第7話 使いこなせたら、無敵の能力だよ?

 忘れな草。中国名勿忘草、学名ミオソチス・シルヴァティカ。

 ……ミオソチス・シルヴァティカ、ミオソチス・シルヴァティカ……

 まるで魔法の呪文みたいで、変な響き。

 二時限目の休み時間、ひとりごちながら、わたしは図書室で借りた図鑑のページをめくる。

 忘れな草は、ヨーロッパ・アジア原産の一年草、花時期は三月から五月。

 花言葉は『私を忘れないで』『真実の愛』……へぇ、二個あるんだ。

 そして由来。『若き騎士ローランは美しい許婚のベルタと共にドナウ川のほとりを~』

 ……夢の中の彼が言った通りだ。これはいったい、どういう事なのか。

「んー、きっと元々知ってたんだけど、脳味噌の奥底に沈めちゃってたんじゃないかな。で、忘れられたくない記憶が夢の中でコンタクトしてきたんだよ。そういう現象あるってテレビで見たし」

 隣席の彼女はごく当たり前のような、何の感慨もない口調でそう言った。

「そうかな……でも子供の頃から花とかあんまり興味が無かったんだけど」

「大好きだった事を忘れちゃうなんてよくあるって。わたしだって、幼稚園の頃に描いた『しょうらいのゆめ』って絵を見ても、全然覚えてなくてピンとこないもん。『これ本当に私が描いたの?』って親に聞いちゃったし」

 昨夜見た夢を思い出す。そういえば私も遊園地の存在なんか完全に忘れていた。

「忘れるなんてよくある事、か。そうなのかな」

「違う、違うぞ二人とも。それは並行世界に呼ばれてるんだ」

 ふいに違う方向から声が飛んできた。

 そこには単髪で日焼けして筋肉質の、いかにもなスポーツ少年の姿があった。

「…お呼びじゃないわよ、新クラス委員長」

 隣席の彼女は心底嫌そうな表情でシッシッと手を振った。

「なりたくてなったワケじゃねーよ…」

 今朝のホームルームで教師からクラス委員に任命された彼は、しょんぼりと肩を落とす。

「並行世界に呼ばれる、ってどういう事?」

 私は聞きなれない単語を、思わず聞き返していた。

「この世界の裏とか隣とか別の次元とかには少しずつ異なる並行世界が無限にあって、そこには別の生き方、別の体験をした自分がいて……でもって、夢って形をとって接触してくるんだ」

「何のために?」

「さあ?まだ序盤だから理由までは知らん……痛ぇ!」

 間髪いれず隣席の彼女の鋭いチョップがスポーツ少年の額を打ち抜いた。

「この馬鹿!それって今進めてるゲームの話でしょうが!」

「加減しろ馬鹿!これ以上馬鹿になったらどうすんだ!」

「これ以上馬鹿になりようがないでしょ!というか、いつの間にか話の輪に加わってんじゃないわよ」

「お、俺はクラス委員としてクラスメイトに助言をだな」

「なりたくないとか言いながら、委員長やる気マンマンじゃない、馬鹿のクセに」

「任せられたからには手を抜くわけにもいかねーだろうが!それによぉ…」

 スポーツ少年は言葉を区切って私をチラッと見る。と、「…な?分かるだろ?」

 隣席の彼女に同意を求めた。

「ん…ああ、そういう事ね。ハイハイ、悪かったよ、好きにしなよ」

 彼女は彼女で意を察したとばかりにあっさりと謝罪した。

 なんなんだ、この空気は。私、何かした?

「しかし、夢の中で並行世界人と交流できるなんてマジ凄い能力だなー」

「並行世界はもういいっての…でも、夢の中から忘れた記憶を取り出せるってすごいよ。わたし、そんな体験一回もないし」

「そんな大げさな。ただの偶然でしょ、たまたま続いただけで、きっとよくある事なんだよ」

「いやいや、よーく考えてごらんよ。今この時この瞬間を」

 彼女の顔は真剣そのものだった。

「え?二時間目の休み時間?」

「つまりね……ほら、しっかり見るの、隅から隅まで」

 言うなり、私の眼前に開かれた本が押し付けられる。

 なんだこれ。国語の教科書?

