12. The World According to Anatole (1)



 こぶしを振り上げながら襲いかかってくる男を、アナトールは眉一つ動かさずにかわした。

 すぐさま居酒屋の外に二人をぐるっと囲んだ人垣ができて、アナトールと男の喧嘩に、熱のこもった野次を飛ばしてくる。中には、どちらが勝つかに金を賭けている連中もいた。

「行け、トム! 薪みたいに腕を折っちまえよ!」

 ほとんどの歓声は、トムと呼ばれた男の方へ向けられていた。

 外見だけを見れば、このトムの方がいかにも喧嘩慣れしているような荒っぽさがあり、威嚇するような怒声をすぐに出すので、目立つ。対するアナトールは静かで、取っ組み合いの勝敗に賭けるには、少し綺麗すぎる顔をしていた。


 長年の経験から、アナトールはいくつかのことを学んでいる。

 勝つだけなら簡単だ。

 問題は、どう勝つか、だった。

 これからしばらくこの街に居続けたいなら、なおのこと、アナトールはこの喧嘩の結果が今後の待遇に大きく影響してくるのを分かっていた。

 あまり長引かせてこのトムを苦しませると、どこからか恨みを買うことにもなりかねない。血を流させるのもまずい。これは本能的に、人間を悪い方に興奮させるからだ……自分も含めて。

 多分、出来るだけ短い間に、一気に気絶させてしまうのが最も賢いやり方なのだろう。


 またも息巻いて殴り掛かってこようとするトムをかわしたアナトールは、そのまま重心を変えて、素早く相手のみぞおちに強い拳をめりこませた。

「うぐっ」

 と声を上げたトムは、そのまま倒れるかに思われたが、ふらふらと腹を抑えながらまだアナトールに反撃しようと目をぎらつかせている。

 しかし、その動きは鈍かった。次にどこを狙ってくるのか、嫌でも予測できてしまうような、ゆっくりした動きだった。──少なくとも、百戦錬磨のアナトールを相手にするには、遅すぎる動きだった。

 アナトールはまだトムが姿勢を立て直す前に、すでに最後の一発を放った。

 素早い拳が右顎に打ち込まれて、トムは射られた鳥のようにドサリと地面に転がり落ちて、ピクピクと少し痙攣したのち、動かなくなる。すべては一瞬の出来事だった。

 あっけないくらいの。

 姿勢を戻したアナトールは、周囲の人垣を見回した。

 どの顔も、最初はただ単に呆ほうけているだけだ。なにが起ったのかすぐには理解できなくて、安酒を片手に、目を見開いている。

 息を整えようとしながら、アナトールは早くこの場を立ち去りたいと思った。

 男たちはきっと、アナトールを賞賛するだろう。

 あれは見事な拳だったと言って、アナトールの早さと強さを褒め称えて、酒をおごったりするのだ。夜の地面に投げ出されたトムとかいう男を無視して。

 アナトールはそんな賞賛、微塵も欲してはいない。しかし案の定、しばらくすると群衆の中から数人の男達が、アナトールに近寄ってきた。

「すごい拳だったな。なぁ、なにが起きたのか分からなかったぜ!」

「トムの奴は反撃する機会もなかったな。こんな喧嘩初めて見たよ、おい」

 そんなことを次々と口にしながら、力なく横たわっているトムをまたぎ、アナトールの隣にやってくる。遠巻きだった人垣は、すぐにアナトールを囲うように近づいてきた。

 しかしアナトールは、出来るだけ慇懃に周りの褒め言葉に短い礼を言いながら、前へ進もうとした。

 どこかへ。

 どこかへ帰りたかった。

 どこでもいい。もう、誰もいない安宿のさびれた部屋には戻りたくない。


 アナトールは男たちの人波をかいくぐって、乾いた夏の夜道に足を向けようとした。とにかくここを離れたかった。離れるべきだった。

 心臓が鎖骨を叩くように強く打つ。

 いつもこうだ……戦った後というのは、アドレナリンが湧いて興奮すると同時に、身体が「もっと」を要求する。それは、生存本能が生き残ることを主張して次の戦いに備えているだけなのかもしれないし、本当のアナトールは血に飢えた獣だということなのかもしれなかった。

 それでも、アナトールは自分を抑える道を選んだはずだ。

 そのつもりだったんだ──ちくしょう!




