第2話
小川靖男全集を教師としているだけあって、月子さんの指し手は本格的だ。他の若い子には見られない、腰の入った受けが時折見られる。しかしまた、軽いさばきやとにかく固めるといった現代的な感覚は全く持っておらず、序盤から苦戦に陥ることも多い。……とまあ、これが何局もぶっ続けで指し続けて得た感想だった。
奨励会に入れるかと言うと、今のままでは無理、というのが率直な意見だ。
「もっと勉強しなければいけないね」
「はい」
「二か月で2400点。これが次の試験だ」
「2400……点?」
「ええっとね……」
パソコンを起動させ、インターネットにつなぐ。月子さんはそれすらとても興味深そうに眺めている。
「これをするんだよ。将棋道場365」
「これが……道場?」
ログインしただけでは、ただハンドルネームと数字が縦に並んでいるだけにしか見えないこのページは、まぎれもなく将棋道場だった。しかも年中無休(四年に一度だけ休みがある)、そして無料。
「そう。ここで名前を作って、世界中の人と指すんだ。勝つと点数が増えて、負けると減る。それで、2400になったら合格」
「よく……わからないです」
「まあ、見てて」
とりあえずレーティング対局室に入り、「早指待」に設定する。十秒後、小さいウィンドウが開き、「挑戦 katto-01」の文字。「承諾」ボタンを押すと、また新しく中くらいのウィンドウが開き、その中に将棋の盤駒、駒台のイラストが現れる。
「わあ」
「ここで将棋が指せるんだ。こっちが俺ね」
先手のpittapittaが僕。
「あの……先生、2920点……ですか?」
「そう。まあ、この辺はだいたいプロだろうね」
後手のkatto-01も2913点ある。誰かは知らないが、プロの誰かだろう。
挨拶をすませ、初手を指す。全てマウスだけで操作できる。
「こうやって対局するんだ。同じぐらいの点の人なら、15点ぐらい移動する。最高でも30点までしか移動しない。わかった?」
「何となくわかりました……ただ」
「ん?」
「その矢印は、どうして動いているんですか?」
「え? えーこれはね、このマウスを動かすと……」
「マウスってどれですか」
「……わかった。パソコン講座から始めよう」
「……すみません」
結局、一日目午前はパソコン講座に費やされてしまった。月子さんはパソコンを触るのも初めてで、キーボードやショートカットという言葉から教えなければならなかった。そしてその中でわかったのだが、月子さんは中学校にもあまり行っていなかったようだ。今ではだいたいの学校にパソコンがあり、授業で使い方を教えるものだ。しかし月子さんは、何も知らない。
「毎日どうしてたの」
「……私……」
「言いたくない?」
「……私、不登校だったんです。最初は午後になるときつくて……。だんだん午前から保健室に行くようになって、学校にも行かなくなって……。どうせ家にいるんなら、仕事を手伝えって言われて……」
「そっか」
月子さんはコミュニケーション自体が苦手そうだと思っていたが、その原因の一つが分かった気がした。元々苦手だったのだろうが、それを何とかしてやろうとした人がいなかったのだろう。ずっと家にいて、親の言いなりになって、他の人と関わらなかった。せっかく将棋が強いのに、全集ばかり読んでいた。
「強くなるには、人と関わる必要があるよ」
「……え」
「勝負は盤上だけじゃないんだ。手つきとか、指し手の早さとか、呟きとか、水分補給のペースとか。そういうことから色々読み取れるようになって、初めて勝負師になれるんだ」
「……私……そういうの苦手です」
「やるしかないよ」
偉そうに言っているが、僕も苦手だ。どちらかと言うと、うまいこと読み取られている方だろう。だからこそ、月子さんにはそれを乗り越えてほしい。
「まあ、そんなこと言ってネット将棋から始めるわけだけどね。最初は、いろんな将棋を経験することが大事。他のことは、まあ追々」
「はい」
昼食は二人で作った。何となくいつも通り朝食は抜いてしまったが、月子さんは何も言わなかったので、金本家も朝食はなかったのかもしれない。月子さんは米を研ぐのはうまかったが、包丁の使い方は危なっかしかった。野菜炒めと簡単なスープを食べた。
昨日は慌ただしかったので気が付かなかったが、この家でテーブルに向かい合ってご飯を食べるというのは本当に久しぶりだ。かつて目の前にいた人を思い出し、少し胸が痛くなる。