「いきなり、何」

「今こそその力を開放する時……よく考えてみなって。その能力。それってさ……使いこなせたら、無敵の能力だよ?」

「それには同意する。いらなかったら俺にくれないか。頼むよ」

 スポーツ少年も即フォロー。さっきまで口論してたかと思えば、今は二人で顔を見合わせてサムズアップしてる。

 実はすごく仲良しなんじゃないか、この二人。

「二人で分かり合ってないで。説明が欲しい」

「分かり合ってるわけじゃないよ断じて!これは、全人類の希望なんだよ。つまりね、テスト中にだよ?いま眺めた教科書の内容を、夢を経由して自由に思い出せるとしたら、どう?」

「違う違う、夢の中で並行世界人と接触して、教科書の内容を問いただせるとしたら、どうだ?」

「どうって…………あっ」

 人はすぐ忘れる生き物なんだって、改めて実感する。「……次の授業って、国語の小テストだっけ」

 二人は彼女は何度も頷いた。涙目で。

 私もきっと、涙目になっているだろう。

 昨晩の私のこんちくしょうめ。幼少期に行きたかった海際の遊園地なんかより、今日のテストの存在を夢に見ておいてくれないか。予習復習できたのに。綺麗さっぱり、いまこの瞬間まで完全に忘れていた。


 キーンコンカーンコーン


 もう遅い。タイミングよく休み時間終了のチャイムが鳴って、同時に仕事熱心な国語教師が教室に入ってきた。

「おーい、席に着け。ちゃんと復習してきたかー?」

 ほくそ笑むその表情が悪魔に見える。出題側は気楽で良いな。

「わたし達はもう諦めた。あんたが最後の希望よ」

「健闘を祈る。うまくいったら、異世界人とコンタクトするコツをじっくり教えてくれよな」

 二人ともさっきまでの明るさが消えて青い顔をしている。きっと傍から見たら私も同様の雰囲気を漂わせているだろう。

 前の座席から答案用紙が回ってきた。

 うん、チラッと見ただけで分る。

 ぜんぜん答えが分らないのが分る。

 ひとまず名前を書き込んでみた。

 さぁ、どうする。

 ……夢に助けを求めるか?

 ……

 ……馬鹿げてる。二人は結構本気だったようだが、私自身は疑ってる。

 どうせただの夢で、ただの偶然なんだろうって。

 『使いこなせたら、無敵の能力だよ?』

 その「能力」とやらを使うために、いまここで寝ろと?で、起きたらタイムアップか。そもそも都合よく教科書の内容を思い出したりできるのか。

 いや、それ以前に。分からない事があったら図書室で調べるかインターネットで検索すればいいだけの話だし。それこそテストのような、調べる事が禁止されてる限定的なシチュエーション以外での用途が少しも思い浮かばない。不確定かつ使いどころに困る、無敵どころかハイリスクローリターンな能力ではないか。

 忘れな草については上手くいったけど、それだけだ。

 今は、自分の力でなんとかするしかないんだ。

 名前を書いて、問1を読む。

 明治だか大正だかの詩人に関する問題。

 うん、なんとかならない事が、三十秒で分かった。

「……だいたい、『からたちの花』って何よ。咲いたからどうだってのよ。作者名なんて、どうでもいいよ……」

「『からたちの花』、良いですよねぇ、優しい詩で。北原白秋は神詩人ですよ本当に」

 すぐ後ろから声がした。テスト中の独り言はやめといた方が……先生に怒られるぞ。

 しかし一向に注意される気配が無い。独り言にしても、結構大きな声だったんだけど。しかも「ほうほう」とか「へぇーなるほど」などと感嘆の声をたびたび上げる。私の耳元で。

 ……あれ、近すぎないか?

 私はふと、テスト用紙から視線をもち上げてみた。

 ――強烈な既視感を覚えた。

 誰もいない。

 教室から、人の姿が消えていた。先生も、生徒達も。それに、見慣れた教室ではなかった。

 煤と埃で汚れて薄暗い蛍光灯と、傷だらけの黒板。カビくさい臭いが少し鼻についた。

 二時間目、騒々しい午前中の空気ではない、少し淀んだようなたそがれ時の日差しが室内に満ちて、けだるい時間が流れている。

 私は知ってる、この懐かしい場所。

「旧校舎……」

 ここは私が一年生の時に使っていた教室。そして見覚えのある机の落書き。

 間違いない、私の席だ。

 いや、そんな事、あるはず無い。私は何度も自分に言い聞かせる。

 旧校舎は去年取り壊されて、今年の春に新校舎が竣工したばかりなのだ。

 昨日の図書室と全く同じ現象がまた起きたのだと、ようやく理解した。

 ……昨日と同じって事は、つまり。

「『何が悲しくてダチョウを飼うのだ』……この問題を作った先生、マニアックだなぁ。高村光太郎と言ったら、知名度の高い『道程』とか『レモン哀歌』から出題しない?捻くれてるというか……こだわりなのかも?」

 耳元ではしゃいだような声がした。

 振り返った私の目に飛び込んできたのは、鮮やかな赤毛。

 「彼」が、私のテスト用紙を、興味津々で覗き込んでいた。

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