第4話
朝五時に目が覚めた。
今日は運命の日だった。僕にとっての、ではない。にもかかわらず、眠りは常に浅く、いつになく早く起きてしまった。
ロフトの方からは、いつもと変わらない、小さな寝息が聞こえてくる。
布団にもぐりこんだが、頭は冴えわたっている。十分ほどして、あきらめて起き上がった。
とりあえず、コーヒーを飲んだ。
今日は、奨励会試験の日だ。
ついていくわけにもいかないし、教えられることは全て教えた。僕がすべきことなど、何もないのだ。それなのにどうにも落ち着かない。
自分が試験を受けたときのことを思い出す。まだ中学一年生だった僕は、絶対に受かると信じ込んでいた。両親はあまり興味がなさそうだった。将棋のプロというものがまるでわからず、カルチャースクールか専門学校にでも行くかのように思っていたようだ。師匠が直接説明してくれたが、それでもわかっていない様子だった。ただ、僕のすることには何も反対をしなかった。両親にとって僕は何もかもがそこそこの人間であり、たとえ「趣味であろうと」頑張るのであれば喜ばしいと思っていたようだ。
僕はあっさりと試験に受かったし、両親はいつまでたっても「就職はどうするの」なんて聞いてきた。いまだに僕がどのようにしてお金を稼げているのか、さっぱり想像がつかないらしい。
しばらく何もできずにボーっとしていた。まさか自分のものでない試験に、しかも数か月前までまったく知りもしなかった子のために、こんなに心が乱されるとは思わなかった。本当に心が弱い。僕は、どうにも勝負に向いていない人間だと実感した。
七時前、いつも通りの時間に月子さんは梯子を下りてきた。
「おはようございます」
「おはよう。よく寝れたかい」
「はい。試験中眠くならないよう、しっかり寝ました」
本当にいつも通りの、ふんわりとした感じだった。
「緊張は?」
「うーん。多分対局始まらないと。今はまだ、何にも実感はないです」
きっと受かる。そう思った。
「三東君」
控室で検討をしていると、突然声をかけられた。振り返ると、そこには夏目七段がいた。がっしりとした体に白髪交じりの髪、髭の生えたとても男らしい。奨励会幹事を努めている、真面目で熱い先生だ。
「はい」
「……彼女は、何者なんだね」
「金本のことですか」
「ああ」
夏目七段は、僕の目の前にどっかりと腰を下ろした。話は長くなるかもしれない。
「私が幹事になって、初めての女性でね。まあそれはいい。けれどね、誰も彼女のことを知らないんだよ。対局どころか、見たこともないと言うんだ。そのくせ、すごく強い。試験の将棋は圧勝だったよ。しかも師匠が君というのは……まあ意外でね。みんな、気になっててね」
何となく予想はしていたが、いざその時になってみるとなんだか気まずい。将棋界は閉鎖的な、狭い社会だ。だから、異質なものにはひどく敏感なのだ。
「金本は故郷が同じで、彼女の父から頼まれたんです。事情があって大会に出ることができなくて、実戦経験は少ないんです」
「ふうむ。まさか現代社会にそんな逸材が隠れているとはねえ」
確かに、最近の子供はどんどん大会に出て、ある程度実績を積んでから奨励会を受験する。みんなを驚かせたというのも、なんとなく、悪い気はしない。僕がどこまで助けられたのかは分からないが、弟子を褒められるというのは嬉しいものだ。
「彼女は注目されるよ。絶対」
「できれば、見守ってあげてほしいです」
「努力はさせてもらうよ」
月子さんが奨励会に入って以来、僕に対する視線も変わったような気がする。これまでは、その他大勢の一人にすぎなかった。成績もいまいちなら、普及も熱心ではない。研究会にも参加せず、グループを作るでもない。そんな無印の僕が、突然得体のしれない弟子を放りこんできたのだ。そりゃびっくりするだろう。
「よろしくお願いします」
「まあ、本人次第だけどね。でもなんか、すごく懐かしい感じの将棋を指すよね。重厚で、ゆったりした……」
「そうですね」
「君も弟子に負けないように頑張らないと」
「はい」
「ああ、対局の途中なんだ。また今度」
「ではまた」
再び一人残された控室の中で、僕はぼんやりとしていた。僕はいつだって、何をしたって、注目されなかった。それが突然、自分の力以外でこうして声をかけられている。
