第9話 あなたも、誰かに思い出される日を待ってるの?
「昨日は本当に助かったよ」
「どういたしまして」
彼は紙コップの紅茶をすすりながら、静かに微笑んだ。
熱気さえ感じられた日中から十分すぎるほど日が傾いて、風通しの良い中庭は少し冷えすぎるくらい。そのおかげで暖かい紅茶が引き立つってものだけど。
赤毛君と落ち合ったのは旧校舎の教室だったが、花壇の忘れな草を間近で見てみたくなって場所を変えた。
実際の中庭では噴水がある場所に、こっちの世界では小さな青い花が咲き乱れる花壇とベンチがある。私と赤毛君は並んでベンチに腰掛けた。
放課後の、部活の掛け声や吹奏楽部の気の抜けた演奏とは無縁。物音ひとつない静寂に包まれて、この瞬間の紅茶をただ味わう。美味しい。
「いい葉ですね、おかわりいいですか」
「もちろん。報酬だと思ってじゃんじゃん飲んでよ」
私は浮かれ調子で紙コップに紅茶を注ぐ。赤毛君のおかげで小テストの結果はみごと満点、せめてものお礼にとお茶と紙コップを家から持参したのだ。
注がれた茶の香気を目を閉じて楽しむ彼の姿に、私は満足する。持ってきた甲斐があったというものだ。
「魔法瓶でこんなに美味しいなら、入れたてはさぞや美味しいんでしょうね」
「お母さんがね、こういうの好きだから。私も自然とこだわるようになっちゃって。母曰く『特別な時に飲む特別な葉』ってのをくすねてきた」
「バレたら怒られませんか」
「全然大丈夫。整理整頓が苦手な人だから、仕舞い込んだまま忘れられてる可能性大だし」
「つまり、こっちの世界に来るべくして来た葉ですね」
「そういう事」
私が悪びれずに胸を張るものだから、赤毛君は苦笑いしながら頭をかいた。
彼の仕草と自分の勘違いがなんだかおかしくて、私は思わず吹き出した。
二人でもう一杯ずつ紅茶を飲み干すと、ベンチを離れて花壇の前に立った。忘れな草は図書室で見た鉢植えの時よりも生き生きとして葉を広げ、たくさんの小さな花をつけている。
「地味だけど、元気いっぱいに咲いていて良いね」
「……地味、ですか」
ちょっと傷ついたらしい。
「そうだね、私なんか花にあんまり興味ないから、道端に咲いてたら雑草だと思ってスルーしちゃうかも」
「こういう自然な花の美しさって、僕は良いと思うんですけどねぇ」
「うん、キミがそう教えてくれたから、私も好きになったよ」
「それはよかった」
紙コップを傾けて、乾杯した。
「もっとたくさんの人が魅力に気づいていたら、この花たちはここに来なかったかもしれないのにね」
「仕方ないですよ。人はすぐに忘れる生き物ですから」
「寂しい話だね」
「いいえ。今は忘れられても、こっちの世界にとどまり続ける。いつか思い出される日のために。だから寂しくはないんですよ」
「……あなたも、誰かに思い出される日を待ってるの?」
私の問いに、彼はカップを口に運ぼうとした手を止める。
「うーん、多分……そうなんじゃないかなぁ」
「自分でもよく分かってないんじゃない」
「昨日も言いましたけど、この世界が忘れられた思い出で出来ている、っていうのは、あくまで仮説なんですよ。何しろ教えてくれる人もいませんから」
そういえば。素朴な疑問。
「この世界って、あなたの他に誰もいないの?」
「さぁ?少なくとも会ったことはありません。あなた以外」
「もしかしたら、すべてを知っている人がどこかにいたりして。探した事は?」
「思いもしませんでした。言われてみれば、そうですね、どこかにいるのかも」
「じゃあ調べてみようよ。テストのお礼に、少しくらいなら付き合うからさ」
彼は少しだけ考えると、
「じゃあお願いしようかな」
ニッコリと微笑んだ。
「どこか心当たりの場所とか無いの?」
「ちょっと行ってみたい場所ならあります」
「いいよ。どこ?」
「臨港ドリームパーク」
私は息を呑む。
ついこの前も夢に見た、子供の頃に結局行けなかった遊園地の名前を聞いたから。
「……こっちの世界には、あるの?」
「ええ。少し遠いですが」
「行く!行くよ!」
即答した。私でなくとも即答しただろう。普通だったらありえない状況だ。こんな形で子供のころの夢を叶えられるなんて。
「そうですか、良かった」
彼も賛成が得られてホッとしたようだった。
「でも、なんてドリームパーク?」
「なんだか、心惹かれるんですよ。理由はわかりません」
「一人ででも行けばよかったのに」
彼は肩をすくめた。
「男一人で遊園地ですか……ぞっとしませんね」
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