五割・一分・一厘

清水らくは

第1話

 玄関の前に、高校生ぐらいの女の子がいた。大きな赤いリュックを抱くように座っていて、ツインテールの長い髪の毛はぼさぼさ、服も薄汚れている。階段を上ってくる僕を見つけるなり、その子は体を震わせてずっと僕のことを凝視している。僕がもう少し歳を取っていたなら、生き別れになった娘と再会したかのようなシーンなのだが。あいにく僕は、この子に全く見覚えがなかった。

「先生」

 か細い声で、女の子は言った。その呼び方で、僕のことをある程度知っているのだろう、と推測できた。

「君は……誰」

「私……先生を探してここまで……あの……」

 くぐもった、小さな声だった。

「うん、僕に会いに来たんだね」

「……弟子にしてください」

 あまりに予想外の言葉に、僕は適切な言葉がしばらく見つからなかった。

「……ええと」

「あの……私……将棋のプロになりたいんです。だから、弟子にしてください」

 今にも泣き出しそうな顔なのに、真剣なまなざしにはぐっと力がこもっていた。

「どうしても……プロにならないといけないんです。でもプロになるには師匠が必要で……他にあてもなくて……」

「……よくわからないけれど、本気なのは分かるよ。ここじゃ何だし、とにかく中に入ろう」

「……すみません」

 鍵を開け、女の子を家の中に誘った。運よく掃除したばかりで、それほど部屋は散らかっていない。

「座って。何か飲むものを入れるよ」

「……すみません」

 やかんを火にかけて、戸棚からマグカップを取りだす。ちらりと振り返ると、女の子はテーブルの前で、やっぱりリュックを抱えて座っている。

「名前は」

「……金本月子かねもとつきこ

「うーん」

 名前も聞き覚えがない。いや、しかし……

「はい、紅茶」

「あっ」

 粉で出すアップルティーがあったので、それを入れてあげた。月子さんは、口を付けずに両手でカップを握りしめている。

「すごく……あったかい」

「体が冷えてるんじゃないか。飲みなよ」

「はい」

 促されて、月子さんはそれを一気に飲み干した。まるでサラリーマンが一杯目のビールを飲むときのようだった。僕は、しばらく凝視してしまった。

「……ご……ごめんなさい、久しぶりにちゃんとしたもの飲んだから……」

「もう一杯入れようか」

「……お願いします」

 月子さんは顔を真っ赤にしているが、それでも断らなかったのは、よほど喉が渇いていたのだろう。立ちついでに、買っておいたスナック菓子も持ってくる。

「食べなよ」

「……え」

「お腹すいてない?」

「……すいて……ます」

 最初は僕の方をちらちらとうかがっていたが、一度手を付けると、すごい勢いで食べ始めた。

この子には、師匠以前に今すぐ必要なものがいっぱいある気がしてきた。

「で、誰に紹介してもらったの? 会ったことはないよね」

「……父に」

「お父さん、僕のこと知ってるの」

「……金本六段って言えばわかるって」

「……金本……六段?」

 今も昔もそんな名前のプロはいない。だが、なんとなく「金本六段」という響きには覚えがあった。どこだろう、将棋以外ということもないだろう……

「金本……金本……のおじさん?」

「そう呼ぶ人もいます」

「ハンチングの」

「よく被ってます」

「あーあー、六段って言うからわからなかった」

 金本のおじさんは、地元でお世話になったアマの人だ。小さい頃から道場でよく将棋を指してもらい、たまにお菓子も貰った。大会などでそれほど活躍していた記憶はないが、六段の免状を持っているのが自慢だと聞いたことがある。そのことは今でも疑っているが。

「その父が……三東先生に頼めばなんとかしてくれるって」

「なんとか、ねえ……。まずさ、なんでそのお父さんは一緒に来てくれなかったの。おじさんが来ればすぐ分ったのに」

「父は……その……」

 月子さんは突然肩を揺らしてもじもじし始めた。別に変なことを聞いたつもりはないのだけど。

「どうかしたの」

「……外に出られないんです」

「……は?」

「私たち、借金がとても多くて……。だから、だから私がプロになって、借金を返すんです!」

「……」

 開いた口がふさがらなかった。今まで将棋のプロやプロを目指す人を数多く見てきたが、こんな理由は前代未聞だ。だいたい、将棋棋士がもうかる仕事だと思ったことがない。少なくとも僕は貧乏だ。