午後はいよいよ実戦である。パソコンにはまだ慣れていないようだが、とにかく今はネット道場にログインして、将棋を指すだけのことができればいいのだ。
「まずは名前を作らないと」
「……えーと」
「いや、あのね……」
月子さんはハンドルネームの欄に「Kanemoto Tsukiko」と打ちこんでいた。
「……何か問題が……」
「本名がまるわかりだとちょっと。奨励会に入ってからも使いたいし」
「そうなんですか」
「うーん、なんかこう、好きなものとか組み合わせてみて」
月子さんは首をひねって考えていたが、しばらくしてから「TomatoMama」と打ちこんだ。
「どういう意味?」
「……トマトとお母さんが好きだから」
「まあ、それでいいや」
とにかくハンドルネームを作り、レーティング対局室に入場することができた。最初は2000点から始めることにした。これはだいたいアマ四段くらいの点数と言われていて、今の月子さんならば過大申告ということはまずないだろう。
「えっと……ここからどうするんでしたっけ」
「持ち時間を選んで待つんだ。いっぱい指せるように、『早指待』にしよう」
「はい」
昼間は人が少ないので、すぐに挑戦者が現れるというわけではない。
「来ないね。こちらから挑戦しよう」
「どの人にすればいいんですか」
「だいたい前後百点以内の人と指すからね。その、UMAMANIAって人にしよう」
「はい」
月子さんが挑戦したのは、2078点の人だった。TomatoMamaが先手になり、挨拶を済ませ対局が始まる。
「あの……」
「どうしたの。助言はしないよ」
「盤が……変な感じです」
「……ん?」
最初、月子さんの言わんとしていることの意味がわからなかった。しかし、月子さんがデスクトップの角度を一所懸命調整しようとしているのを見て、納得した。
普通、将棋は見下ろして対局する。そのため、当たり前だが、相手陣になるほど遠く見える。しかしパソコンの画面は縦向きであるため、相手陣が上で自陣が下側になる。月子さんはその風景に戸惑っているようなのだ。
「これ……倒せませんか」
「残念ながらそういうわけには……慣れるしかないね。最近ではネットの公式棋戦とか指導対局もあるし、プロになるには必要なことだよ」
「……わかりました」
月子さんは下からのぞきこむようにして、何とか対局を続けた。将棋自体は相手の四間飛車に対して急戦がうまく決まり、問題なく勝ちそうだった。この戦法は、小川名人が得意としていたものだ。教科書が一つしかなかったのだから、当然小川流しか指せないのが当然かもしれない。
「あ」
月子さんの駒が完全に相手を抑え込んでいき、嫌になったのか中盤のうちに相手は投了した。終わりの「ありがとうございました」のあいさつを終え、すぐに相手は去って行った。
「うん、まあここらへんはすぐかな」
あきらかに実力が違う、という感じだった。それでなくてはプロなど目指せないというものだが。
「今ので14点だね。この調子で2400までだ」
「はい。頑張ります」
この後二局指したが、どちらも快勝だった。月子さんの点数は2046点まで上がった。
「まあ、もうちょっとしたら苦戦するようになるよ」
「……あの……」
「ん、どうした」
「この人たち、父より……」
「まあ、どうでもいいじゃないか」
2000点というのはアマではかなり強い方ではあるが、県代表クラスというわけではない。ほとんどの人は六段など持っていないだろう。
「君はお父さんよりはるかに強くなるんだろ」
「……はい」
金本のおじさんは、六段の実力などないのだ。四段も怪しい。月子さんにとって、それがわかってしまうのは悲しいことだろう。
しかし、現実を見なくてはいけない。
「将棋に関しては、上だけを見るんだ」
「……はい」
月子さんは、これから多くのものを見なくてはいけなくなる。汚いものも、無意味なものも。
ぎこちないながらも、二人の暮らしは確立されていった。
食事を作るのは当番制で、主に朝食が月子さん、それ以外が僕だ。以前はコンビニ弁当なども多かったが、食費節約のため自炊するようにした、というのは月子さんには内緒だ。
大変なのは着替えや風呂である。朝、七時の目覚ましで二人とも起きる。そして僕は風呂へ。その間に月子さんが着替え、僕もシャワーを浴びた後そのまま着替える。夜は月子さんがシャワーに行くと、僕は散歩に出かける。恋人でもない女の子がうちでシャワーを浴びている状況は、どうにも落ち着かないのだ。帰ってくると、月子さんは乾かした髪をツインテールに束ねている。