午後からは、講師の仕事だ。それが終わるとまた、十日間仕事がない。……その間は、師匠の任務に専念できるということだ。
「先生、両親は夜逃げしました」
夕食が終ると、突然月子さんはそんなことを言った。僕には、返す言葉がなかった。
「……隣の人に電話してみたんです。……勝手に電話使ってごめんなさい」
「いや、それはいいけど……」
「なんか、すごく悲しいです。でも、ちょっとだけ安心しました。荷物を持って逃げたってことは、生きようとしていると思うから……」
とても口には出せないが、月子さんにとって何が一番いいことなのか、わからなかった。両親が生きている限り、借金も残っているのだ。
「一度でいいから、家族三人で普通に暮らしたいです……」
「月子さん……頑張れば、できるよ」
「はい」
月子さんの顔には、不安や悲しみ、そういったものが浮かび上がっていた。この四カ月ほど、僕なりに精いっぱいのことをしてきた。けれども僕は、結局は月子さんにとって他人なのだ。たまたま師匠になっただけの人間には、彼女の心を癒してやれるだけの力がなかった。
僕は大人なので、わかってしまう。月子さんの両親は、これ以上娘を支え続けることができなかったのだ。夜逃げに娘を連れていくだけの覚悟がなかったのだ。だから娘の良心に付け込んで、博打のような勝負の世界に放り投げてしまったのだ。
月子さんも大人になっていく。いつ本当のことに気づいたら、どうするだろうか。将棋なんかやめてしまうだろうか。その時僕は何と言うだろうか。何か言えるだろうか。
なんとなく、だけれど。きっと多くの人がベテランになってから弟子を取るのは、子育てで予行演習ができているからなんだ、そう思った。今の僕には、十五歳の少女を導くだけの逞しさはない。共に苦しみながら道を切り開いていくしか、ないのかもしれない。
「おかえり」
「……」
なんとなく普通にはいかないことは分かっていた。今日は、奨励会の例会の日。月子さんの顔色は予想以上に悪かった。
「どうだった」
「……辛いです」
「勝てなかったの?」
「……知らない人といるのが、怖いんです……」
月子さんは腰を下ろすと、テーブルに上半身を委ねた。ツインテールが、だらりと垂れている。
「そっか」
大丈夫だよ、とは言えなかった。かつての自分も大丈夫ではなかったから。
「……私、もう行きたくないと思ってます。駄目ですよね……」
僕は、月子さんの背中を叩いた。
「そのままじゃ、駄目だね。でも、急に治るもんじゃないよ。僕は、心を閉ざした」
「先生……」
「まず、勝つことだ。多くの人は、奨励会からいなくなる。友達になる必要はない。無理をしてまでは」
「でも……」
「君は目立ってる。それは確かだよ。でも、勝つことは目立つことなんだ。ずっと続く。観客がいないだけましと思わなきゃ」
「……努力します」
先は長いが、あきらめればすぐに終わってしまう。将棋は強くなる一方でも、心を強くするのには時間がかかるだろう。月子さんは、乗り越えていけるだろうか。
全ては彼女次第だ。僕にできることは少しだけ。そして僕は、誰にも助けてもらえなかったが、何とかプロになることができた。
温かい紅茶をいれた。それが、僕に出来ること。
将棋界の一番長い日、と呼ばれる一日がある。A級順位戦最終日のことだ。将棋界において最も強いであろう十人が、名人挑戦、そしてA級残留をかけて戦う。その様子はテレビで中継され、多くの将棋ファンがリアルタイムで見守ることになる。
だが、C級2組の最終日も、同じぐらい長いのだ。対局が多い分、ドラマの数はケタ違いである。
僕は結局、二勝七敗でこの日を迎えてしまった。順位も悪いため、降級点回避には勝利と運が必要になっている。
先日、月子さんは4級に昇級した。相変わらず行くこと自体はつらそうだが、実力からして妥当な結果だ。一方の僕は、月子さんがプロになる頃には順位戦から姿を消していそうだ。そんな情けない事態だけは、絶対に避けたい。
今日の相手は朝田五段。僕より二年先輩で、毎年昇級争いをしている強い若手の一人だ。テレビ棋戦でベスト4に進出したこともある。現在八勝一敗。僕に勝てば文句なく昇級、という状況だ。
朝の喧噪の中で、「朝田君は決まりだな」という声が聞こえてきた。みんな心の中では、そう思っているのだろう。威勢のいい棋士と、勝率三割の棋士。誰が見たって、どちらが有利かはわかるというものだ。