「お願いです! 力を貸してください!」

「……プロになるには、条件は一つしかないよ。勝つこと」

「……はい」

「でも、君はプロになるだけじゃだめだよ。借金を返すには、プロとしてもうんと勝って、稼がなきゃならない」

「……はい」

「今まで女性でプロになった人はいない。それでも、目指すのかい」

「はい」

 突然、とんでもない案件が舞い込んだものだ。僕には任せておけ、と胸を張るだけの度胸もなければ、お断りだ、と突っぱねるだけの勇気もなかった。

「とりあえず、それ着替えようか。シャワーも浴びなよ」

「……本当にすみません」

「大変だったろ。その……お金ないのに、どうやってここまで来たの」

「自転車で」

「自転車?」

「……それしかなかったから……」

 僕は押し入れの中から、ジャージを取りだした。黒色に赤いライン。別れた彼女が使っていたものだから、本当は目にもしたくなかったが仕方がない。

「そうだなあ、ピザ取ろうか。好きかい」

「……食べたことが……ないです」

「そっか。きっと好きになるよ。……はいこれ、ちょっと大きいと思うけど」

「……突然押し掛けて……こんなに……本当に……」

「ここまでは君のお父さんに世話になった分だよ。けれど、将棋のことは別。ご飯を食べたら、試験だよ。将棋を見せてもらう。それでだめなら、弟子にはできない。悪いけど、帰ってもらう」

「……わかりました」

 ついに、月子さんの瞳から涙がこぼれ落ちた。緊張の糸が切れたのか、そのあとわんわん声を出して泣き始めた。そして、それを隠すように、すっくと立ち上がり浴室へと走った。

 残された僕はとりあえず、本棚の前方にある漫画と、奥にある将棋の本とを入れ替える作業にいそしんだ。もし万が一彼女が強かった時に、自分の弱さがばれてしまうのはとても辛い。



 驚いたことに、月子さんはコーラを飲むのも初めてのようだった。恐る恐る口に含み、少し飲みこんで、「これが噂のしゅわしゅわ……」とつぶやいていた。

 ピザを食べながら、話を聞く。この前中学校を卒業したばかりで、まだ十五歳。とはいえ、プロを目指すには少し遅いぐらいだ。将棋は父親に習い道場に行くこともあったが、実家の工場経営が苦しくなり道場代が払えなくなった。家からもなかなか出られなくなり、父と隠れるように将棋を指すようになった、とのこと。

 そしてある日、金本のおじさんは言ったのだ。「月子ならプロになって、お金を稼げるかもなあ」と。

「じゃあ、月子さんはプロに将棋を見てもらったことはないの」

「……はい。会ったのも今日が初めてです」

「うーん」

 正直、期待薄だと思った。自称六段のおじさんが、身内贔屓も含めて保証しただけとは。

「まあいいや。とりあえず、指そう」

「わあ!」

対局をしようと盤駒を引っ張り出すと、なぜか月子さんは目を丸くして大きな声を上げた。

「どうしたの」

「こんな分厚くて脚付きの……初めて見ました」

「そう」

 この調子では、ありとあらゆるものに驚き続けてしまいそうだ。案の定対局時計を取りだすと……

「こ、これって個人で買えるものなんですか」

「まあ、お金出せばね」

「やっぱりプロの先生ってお金持ちなんですね!」

 これぐらいのことで感動されては、とても申し訳ない気持ちになってくる。名人の家など見たら卒倒してしまうのではないか。

「振るよ。……月子さんの先手だ」

 歩を五枚取り上げ、振り駒をした。時計を三十秒の秒読みに合わせる。

「お願いします」

「おっ……お願いします」

 盤上に伸びた腕は細く、指もとても短く見えた。そして、白い。1九から盤を横切って、2七の歩をつまんだ。駒に触れた瞬間、震えていた手が力強く伸びていくのが分かった。駒音が高く響き渡り、初手2六歩。

