第3話

「……ひゃぉー」

車窓から流れていく風景に、月子さんは珍妙な感嘆の声を漏らした。

今二人は、新幹線に乗っている。電車すらほとんど乗ったことのない月子さんにとって、このスピードはとても刺激が強いようだ。

 僕らの目的地は、地方のとある道場。ネットではいい調子で点数を上げている月子さんだったが、やはり向かい合っての対局をこなしておく必要がある。駒をつかむこと、時計を押すこと、相手の様子をうかがうこと。対局には様々な技術が必要だ。

 とはいえ、奨励会受験前にあまり目立ちたくはなかった。ただでさえ内気な子なので、注目されてしまうのはよくないと思う。それに僕が師匠であることや、東京に単身出てきていることなどは、できるだけ長く隠しておきたいのだ。

 新幹線を降り、バスに乗る。二十分ほど揺られて、海の近くの停留所で降りた。風が穏やかに吹きつけてくる。

「久しぶりに海を見ました」

 月子さんは、しばらく立ち止まって風景を眺めていた。彼女には、ゆっくりとできる瞬間は少ない。

「行こう」

「はい」

 そこから歩いて約五分。白い壁に青い瓦、目的の将棋道場に到着した。中に入ると、すでにおじさんたちでいっぱいだった。足の長い分厚い盤を使って、10秒将棋などを楽しんでいる。

「お久しぶり」

「おおっ、幸典。本当に久しぶりだなあ」

 玄関から入ってすぐ、右手の机の前で手を振る男性。長い顎に大きな眼鼻で、一度見たらなかなか忘れられない顔だ。

「すごい人だね」

「まあ、これでも減ったよ。爺さんの頃は入りきれないぐらいだったらしい」

「へー。あ、恒義つねよし、この子が金本月子さん。今日のトーナメントに参加するから」

「あ、あの、よろしくお願いします」

「おー、若いねえ。俺は北森恒義。まあ一応ここの責任者。おっさんたちが失礼なこと言ったら追い出してやるから、伝えてね」

「は、はい」

 恒義は不細工な顔を出来るだけ朗らかにして笑いかけていた。しかし月子さんは、人の多さに圧倒されてしまっているようだ。愛想笑いすらできずに、きょろきょろと視線をさまよわせている。

「Aクラスでいいの」

「いいと思うけどね」

「幸典も出たら。優勝逃して恥かいてよ」

「やだよ」

 僕らの会話を聞いてか、何人かがこちらに近寄ってきた。

「あの……三東先生ですか?」

「あ、はい」

「いやあ、本物のプロの先生が来られるなんて」

「……伊藤さん、どーゆー意味ですか」

「ああ、これは失礼」

 恒義は本気で怒っているわけではなく、苦笑いを浮かべながらトーナメント表を準備し始めた。

「みんな、俺のこと偽物だと思ってんだよなあ。まあ、仕方ないか」

 僕はどういう言葉を返せばいいかわからず、曖昧にうなずいた。

 恒義は奨励会の同期で、僕が唯一気兼ねなく話ができる将棋関係者だった。彼は勝負師らしい厳しさや破天荒さといったものとは無縁で、普通っぽいということで将棋の世界では浮いていた。それでもかなり強く、僕が3級のときには初段になっていた。その頃の僕は色々な自信をなくし、恒義は四段になれるだろうけど、自分は違う、そう思った。けれども、実際は逆になった。先に三段リーグに入った恒義は、僕がそこにたどり着く前に奨励会を辞めてしまった。「こんなとこでもたもたしてるようじゃ、タイトルは獲れない」と言って、恒義は故郷に戻り、祖父の道場を継いだのだ。

「今でも幸典よりは強いと思うんだけどなあ」

「失礼な」

 それは、本当かもしれないのだ。タイトル云々は別にして、恒義は三段リーグを抜ければ強い方のプロになれる素質があった。退会後も将棋に関わっていたことを考えれば、僕より強いなんてことは十分にあり得る話だ。

「もしよかったらさ、指導対局とかしてくれよ。金本さんの分ただにするからさ」

「入場料600円だろ。俺の指導、どんだけ安いんだよ」

 そうは言っても、最初からそのつもりだった。普及も大事なプロも役目だし、なにより他にすることがない。

「えー、本日は三東四段が指導対局をしてくれるので、負けても損しません」

 しばらくして、トーナメントが始まった。この道場では休日に将棋大会を開いており、今日はA・B級に分かれたトーナメント戦が行われる。各クラスで優勝すると、海の幸がもらえる。