テレビはほとんどつけなくなったし、コンポもほとんどがオフのままだ。四六時中将棋の勉強というわけではないが、お互いに邪魔になることはしない、というのが暗黙の了解になっている気がする。
一週間もすると、この生活にも慣れてきた。少し楽しくなった気さえするのは、一人きりの生活に疲れていたのかもしれない。ただ、八日目の夜、食事をしながらついに月子さんは当然の疑問を口にした。
「あの……先生の対局っていつなんですか」
僕はしばらく、瞬きを繰り返した。自分にとっては当たり前のことになっているが、世間から見ればあまりにも休みが多いというのが実情だろう。負けている棋士は、ともすると一ヶ月以上対局がないのだ。
けれども僕は。
「……今回はちょっと間が空いてね。ちょうど明日、あるんだ」
しょうもない嘘をついてしまった。本当は来週までない。弱いプロであるということを知られたくないということもあったし、ただ単に見栄を張りたかっただけというのもある。
「そうなんですか。頑張ってください」
「ああ」
そんなわけで、次の日は朝から出かけなくてはならなくなってしまった。月子さんは精いっぱいの笑顔で、「いってらっしゃい」と言って僕を見送った。胸の真ん中あたりが、ずきずきと痛んだ。
普段からほとんど家にいるので、四年も住んでいるのに東京のことをあまり知らない。買い物もしないし、遊びに行くこともない。とりあえず足は駅に向いているが、全く行くあてがなかった。
気が付くと、一番慣れ親しんだ路線に乗り、いつもの駅で降りていた。ここまできたらもう、あそこに向かうしかない。僕らの職場、将棋会館に。
対局を装って出てきたので、本当の対局者たちがちょうど入っていくところだった。そういえば今日はC級1組の対局日だ。他にも二次予選や女流の対局などもあり、会館の中は息苦しいほどだった。
「あれ、三東君今日対局あったっけ」
「いや、勉強に」
「珍しいねえ」
プロになってから、対局も指導もないのに会館に来たのは初めてかもしれない。対局以外の仕事すら少ないので、多くの人が、僕がいることに驚いている。僕だって来るつもりなんかなかったのだ。とりあえず、控室に行く。
「おはようございます」
「おはようございま……三東君、どうしたの」
僕は勉強に来ないという都市伝説でもあるのか、観戦記者まで目を丸くしている。
「いや、ちょっと勉強しようかと。一度くらい、活躍したいですからね」
「そうかあ、じゃあ、いいコメント頼むよ。朝は控室が静かなことも多くてね」
たまに出入りはあるものの、対局がないプロは僕だけのようだった。こうなると僕の発言がネット解説に採用される確率が非常に高くなってしまう。
どうせ午前中はあまり指し手も進まない。ちょっとした雑談や戦型の解説などをして、十一時過ぎには控室を出た。なんとなく、昼食休憩になる前に控室を開けるのが礼儀と思ったからだ。
会館を出て、ぶらぶらと歩く。別に戻らなければならないこともないが、相変わらず行き先も思いつかない。ふと見上げると、高くそびえる緑色のネットがあった。いつの間にか、野球場横のゴルフ練習場まで来てしまったようだ。そういえば、ここのレストランでサンドウィッチを食べると強くなれると聞いたことがある。
ふらふらと、店に入っていった。普段そんなものは信じないのだが、今日はちょっとすがってみたい気分になった。
一人でいることが多いのに、一人で食べることが苦手だ。サンドウィッチが出てくるまでの間、ずっと意味もなく携帯を眺めていた。待ちうけになっている近所の猫が、こちらを睨んでいる。
サンドウィッチがきて一口食べたとき、月子さんのことを思い出した。毎日三食一緒だったので、変な気分だ。月子さんも、一人の食事に戸惑うだろうか。それとも、食べるのも忘れて将棋に打ち込んでいるだろうか。
嘘をついて外出して、ぼんやりと昼食を食べている。なんか駄目な父親みたいだ、そう思った。金本のおじさんもこんな感じなのだろうか。それとも、真面目にやっても駄目な人なのだろうか。
耳の奥で、あの時の声が蘇る。「戦わなくなったから、もう追いかけられない」
そして、彼女は去った。
そう、僕は今日も逃げ出している。月子さんから、そして控室から。
食べているものの味が分からなくなった。思い出すこと全てが、後ろ向きだ。