 顔を覗くと、目じりは上がり、頬も引き締まっていた。先ほどまでのおどおどした感じは全くなくなっており、獲物を狙う猛禽類のような顔つきになっている。ここまでは、合格点だ。

 少し予想外の初手だが、それならばこちらも試させてもらうしかない。僕は8三の歩をそっと一マス前にはじき出す。二手目、8四歩。アマチュアが苦手とすることが多い、相掛りに誘導する。月子さんは圧倒的に実戦経験が足りてないはずなので、プロの対応に惑わされる可能性が高い。そこをどう乗り越えるか、それをこの対局で試験させてもらう。

 飛車先の歩を切ったあと、月子さんはその飛車を2六に引いた。最近の流行は深く引く2八飛だが、そんなことすら知らないのかもしれない。とりあえず、しばらくは普通に対応するつもりだった、が。

 月子さんは、僕が飛車先の歩を切って深く飛車を引いた手に対して、9七角と指した。瞬間、僕の飛車は8九に成りこむことができる。しかしそれには8八角と戻って竜が閉じ込められてしまい、こちらが不利になる。プロならばだれでも知っている展開だが、アマでこれを指しこなす人は少ない。金本のおじさんがこういう将棋を指していた記憶もないし、月子さんはそれなりに勉強をしているということなのだろうか。

 僕としても、あまりこの形の実戦経験がないので一手一手が慎重になる。負けることは万が一にもないのだが、できるだけ月子さんの実力が分かるような局面に誘導しなくてはならない。常に半歩差しかつかないような局面を作る。これはプロになってから鍛えられた技術だ。

 いたってオーソドックスな駒組みで迎え撃つ……ように見せかけて、僕は罠を仕掛けておいた。漫然と駒組みを進めれば、こちらには用意の駒組みがある。もちろんそれだけで有利というわけではないが、現代的な感覚では負けにくい形だ。歩を伸ばす、銀を出る、それらの手ならば、3三玉とする。一見不自然な形だが、次に2二玉から1二香として穴熊に囲う。そうなれば、後手も強い戦いができる。

 月子さんの手が、また盤上を横切った。その手つきは優雅だ。そして9七の角をつまみ、7九へ。全く考えていなかったし、見たこともない手だった。それでも、悪い手とは思わなかった。その角は遠く1三をにらみ、駒組みに制限を与えている。

 僕は、2二銀と指した。月子さんの力をある程度信用し始めていたのだ。プロになれる云々は分からないが、少なくとも弱さは感じられない。個性も迫力もある、魅力的な指し手だ。何より、目つきがいい。目の前の獲物をしとめなければ餓死してしまうと言った、とてつもない切迫感が伝わってくる。

 だが、問題は駒がぶつかってからだ。僕らプロがアマより優れているのは、駒の潜在能力を見極める力だ、と思っている。将棋の作りによって、役に立つ駒、立たない駒が変わってくる。また持ち駒にしておくことで相手にプレッシャーを与えられる駒もある。駒台を盤上に反映させる、その能力の足りないアマが多い。持ち駒は使わないのが一番いい、なぜなら駒台にある限り相手に取られないからだ。しかし多くの人は、持ち駒を使いたがる。手下を簡単に戦場に送るのは、愚かな将のすることだ。

 歩がぶつかり、局面が動き出す。秒読みなので、加速した流れはなかなか止まらない。月子さんは直接手を指さず、じんわりと駒を前に進めてくる。女流プロでもなかなか指せない、落ち着いた順を選んでくる。しかしがっぷり組んでしまえば、こちらの方が地力は上なのだ。僕の駒台に歩が増えていく。いずれこの歩は、1筋の端攻めに役に立つ、かもしれない。その可能性がある、というだけで非常に価値が高いのだ。

 だが、相手の手をつぶすようなことはしない。どのような組み立てで攻めてくるのか、それを見なければならない。強い人には天性の「すじ」がある。定跡や終盤は地道に勉強することができるが、「すじ」だけはどうにも修正できないものだ。どれだけ指導しても両取りばかりかけてしまう人、全然響かないところの駒を取りに行く人、歩を突き捨てられない人、と金を作れない人。これはもう、直しようがないのだ。他のところで強くなることはできるが、筋の悪い人は僕らの側には来ることができない。