 月子さんはおどおどしていたが、名前を呼ばれ盤の前に座ると、少し落ち着いたようだった。

 B級でシードが一つできたので、空き番の人を二枚落ちで指導することになった。月子さんのことは気になるが、放っておくのも本人のためというものだ。

 しばらくすると月子さんの対戦相手から「あちゃー」という悲鳴が上がった。今まで何度も見てきたが、幼い子供、女の子などに負けるとおじさんは照れ隠しに声を出すようだ。

 恒義がトーナメント表に結果を書き込む。二十分もかからず、月子さんは準決勝進出を決めた。

 負けた人たちがぞろぞろとこちらにやってくる。世の中には百面指しをこなす先生もいるが、僕は選べる時は三面指しまでと決めている。勝たせることを大事だという考え方もあるが、勝ったことが過信になってしまう人も多いので、できるだけためになるように負かしてあげたいのだ。見せ場を作りながら一手差で勝つ、この技術はプロ特有のものである。

 一時間ほどすると今度は、「おお」という声が湧きあがった。月子さんの対局相手が頭を下げているのが見えた。またまた勝ったようだ。

「強いね、あの子」

 僕の傍らまで来て、恒義は唸っている。

「プロを目指すんだ。勝ってもらわなきゃ」

「……まさか、お前が師匠なのか」

「そうなりそうだ」

「そっか。お前が弟子を持つのか。なんか、本当にプロになったんだな」

 恒義は、僕の肩をポンポンと叩いた。その顔は、少し寂しそうだった。僕も、少し切なくなった。

 月子さんの方は、対戦相手が決まるのをじっと待っていた。もう一つの対局を見るでもなく、瞑想するでもなく。ひょっとしたら、貧乏な生活の中でうまく「何もしない」ことを身につけたのかもしれない。プロになると、それは大事だ。長い持ち時間、ずっと考え続けることなどできない。いかに疲れないように時間を浪費するか、それも技術の内である。本当に強い人はどれだけでも考え続けることができているのかもしれないが、なったことがないのでわからない。

「あー、やっぱ飯原いいばらさんか」

「こりゃ見ものだ」

 もう一つの準決勝も終わったようだ。そして、その結果は予想通りだった。勝った飯原さんは、正真正銘のアマ六段、何回も県代表になったことのある強豪だ。全体的にバランスのいい将棋で、無理をしない勝ち方が多い。実はアマ時代、一度対戦して負けている。

 指導対局もだいたい一周し、皆の関心も決勝戦へと移っていった。道場一のベテランと、突然現れた少女の決戦は、確かに興味をそそられるものだろう。僕も、決勝戦は観戦することにした。

 持ち時間は20分、切れたら一手30秒の秒読み。時間に関してはネット対局の成果が試されるところだ。そして、ここからが本番とも言える。これまでの相手は普通にやれば勝てる実力だった。しかし、飯原さんは別だ。基本ができているうえに、これまでの経験値が半端ではない。注目される中、月子さんはどれぐらい実力を出し切れるだろうか。

 飯原さんが駒を振り、先手になった。

「ではお願いします」

「……よろしくお願いします」

 二人が挨拶して、対局が始まった。すらすらと相矢倉に組みあがっていった。矢倉は将棋の純文学とも言われる、最も基本的な戦法の一つだ。守りは金銀三枚、攻めは飛車角銀桂という格言にもぴったり当てはまる。

 少しやばいかな、とも思った。矢倉は指す人も多いだけに、研究も随分と進んでいる。小川名人の時代からは、かなり進歩しているのだ。

 二人とも小刻みに時間を使い、知識を確認しながら指しているようだ。組みあがるまでは、問題がない。仕掛けてからが、どうなるかだ。もしくは、仕掛けなかったときに。

 飯原さんは、右手を顎に当てて次の手を考え始めた。そして、二分ほどして右手は左端に伸びた。9八香。穴熊に囲い、さらに自玉を固くしようという作戦だ。最近になって現れた指し方で、後手が飛車先の歩を突いているときにはこうなることが多い。

