、
<ぺたり ぺたり>
背後から、何かの音が聞こえた。
この静寂に包まれた世界で、音を出すものなんて自分か赤毛君くらいのもの。
私はなんの疑問も持たず、振り返った。
<ぺたり ぺたり>
振り向く前に、濡れた裸足の足音で異常に気が付くべきだったのだ。
そこにいたのは赤毛君ではなかった。
十メートルほど後にいたのは、長髪の少女だった。
頭から足の先まで全身ズブ濡れで、長い髪が前に垂れて顔を覆い隠している。
水を吸いすぎて変色しているが、かろうじて私と同じ学校の制服を着ているのが分った。
いや、そんな事はどうでも良かった。
私の視線は、少女の左半身に吸い寄せられて離せなかった。
身体の左側だけ一層濃くどす黒く変色していた。どう見ても水ではない。
<ぺたり ぺたり>
彼女はゆっくりと近づいてくる。私は、意識せずに後ずさりしていた。彼女の左手指先から滴る液体は、真っ赤だった。左半身を汚していたのが大量の血液だと気づくのに、さほど時間はかからなかった。
大粒の雨滴が落ちはじめ、あたりに土の濡れたような匂いが漂い始めていたが、それでも隠し切れない錆びた鉄のような臭気が、私の鼻を刺激した。
彼女が近づくに連れて濃くなっていく。むせ返るくらいに。
強烈な、血の匂いが。
気が付くと、私は走り出していた。
どこをどう走っているのか、自分でもよく分からない。
都市計画や老朽化した建物の建替えでかなり変わってしまった町並みを、子供の頃にときどき通った程度のあいまいな記憶を頼りに走り続けていた。
バス通りから裏道に入り、役所の並ぶ通りを抜けて繁華街に入る。降り始めた雨はすでに土砂降りとなっていて、服に染み込んで私の体温を奪っていく。
しかし今は寒さなんてどうでもいい。逃げなくては。
<ぺたり ぺたり>
飛び込もうとした細い路地裏に、血塗れの少女が立っていた。
「ヒッ!」
私の喉奥から空気の漏れるような音がした。
腰を抜かしている暇は無い。私はもと来た道をUターンして、全力で走り出した。
血塗れの少女は、よろよろとした足取りのはずなのに、私の行く手に先回りして現われる。
(幽霊……?)
私は頭を振って否定した。否定したかった。
この世界には誰もいない、赤毛の彼はそう言った。
では、あれは誰だ?
私を執拗に追い回す、彼女は。
……考えても仕方ない。今は逃げるだけだ。
でも、どこに?
ふいに眼前が開けた。繁華街の裏道を抜けると、大きな交差点の前に出た。
見覚えのあるスクランブル交差点。ここは―――
駅前だ!彼が行くなと言っていたのに。
………なぜ彼が駅前に行くなと言ったのか、一瞬で理解した。
スクランブル交差点の真ん中には、血の海が広がっていた。
土砂降りの雨に薄められてなお、鮮明に道路を染め上げるおびただしい量の出血。
脇にはボンネットを派手にひしゃげさせた乗用車が停車している。血の海にはボロボロの「何か」が、強い雨に打たれながら、無残に横たわっていた。
……頭が痛い。目の奥で白い光が強烈に明滅を繰り返す。下半身の力が抜け、私はその場にへたり込んだ。立てなかった。
「………い」
声が、聞こえた。
後方の、薄暗い路地裏から。
血塗れの彼女が、よろよろと私に近づいてくる。顔に張り付いた前髪が乱れ、間から口元が覗いた。
口はわずかに開かれていて、ゆっくりと、同じ動きを繰り返す。
「………ゆ……さな…」
かすかな声が聞こえた。
「…す……なんて………い」
喉の奥からしぼり出すような声が、確かに聞こえた。何度も何度も、同じ言葉を繰り返す。
そして、私の目の前に立った彼女は、全身を震わせて絶叫した。
「……忘れるなんて、許さない!」
その瞬間、雷鳴が轟き、辺りを一瞬だけ真っ白に照らした。
彼女の顔がはっきりと見えた。
……私の顔だった。
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