果たして、月子さんのすじはどうなのか。ただ、形に明るいだけなのか、それとも天性のものがあるのか。

対局時計は容赦なく時間の経過を宣告し続ける。三十秒は短い。世の中には、一手に対して五時間以上考えたプロもいる。昔は、時間無制限で何日もかけて一局を指したという話もある。それに比べこのような練習将棋は本当にあわただしく、作品を創出する作業からは程遠いものとなっている。

1七桂。残り一秒で指されたのは、全く予想していなかった手だ。この桂馬は次に2五にしか飛べない。決してすじがいい手とは言えない。しかし、考え方としてはすじが通っている。歩損をしており、攻め始めたのならそれを貫きとおさねばならない。多分その攻めは僕には通用しないだろう。しかし万が一にも僕に勝つことがあるとすれば、それは、攻めの姿勢を貫いたときだろう。

このような展開になると、自然と指が伸びてくる。僕は何回もこのぐらいの棋力の人と指しているが、月子さんはプロと指すのは初めてだろう。正確に読み切れるということは、大きな武器だ。大ナタを振り回す攻めは、空振りしてしまえばそこで終わりだ。

こちらはじわじわと相手を圧迫していく。5七歩、そして2六歩。だいたいこれで勝ち、そう思った。だが、月子さんからは異様な気迫を感じた。顔を上げると、額に手を当て、激しく瞳を動かしながら必死で何かを探している姿があった。もがいているという感じではない。あるはずの答えを必死に探求しているようだった。

髪をかきむしり、少し宙をさまよった後、その右手は駒台へと伸びた。歩をつかみ、2七へ。玉の頭の傷を消す一般的な手筋だが、僕は全くその手を読んでいなかった。これまでの流れから逸脱する手だからだ。そして、いい手だった。

頭の中で、スイッチを切り替えた。もう、テストは十分だ。自称六段の客観性はいまだに疑わしいが、それでも月子さんの実力は確かにプロを狙ってもおかしくないものだと思った。それがわかれば、後は将棋本来の目的……勝利を目指すのみだ。

想定よりは手数が伸びたものの、逆転の目はない。最後は緩みのない攻めで、先手玉を追い詰めた。受けがなくなったところで、月子さんは頭を下げた。

「負けました……」

「うん」

 唇を噛んでいた。負ければ悔しい、当たり前のことだが、できない子もいる。

「なかなかだね。十分可能性はあるよ」

「……本当ですか」

「もちろん、これから次第だろうけど。色々な戦型も見てみないといけないし、優勢な将棋の勝ち方とか。まあ、しばらくは試験延長かな」

「じゃあ、これからどうすれば……」

「君、お金持ってないんだろ」

「……はい」

「こっちに知り合いとかいる」

「……ないです」

「しょうがないな。そのロフト、貸すよ」

 僕は、斜め上を指さした。天井にぶら下がるようにあるその空間は、人が眠ることもできるスペースになっている。

「……いいんですか」

「すごい暑いよ」

「全然問題ないです」

「あと、家賃は借金ね。食費も、光熱費も付けていくよ。僕はボランティアするほど優しくないし、余裕があるわけでもない。早くプロになって、僕への借金も返してくれ。それでも良ければ、師匠になるよ」

「……はい」

 いい人と思われるのが嫌だった。本当はお金のことなんてどうでもよかったけれど、気が付いたら言っていた。

「ありがとうございます。……本当に……」

 肩を震わせながら、月子さんは泣いていた。これからは、もっとたくさんの悔し涙を流すことになるだろう。



 金本月子十五歳との、奇妙な生活が始まった。

「あの……すみません……」

 色々なことがずれている子だとは思ったが、まず最初に驚かされたのはリュックの中身だった。てっきり着替えが詰まっているのかと思っていたら、出てきたのは分厚い本が五冊。