 月子さんの額に、縦の皺が刻まれる。予想していなかったのだろう。瞼を閉じ、頭の中の盤で考えているようだ。後手は右の銀も守りに使っており、右の桂馬はすぐには跳ねられない。仕掛ける手はないが、相手は攻めてこない。このような時に、損にならない手を指すテクニックもプロになるには必要だ。もちろんちゃんと最新の情報を入手していれば、ただそれをなぞるだけでもう少し先まで行けるのだが。

 時間がどんどん過ぎて行き、ついに秒読みに突入した。十秒過ぎ、二十秒過ぎ。そして、時間ぎりぎりで角が一つ、右斜め上に動かされた。6四角。月子さんは、自力で定跡の一手にたどり着いた。

 飯原さんはさほど時間をかけず6五歩。月子さんは7三角。相手に歩を突かせただけのようだが、争点を作るための高等戦術だ。この短い時間の中でこの手順にたどり着いたというのは、相当のセンスを感じる。

 ただし、中盤で定跡通りに進んだからと言って、有利になるわけではない。穴熊に囲った先手は総攻撃を仕掛けてくる。後手はそれをぎりぎり何とか受け続けなければならないのだ。後手の勝ち方は三つ、完全に受け切って先手の攻めを切らせるか、もらった駒で一気に反撃するか、もしくはするすると玉が相手陣に入っていくかだ。

 月子さんは、そのどれを選ぶのかが定まっていない様子だった。ある手には受け、ある手には手抜き、ある手には逃げ。一つ一つはそれほど悪い手ではないが、一貫性はない。そしてベテランは、そんな相手の様子を見逃してくれない。

 ゆっくりと放たれた、2五桂馬の王手。相手の歩の頭であり、どう見てもタダだ。しかしそれを取ると、同銀で全軍躍動、とても受け切ることはできない。かといって逃げると、上からじわじわと押しつぶされて駄目だろう。先手は穴熊、王手がかからない。つまりそれは、攻めれば必ず駒を渡すことを意味する。これ以上相手に駒を渡せば、確実に攻め切られる。

 月子さんの瞳から、少し光が失われたように見える。そして、力なく歩で桂馬を取った。相手が間違えるのをひたすら待つ、辛い指し方だ。そして、矢倉に慣れている飯原さんは、もう間違えない。20手ほど続いたが、逆転の筋はなかった。

「負けました」

 月子さんが頭を下げ、髪の毛が盤に覆いかぶさった。今度からは後ろで結ばせた方がいいかな、そんなことを思った。月子さんが負けたことについては特に何も感じなかった。結果は、僕の予想通りだったのだ。

 たっぷりと感想戦をして、そのあとに月子さんは小さな準優勝の賞状をもらった。日帰りの旅なので、そこでお暇することになった。

「今日はありがとう」

「いやいやこちらこそ。またいつでも来いよ」

 帰り道、何度振り返っても恒義は手を振っていた。月子さんはうつむいたままだった。

「どうだった」

「……強かった……です」

「そうだろう。でも、プロになるためのライバルはあの人より強いぞ」

「……まだまだ、先なんですね……」

「まだまだ、伸びる年齢だ。月子さん、君は僕が15歳の時より強いよ。ただ、色々なことを知らないだけなんだ」

「……頑張ります。もっと強くなれるように……」

 新幹線に乗ると月子さんは、電池が切れたかのようにぐっすりと寝始めた。人と指すこと以前に、人に囲まれることに疲れてしまったようだ。プロになるためには、将棋以外にも本当にいろいろと乗り越えなければならないことがあるのだ。



 遠征の日以来、月子さんは自主的に最近の棋譜を並べるようになった。ネット上にあるものや、僕がコピーしてきたもの、そして年鑑に載っているもの。気になった棋譜はノートに書き写し、詳細にコメントを付けている。さらに僕の持っていた定跡書や詰め将棋の本も積極的に読むようになった。どうやら、将棋の楽しさと同時に、悔しさも本格的に感じ始めているようだった。

 一方の僕は、前半であまりにも負けが込んだために、順位戦以外の対局がほとんどないという状況に陥っていた。一ヶ月に二回、会館での将棋教室の講師の仕事があるので、ほぼ月に三日働いているという状況だ。相変わらず時折、対局があると嘘をついて家を出ていく。最近では暇つぶしにいいスポットをたくさん見つけるという、なんとも情けない有様である。