僕は字がうまかった。けれどもみんなそのことを知らなくて、習字で賞をもらった時、クラスが騒然となった。
僕はバスケがうまかった。けれどもみんなそのことを知らなくて、体育の時間、クラスが騒然となった。
だから、将棋が強いなんてことも、誰も知らなかった。僕が将棋の用事で休んだ時、みんなが嘘だと思ったらしい。
ただ彼女だけが、僕のことを知っていて、信じてくれた。だから、頑張れた。降級もしたし、三段リーグで負けが込んだこともあった。それでも僕がプロになれることを信じてくれる人がいたから、僕は強くなろうと思った。
自分のためではなく。
プロになった僕は、もう無理がきかなくなっていた。認められたい、そんな思いが僕を将棋に向かわせていた。けれども気が付くと、僕のことを知る人は将棋関係者ばかりになっていた。本当の僕を知らない人たちは、僕とは関係ない人たちになっていた。
目標のなくなった僕は、近年まれにみる弱い若手になってしまった。そんな僕に愛想を尽かし彼女も去ってしまい、さらに僕の意欲はなくなってしまった。
もう、いいと思っていたのだ。先輩にあきれられようが、後輩に笑われようが、僕はプロとして生きていける。名誉も金もなくても、地位だけを守れさえすれば。
それなのに、月子さんのせいで。あんなにも純粋な思いで、そのくせお金のために強くなりたいと願う姿に、僕の心は常に揺さぶられてしまう。何とかしてやりたいという思いは日々大きくなるのだが、それとともに自分のふがいなさを実感してしまう。月子さんが来て以来大きく生活が変わったという事実は、僕がいかにいい加減な日々を送ってきたかということを示している。将棋にあてる時間は少なく、夜更かしばかりして、食事も適当で。勉強して強くなるとは限らないが、こんなんじゃ弱いのは当たり前だ。
僕が会館に現われただけで驚かれたのも、単に珍しいから、というだけではないのだろう。本当に真剣に強くなろうとしている人たちは、僕の意識が低いこともお見通しなのだ。そんな僕が、何をしに来たのだろう、と思っているに違いない。
何とかしなければ、本当に駄目な人間になってしまう。そう思うのに、店を出た僕の足は会館に向かわなかった。怖かった。大事な局面での意見を求められることが、控室にいる他の誰かが、僕の気付かない手を発見することが。僕より若い子が、僕の上のクラスで勝ち誇る姿を見ることが。
あてもなく電車に乗り、乗り換えて、戻って、ホームでボーっとして、また乗った。いつの間にか窓の外が暗くなっていた。そろそろ帰ってもいい頃か、と思った。
「ただいま」
「どうでした?」
玄関を開けると、月子さんが駆け寄ってきた。今までで一番素早い動きだった。
「あ、ああ。勝ったよ」
「おめでとうございます!」
「お、おう」
月子さんは今度はパソコンのところまで駆け戻り、ディスプレイを指さして言った。
「2200になりました」
「おお」
最近は少しずつ負けるようになってきたが、思ったよりも早く点数が上がっていた。慣れない戦法についてもよく質問してくるし、本気でプロになりたい気持ちが伝わってくる。
「まあ、ここからが大変かもしれないね」
「はい。でも私、将棋が楽しくなってきました」
「……そうか。それはよかった」
月子さんの笑顔が、僕を苦しめた。それでも僕は、笑顔を作った。
「一度、普通の対局もしてみよう。慣れておかないといけないから」
「はい」
「なんか、疲れたから寝るよ」
「……プロの対局って、やっぱり凄い体力使うんですね」
「……ああ。おやすみ」
服も着替えずに、僕は布団にもぐりこんだ。疲れていたのは事実だ。心のすりきれる音が聞こえてきそうなほどだった
そして、本当の久々の対局は負けた。
これで順位戦は2勝4敗。今期もまた、降級点を心配しなくてはいけない成績だった。
負けて、感想戦を終えて、終電がなくて。一番居心地の悪い時間だ。月子さんはもうとっくに寝ているだろうし、早く帰らなくちゃいけない理由なんてない。それでも飲みの誘いを、ふわふわとした理由で断る。
本当は、飲みたい。けれども、みんなと行くのは苦手だ。今日の将棋のことを振り返ったり、今後の目標を述べたり、先輩に奮起を促されたり、どれもが苦手だ。
タクシーに乗る気にもならず、会館を出て、徒歩で家に向かう。空を見上げるが、星なんて見えやしない。吸い込んだ空気が肺の中で鉛になっていくような錯覚に陥る。
「あれ、三東君じゃないか」