「小川靖男全集……。これは……」

「……父が唯一売らなかったものなんです。……何度も何度もこれを読んで勉強しました」

 そのうちの一冊を開いてみると、どのページにもびっしりと書き込みがしてあった。月子さんなりの感想や検討を記入してあるのだ。

「ずっとこればっかり?」

「はい……」

 小川靖男は、名人を七期務めた偉大な棋士だ。粘り強い指し手に定評があり、「受け方の定跡」を作ったとまで言われている。

「あの、服とかは……」

「これだけです……」

 月子さんが取り出したのは、小さなスーパーの袋。中身を見せてはもらわなかったが、大きさからして下着が数枚だけだろう。

「とりあえず……明日買い物に行こう」

「……はい。すみません」

 ロフトに布団を運びこみ、とりあえず彼女の居住スペースを作った。一畳ほどの広さしかないが、正座できるぐらいの高さはあるし、電源もある。

「このスイッチでここの電気が付くから。トイレ行くときとかは気を付けて」

「はい」

 自転車をこいでここまで来て、その上真剣に将棋を指したのだから、ひどく疲れていたのだろう。すぐにロフトから寝息が聞こえてくる。

 外に出て、駐輪場に向かった。そこには、薄汚れた、ぼろぼろの自転車が止めてあった。かごは歪んでいるし、タイヤのホイールも曲がっている。彼女はあのリュックとこの自転車だけでここまでやってきたのだ。会ったこともない、僕を頼りにして。

 僕は、すぐに寝る気にはなれなかった。帰宅してからの数時間で、考えてもみなかったことが起きている。頭の中がぐちゃぐちゃで、ぐらぐらと揺れている気さえする。

 僕はまだプロになって四年目の若手棋士だ。弟子を取るなんてことは考えたこともなかった。しかも今どき内弟子なんていうのはほとんど聞かない。そして何より問題なのは……月子さん自身が、僕のことを何も知らない、ということだった。

 三東幸典さんとうゆきのり、四段。プロになってからのこれと言って目立った成績はない。いや、むしろ悪い方で目立ってしまっている。通算勝率は四割を切り、順位戦では三期連続負け越しで、一つ降級点を取っている。早指し棋戦での予選突破もなく、そのため当然ながらテレビ棋戦で戦ったことがない。あまりの不出来ぶりに、陰では「四東三段」というあだ名まで付けられているようだ。

 月子さんは、よりにもよって今一番弱い若手棋士のところに弟子入りに来てしまったのだ。確かに、地元では一番強かった。しかしプロは皆、故郷では一番強いアマだった。奨励会時代は何度も降級の危機にあい、三段リーグでも連続四期負け越した。それでもたった一度の勝ち越しを、何とか昇段につなげて四段になることができた。自分でも奇跡のようだと思った。そして奇跡は、プロの世界では起こらなかった。

 今はまだ、月子さんの遥か先を行っている。けれどもこれから月子さんがプロになるには、借金を返せるぐらいの強いプロになるためには、僕を追い越して遥か先まで行かなければならない。

 僕に弟子を取る資格なんてあるのだろうか。弟子を育てる才能なんてあるのだろうか。そもそも家に少女を住まわせるなんてこと、周囲から見たら許されるのだろうか。不気味なぐるぐるは続く。

 通帳を開いてみた。彼女の部屋を借りてやれるほどの収入は、当たり前だがない。かといって僕にも頼れる人はいない。師匠は亡くなってしまったし、他の棋士との交流も避けてきた。いっそベテランの先生のところに行って、代わりに師匠になってくださいと頼めばいいだろうか。その方が月子さんのためになるのならば……

 これまで、女性でプロの正会員になった人はいない。確か、二段ぐらいが最高だったはずだ。あきらめて女流棋士になる、というのでは月子さんの場合意味がないだろう。勝って勝って勝ちまくって、借金を返さねばならないのだ。女流トップの収入は、平均的な男性棋士ぐらいしかない、と思う。

 ふと、彼女がそんな運命を背負わねばならないのだろうか、と思った。月子さんには、将棋を楽しみながら強くなるだけの素質があると思う。焦らずゆっくり勉強していけば、時間はかかっても芯のある棋士になれるかもしれない。または、アマ強豪として仕事しながらでも将棋を楽しめるようになるかもしれない。けれども彼女は、とにかく急いで強くなろうとするだろう。しかもそれは将棋を楽しむためでも、極めるためでもないのだ。