 月子さんが日に日に強くなっていく姿を見て、僕も頑張らなければ、とは思うのだ。けれども、一歩を踏み出しても、いつも同じところに戻ってきてしまう。いっぱい研究して、将棋も指して、気合を入れて対局に臨んでも、いつも通りの負かされ方をして帰ってくる。そして、こんな感じでも生きていけるじゃないか、と思ってしまう。たとえ勝率三割台でも、降級点を取らないようにして、順位戦で生き残っていればプロでいられる。贅沢はできないけど、今だって弟子と一緒に生活していけるぐらいの収入はある。

 僕は、タイトルを獲りたいとか、A級に上がりたいとか、そういう具体的な目標を持ったことがなかった。ただ自分がプロになれることを、証明したかった。子供心にそう思って出発してしまったら、それしか選べない大人になっていた。

 僕が手に入れたものはなんだったんだろう、と思う。プロになれない人もいるから、プロであることはきっと誇ってもいいことなんだろう。けれども、子供の僕が望んでいたほど大きな充実感は、全く得ることができなかった。それどころか、唯一僕が手に入れたすばらしいものは、プロになった後に失ってしまった。

 月子さんがもしプロになれたとしても、同じような思いをするかもしれない。弱いプロでは、借金を返すことはできないだろうから。プロを目指す子に対する本当の優しさは、プロになんてなるなって言ってあげることかもしれない。

「やった!」

 僕のぐだぐだした思考を強制的に遮断するかのように、月子さんがいつになく元気な声で叫んだ。

「どうしたの」

「ついに、2400点です!」

 僕はテーブルを半周して、月子さんの後ろからパソコンの画面を覗き込んだ。確かに、TomatoMamaの点数は2403点になっていた。

「おめでとう」

「……先生」

 月子さんは炬燵から出て、僕の方を向いて正座をした。そして、深々と頭を下げた。

「私を、正式に弟子にしてください」

「ああ、約束だからね」

「……ありがとうございます……早く強くなって、先生に借りたお金もお返しします」

「待ってるよ」

 月子さんの瞳から、小さなしずくがこぼれ落ちていた。ただ、すぐに瞳は元の色に戻り、しっかりと僕の目を見据えていた。考えてみると僕は、そういう涙を流したことがなかった。




「幸典」

 突然声を掛けられて、僕は足を止めた。それは、聞き覚えのある声だった。

「あ……朱里しゅり……」

 僕は、完全に気を抜いていた。なにせ、このホームセンターは僕の暇つぶしスポットのひとつなのだ。とくに何を買うわけでもないが、お金をあればこれ買えるなー、と考えながら見て回るのが楽しい。そんな癒しの時間がまさか、こんな形で乱されるなんて。

「久しぶり。びっくりした?」

「あ、ああ。まだ東京にいたんだ」

「帰っても仕事ないしね。こっちの方が楽しいし」

「……ここで働いてるの」

「うん。先週から」

 目の前にいるちっちゃくて愛らしい顔の女性は、僕の高校の同級生であり、元恋人でもある工藤朱里だった。ずっと僕のことを応援してくれ、東京に一緒に出てきてくれて、そして愛想を尽かして去って行った。

「調子はどう? 相変わらず負けてる?」

「……ああ。急に強くはならないよ」

「また言い訳。変わんないなあ」

 早く逃げ出してしまいたかった。朱里には嘘をついても無駄だから、本当のことを言うしかない。本当のことを言うのは、辛い。

「頑張ってるよ。結果が出ないんだ」

「そう。でもなんか、前よりはいい顔つきしてるかも。まあ、応援してるよ。じゃ、仕事あるから」

「ああ、じゃあ」

 後ろ姿の朱里を見ながら、ほっとすると同時に悲しくもなった。こんなに近くにいたのに、僕は何も知らなかった。彼女は何も知らせてくれなかった。僕らは、友達に戻ることすらできなかったのだ。

 彼女は、前向きな僕が好きだった。どんなに周りから評価されていなくても、朱里だけは僕を信じてくれた。けれども僕は、プロになることで歩みを止めてしまった。僕にとっては、そこがゴールだった。朱里にとっては、それが許せなかった。

 ほんの少しの時間だったけれど、彼女は今でも素敵だった。最初から僕になんか釣り合わない人だったのだ。

 気が付くと、強く拳を握りしめていた。やるせない気持ちが爆発して、気がつくとずっと欲しかったラックを購入してしまっていた。

 本当に駄目だ。

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