後ろから声を掛けられ、振り返ると背の高いおじさんがいた。よく見ると、水田六段だった。同じC級2組に所属しており、僕と同じで対局の帰りなのだろう。
「君も歩いて帰るところ?」
「ええ、まあ……」
「そうだよねえ。負けるとタクシー乗る気にはならないよねぇ。本当は終電までに終わりたいけど、なんやかんやで粘っちゃうんだよねぇ」
「そうですね」
水田六段は、特に目立たないベテランの先生で、体格はいいのにいつもペコペコしているイメージがある。確か、順位戦で勝ち越したことがないのに降級点を持っていない唯一のベテランだった気がする。
「嫁がね、待ってるんだよ。いつになっても。将棋のことをよく知らなくてね、俺のことまだ強いと勘違いしてんだ。そのうちタイトル獲れますよねぇ、だって。いやんなっちゃうよ」
「それは……プレッシャーですね」
「いやいや、もちろん聞き流してるよ。俺が頑張るのはね、息子の授業料とか、娘のピアノのレッスン代とか、そういうもののことを考えてね。せめて子供たちが一人前になるまでは緊張の糸が切れないように、そればっかりだよ」
「そういうものですか」
「家族を持つと分かるよ。名誉よりもお金。これが原動力」
先輩もそういうものだったんですか、という言葉は飲み込んだ。僕にはお金すら原動力になっていないのだ。
「あ、俺はこっちなんで。また」
「はい。それでは」
水田六段は、交差点で北に曲がった。僕は信号を待つ間、何となくその背中を眺めていた。辛い競争を勝ち抜いてきても、プロの世界ではその他大勢になってしまう人ばかりだ。対局した棋譜がどこにも載らないこともざらで、いったい何のために将棋を指しているのか疑問になることもある。それでも歳をとり、家庭を持つととにかく与えられた勝負を指すしかなくなるのだ。
水田六段を笑うことなどできない。憐れむことも、同情することもない。勝負の世界においては、敗者の存在も必要なのだ。敗者が必死になればなるほど、勝者が輝くのだ。僕も、主役になれないことは身に染みてわかっている。せめて、注目されるような脇役になれれば。
素面で歩くと、鮮明に余計なことを考えてしまう。どれぐらい時間がたったかわからないが、我が家の玄関の前まで帰ってきた。扉を開けると、電気が点いていた。
「起きてるの?」
「……先生。勝ちましたか」
「……負けたよ」
「……それは……残念でした……」
聞こえてくる声は、震えていた。月子さんはテーブルの前で、がっくりと頭を垂れていた。
「どうしたの」
「……これ……」
月子さんは僕に、封筒を差し出した。宛名には、「金本光男様」と書かれている。
「返ってきた」
「え」
「前に出したのに返事がないから、もう一回出したんです。そしたら……」
「転居先不明……」
よく見ると、赤い印が押されていた。引っ越してしまったうえに、転居先を届けていないということになる。
「私に何も知らせないで……」
「まあ、そのうち連絡が来るさ」
そうは思わなかった。娘を預けたタイミングで転居。多額の借金。
「……私、どうしていいか……」
「とにかく、待つしかないよ。さあ、寝よう。明日も七時起きだぞ」
「……。……はい」
月子さんは、よぼよぼとした足取りでロフトに上がって行った。僕は色々なものを洗い流すため、シャワーを浴びた。
全部さっぱりとは行かなかったが、いくぶん気分は良くなった。このまま眠ってしまえば、嫌なことのうちのいくつかは忘れてしまうだろう。
しかし、僕は布団に入ることができなかった。斜め上から、すすり泣く声が聞こえてくる。
「月子さん?」
返事はない。梯子を上がっていくと、瞼を閉じ、毛布を抱きしめる少女の姿があった。
「……お母さん……お母さん……」
うわごとのような呟き。もう心は夢の中なのだろうか。十五歳が等身大の姿で、苦しみを耐え忍んでいた。
僕は、そっと髪をなでた。すると月子さんは右手を伸ばして、僕の手をつかんだ。母のことは呼び続けたまま。
僕は動けなくなってしまった。今、この子が頼れるのは僕しかいない。月子さんにとって僕は、師匠であり父親であり、そして母親でもあるのだ。
あの時僕が追い返していたら、月子さんはどうなっていただろうか。彼女の両親は、娘を追い出したかっただけなのだろうか。
洗い流したところへ、別のものがこびりつき始めた。月子さんが寝息を立て始めたのを確認して、僕はビールを取りに行った。
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