 そもそも、彼女は将棋が好きなのだろうか。

 プロは、だいたい将棋が好きだ。だから続けられる。深夜まで及ぶ熱戦を負けても、将棋が嫌いになるのは数日だけだ。気が付けば将棋のことを考え、他の対局結果を調べている。棋譜を並べ、詰め将棋を解き、次の対戦相手のことを考える。僕のようなへぼ棋士でも、普段からさぼっているわけではない。義務ではなく、将棋に関わることが自然になっているのだ。

 部屋に戻る。相変わらずの寝息。誰かがいるという、不思議な感覚。

「おやすみ」

 頭が痛くなってきた。聞こえていないと分かりながら、久しぶりの言葉を呟いた。



「あの……」

 すぐに将棋の勉強、というわけにはいかなかった。何せ彼女は本と下着数枚しか持っていないのだ。普通に暮らしていくだけでもいろいろとそろえなければならないものがある。まずは、自転車の修理に行った。正直新しく買った方が安いと思ったのだが、本人のためにならないと思った。その自転車は、月子さんの人生にとって大きな意味を持つものになるかもしれないのだ。そのあとは、買い物だ。

「いいんですか、こんなに」

「もちろんこれも借金ね」

 僕自身女の子の服なんてよくわからないので、スーパーの二階にある洋服店で適当にそろえた。普通のこの年頃の女の子なら、「こんなとこじゃいや!」と言うところだろうが、月子さんの眼はきらきらとしていた。よほど普段から何も買ってもらえなかったのだろう。

「いいかい、ただ将棋が強ければいいってことじゃないんだ。プロ棋士は将棋の発展や普及も仕事。人に見られて恥ずかしくない格好やたたずまいをしないといけない」

「はい。いろいろと教えてください」

 本当は、僕は師匠から将棋以外のことはほとんど教わっていない。今は、名義だけを貸すような場合すらあるのだ。しかし月子さんの場合、僕が親代わりとならなければいけない。親……そういえば。

「家に連絡しないとね。僕からも挨拶しとくよ」

 携帯を取りだした僕を、月子さんは気まずそうな顔をして見上げている。

「あの……今は通じないと思います」

「え」

「よく止められるし……その……電話線を抜いていたり……」

 思った以上の惨状だ。そんな状態では仕事の受注もできないではないか。

「私……手紙書きます。だから……切手代も貸してもらって……いいですか」

「あ……ああ」

 僕はだんだん、腹が立ってきた。それほどまで切迫したつけを、こんなに若い女の子に払わせる親は絶対に正しくない。棋士になって借金を返すなんて言っても、止めるべきではないか。そのために昔少しかかわりのあっただけのプロを紹介するだなんて、無責任過ぎないか。

「あの……父が言っていた通りでした」

「なにが」

「とっても優しい子だったって。……あの、はい」

「まずは、大人に騙されないことから教えないといけないね」

「……え?」

 ついでに、美容室にも寄った。月子さんの髪の毛はぼさぼさで、聞けばいつも母親に切ってもらっていたらしい。

 これは本人には言わないつもりだが、月子さんがプロになるためには、想像以上に女性であることが足かせになるはずだ。僕自身何局か経験があるが、やはり女の子には負けられない、と思ってしまう。かといって男性に同化すればいい、というわけではない。どこまで行っても、将棋という男性社会の中で女性は異質なものなのだ。だから、それを逆手に取るべきだと思う。月子さんは磨けば光ると思うし、異性として意識されるぐらいきれいになって、対局相手に余計なことを考えさせるべきだ。将棋に真摯に向き合うならば、邪道な考え方かもしれない。しかしこちらの目的はお金なのだから、どうとでもして勝たねばならないのだ。

「あの、今日はどうされます?」

「え……短くしてください」

「どのような感じに」

「……さ、さっぱりと」

 月子さんは美容師とのやり取りもなかなかうまくいかないようだ。まあ、初めてなら無理もない。

 それでも全てが終わると、全く見違えていた。髪は全体的にふんわりとして、野暮ったい感じが消えていた。眉毛も剃ってもらったのか、目の周りもすっきりした気がする。さすがプロ、本当にさっぱりにしてくれたようだ。