それでも。それでも、このまま降級点を取るわけにはいかないのだ。たとえ大した目標がなくても、落ちていくことだけは嫌だ。順位戦からいなくなれば、また元のその他大勢に逆戻りしてしまう。何のためにプロになったのか、わからなくなってしまう。朝田さんの心に、そしてみんなの記憶に大きな傷を付けたい。
気持ちと高まりとは別に、将棋は淡々と進んでいった。角交換振り飛車のよくある形。流行り始めの頃カモにされまくったので、この戦型に関してはかなり研究した。朝田五段も自信があるのだろう、小刻みに時間は使っているが、考えているというよりは確認しているようだ。
順位戦の時間は、世間と切り離されて進んでいく。ときには驚くほどゆっくりと過ぎるが、難しい局面になると驚くほど速く走りだすこともある。昼食休憩が過ぎ、夕食休憩が過ぎても、室内は静かだった。いつもならば数局が終わっているものだが、今日はまだどこも熱戦が続いているようだ。これだけの人が黙々と将棋を指す。観客はいない。将棋とは何と異様な競技だろうか。
午後七時半。ついに未知の局面に突入した。駒損で攻める振り飛車、争点をずらしながら受ける居飛車。玉頭も戦場になり、非常にややこしいことになってきた。どこかで反撃しなければ、受け切って勝つような将棋ではない。
午後九時。ごちゃごちゃした局面の中に、一筋の光明が見えた。桂馬を二枚捨てる筋で、一気の寄せが狙える。ただ、駒を渡すだけに読み抜けがあったら一気に負けになる。最後の持ち時間を使って、慎重に読んだ。そして、いけると思った。詰みまで読んだ。祈ってもいないのに、神様に感謝すらした。
読み筋通りに進んでいく。朝田五段は相変わらず淡々と指している。まるで、結果は分かっているかというように。
午後十一時。いよいよ、最終盤。あとは、詰ますだけだ。心の震えを抑えるため、小さく息を吐いた。後は作業だ。そう思っていた……
王手の連続に、必然の応手だと思っていた。けれども朝田五段は、そんな僕をあざ笑うかのように、その残酷な一手を指した。
8五同飛不成。しばらくは意味がわからず、そして、愕然とした。なんとこれで、打ち歩詰めになっているのだ。当たり前のように飛車は成るものと思っていた。盲点にはなる。けれども、プロならば読まなければいけない一手だ。
もう、勝ちない。修正する順も思い浮かばない。けれども、こんな格好のいい一手で終わらせたくはなかった。不成を僕が読んでいなかったことを吹聴するような投了図には、絶対にしたくなかった。結果、棋譜を汚してしまう。僕は、どこまでもプロ失格だった。
午前零時三分。終わった。
朝田五段は昇級し、僕は降級点を取った。完全な勝者と敗者のコントラストが描かれた。
三月の終わり。三東家の食卓には、小さなホールケーキが用意された。今日は、月子さんの十六歳の誕生日だった。
月子さんは目を丸くしてケーキを見ている。喜ぶとかではなくて、得体の知れないものを発見したかのような感じだ。
「ケーキの本体を初めて知りました」
実は僕は甘いものが苦手なので、ケーキはほとんど月子さんが食べた。おいしそうに食べる女の子の顔を見ると、僕の心も少し柔らかくなった。
「月子さん、十六歳の目標は」
「……初段になります」
「よし。頑張って」
何気ない、やり取りのつもりだった。けれども、月子さんは思いがけないことを言ってきた。
「先生の目標は、なんですか」
「え」
「……聞いたことなかったから……。教えてもらえませんか」
まっすぐな瞳で問われて、戸惑う。何と言えばいいのか、考えた。
「……とりあえずは、五段かな」
「きっと、すぐですね」
月子さんは僕の成績のことがよくわかっていないのだ。昇級でも勝ち星でも、五段はまだ遠い。
僕の心の中に浮かんだ本当の目標は、「せめて勝ち越し」だった。それすら大変な目標だということは、情けないが、真実なのだ。
「来年の今日は、もっといろんなことを祝えるようにしよう」
「はい」
そう。笑われるかもしれないけれど、一分でも勝率五割を超えていたら、僕は僕を祝いたい。そう思わせてくれる弟子に感謝したい。
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