「あの……どうなりました」

「鏡で見たまんまだよ。いいんじゃない」

 とりあえず、今すべきことはこれぐらいだと思った。これ以上のことは本人の責任だと思ったし、正直化粧云々になると何をしていいのかよくわからないのだ。

「なんか食べて行こうか。何がいい」

「え……いんですか、外食なんて」

「まあ、そんなたいした店にはいかないから」

「……もう、五年ぐらいお店で食べてないんです。どんなお店があるかもわからないし……」

「わかった。じゃああれに行こう」

「あれ?」

 僕は、自分が初めて東京に連れてきてもらった時を思い出した。あまりに色々なものがありすぎて、目が回りそうになった。そして父親は、「都会にはすごいものがあるんだぞ」と言ってその店に連れて行ってくれたのだ。

「わあ」

 店に入るなり、月子さんはとてもいい反応をした。僕も、同じような感じだった記憶がある。

「本当に回ってる……」

 月子さんはしばらくその場に立ち尽くしていた。さすがに僕はそこまではならなかった。

「月子さん、座るよ」

「は、はい。……大人になる前に、回転寿司に来られたなんて信じられません」

「……ここは、おごりでいいや。いっぱい食べて」

「そ、そんな、滅相もございません」

 テンションが上がりすぎて、言葉遣いまで変になっている。見ていて微笑ましい。

「何してるの、取りなよ」

「あ、あの見たことないものばかりで……何を取っていいのか」

「しょうがないなあ。取ってあげるから食べなよ」

 何となく回転寿司のだいご味を味わえていない気もするが、月子さんは僕の選んだ皿をゆっくり時間をかけて食べ、その度に感嘆の言葉を漏らしていた。なんだか自分が大富豪になって、遠い国から養子を迎えたみたいな気分になる。

「多分……生まれて初めて貝を食べました」

「へぇ」

「早くプロになって、いっぱい回転寿司に来たいです」

「うーん、そうだね」

 もし月子さんが訪れたのが僕のような弱いプロでなければ、寿司は回っていなかったかもしれない。まあ、玄関で門前払いされた可能性も高いが。

 そういえば僕も、プロになったらおいしいものがいっぱい食べられる、と子供の頃は思っていた。大きな家、いい車、綺麗な奥さん。将棋が強くなるだけで、全てが手に入ると思ったのだ。

 もちろん、もっともっと強くなれば、手に入るのかもしれない。同期の一人は挑戦者リーグ入りしたり、新人戦で優勝したりしているが、つい最近外車を買ったと言っていた。二四歳でタイトルを取った先輩は、二五歳で結婚し、二七歳で都内のマンションを買った。

 上を見ればきりがない。よく言ったものだ。

「家族にも食べさせてあげたいです。うん、決めました。棋士になって最初のお給料は、ここに来ます」

「そうするといいよ」

 無邪気な笑顔に、なぜか少し心が痛んだ。いや、理由は分かっている。月子さんの進む道は、果てしなく険しい。たとえプロになれたとしても、親の借金や、周囲の好奇心や、勝負の厳しさが重くのしかかってくるだろう。彼女はまだ、そんなことを知らない。

「あ……でも、まずは先生にお金を返さなきゃ」

「そうだね」

 帰りは、いっぱいの荷物を抱えて地下鉄二つ分の距離を歩いた。二人の共通の故郷の駅から、二人とも少し遠いところに実家があるという話をした。そしてふと、月子さんはつぶやいた。

「……毎日あの駅まで歩くんだなぁって、ちょっと思ったんです」

 最初、僕はその意味がわからなかった。そして家に着くころになって、ようやくわかった。そういえば僕も、毎日あの駅から電車に乗って、高校まで通っていたのだ。

 そう、普通は女子高生になる年齢なのだ。今はほとんどの奨励会員が高校までは行っている。この世界で生きるにしても将棋以外のことを知ることが大事だし、結局将棋の世界から離れていく人も多いのだ。

 月子さんも高校には行くべきだと思う。けれどもそれを決めるのは僕ではない。そこまでサポートしてあげることもできない。もし高校に行きたいと望んでも、それを許さない家庭環境を恨むしかないのだ。

「よし、毎日歩くことを義務としよう」

「はい」

 扉を開ける。今からここは、戦場になる。

「ただいま」

 なんとなく言ってみた。

「あ……ただいま」

 月子さんもつられて言った。

「さあ、将棋だ」

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