 エヴァが息を切らしながら『シザーズ』へ向かっていくと、軒のテラスの先に興奮した男たちの人だかりが見えた。それがなにを意味するのか分からないほど、エヴァは世間知らずではない。きっとアナトールとトムの喧嘩を皆が囲んでいるんだ。

 エヴァは人垣に向かって急いだ。

 とにかく、一刻も早くアナトールを見つけたかった。

 心配しているわけではないとジョンには言ったけれど、それでも心の何処かに不安が渦めいているのも、隠しきれない事実だった。トムには勝ったとしても、怪我をしている可能性もあるし、誰か他の男がトムに加勢する可能性だってある。


 その時だ。

 男たちの群衆をかきわけるようにして、周囲から頭一つ背の高い影が、エヴァに向かって出てきた。

 ──本当は、エヴァに向かっていたわけではなくて、彼の出てきた方向に偶然自分がいただけだと、分かっている。でも、アナトールの黒い影はまさに、エヴァのいる方に真っ直ぐ進んできた。

 外は暗かったが、『シザーズ』からの明かりのお陰で彼の姿ははっきりと見えた。よかった、怪我はないようだ。

 しかし、こちらに進んでくるアナトールの表情を見て、エヴァは少なからず緊張した。

 彼の瞳と視線が、どこか、この世ではないところを見ているように虚ろだったのだ。

「アナトール……」

 エヴァが彼の名を呟くと、アナトールはハッとしたように顔を上げて、数フィート先に佇んでいる彼女を見据えた。

 あの、いつもエヴァを見つめる、不思議な視線だ。


 一瞬、エヴァは呼吸の仕方を忘れた。


 群衆が遠巻きにこちらを見ているのが分かる。酒場の喧噪と音楽も、遠くから漏れるように聞こえてくる。そのどちらも、今のエヴァにはどうでもよかった。

 肩をこわばらせながら、エヴァは黙って立ちすくんでアナトールを待った。

 アナトールは、大きな獣のようなゆっくりとした足取りで、静かにエヴァへ向かって歩いてくる。

 怖いとは思わなかった。

 でも、なぜかエヴァは悲しくなった。

 彼の顔から、その感情を読み取るのは難しい──見たこともない表情だったからだ。それでも、今のアナトールが、トムに勝ったことを喜んでいるわけでないのは明らかだった。

「アナトール……大丈夫?」

 エヴァができるだけ穏やかな口調でそうささやいたとき、アナトールはすでに彼女の目の前まで来ていた。

 彼は答えなかった。

 ただ、静かにじっとエヴァを見下ろして、彼女がもっとなにか言うのを待っているように感じられた。エヴァは自分から一歩前に進み、慎重にアナトールの腕に触れる。

「置いていってしまって、ごめんなさい。もう帰りましょう?」

 すると意外にも、アナトールは黙ってうなずき、誘導するエヴァの手と言葉に従って足を前に出した。



 帰り道は、途中までずっと静かなままだった。

 二人は特にこれといった口を利かず、お互いがお互いの思考の殻の中に閉じこもったまま、機械的に足だけ動かし続けている。

 そして、やっとエリオット牧場の柵が見えてきた辺りで、先に口を開いたのはアナトールの方だった。

「悪いけど、君は先に帰ったほうがいい」

 そして、アナトールはその場で立ち止まって、それ以上動かなかった。エヴァはアナトールを振り向き、どう答えていいのかわからず、しばらく呆然とした。

 彼は両手をズボンのポケットの中に入れ、そのままの姿勢で踏みとどまっている。

 エヴァは口をきゅっと結んで、彼の台詞がなにを意味するのか咀嚼そしゃくしようとした。『悪いけど』。

 それは……

「もう、ここにいることはできないという意味……?」

 エヴァは出来るだけ傷心を隠し、平穏を装って言ったつもりだったけれど、声はわずかに震えてしまっていた。

 たった一日だけ。

 手紙を綴り合った四年間はあれほど長く、お互いの気遣いや愛情に溢れていたのに、現実はたったこれだけで終わってしまうかもしれないなんて。

 でも、それはエヴァの嘘のせいなのだ。

 二人は暗闇で向き合い、黄色くて淡い月明かりの下でまっすぐに見つめ合った。

「違うよ、言葉通りの意味だ。君は先に帰った方がいい。俺はもう少し……頭を冷やしてから家へ入るから」

「どうして?」

「『どうして?』」

 アナトールはエヴァの疑問を繰り返した。

「なぜなら、俺がケダモノだから。なぜなら、おれが血に飢えた化け物で、君になにをするか分からないから……だよ」

 自分をわざと嘲あざけるようなアナトールの口調に、エヴァは首を横に振って否定した。

「そんなことないわ」

 今度はアナトールが首を振る番だった。

「どうしてそんなことが分かる?」


 なぜなら、わたしは四年間あなたの心を覗いてきたから。

 なぜなら、あなたほど自分を抑えることができて、人を思いやることができる人は他にいないということを、わたしは知っているから。


 そう、ここで告白することができたら、どんなにいいだろう。

 しかしエヴァは、それ以上なにも言えなかった。どうやって告げていいのかも分からなかったし、なぜか、今はその時でないような気がしたのだ。

 しばらくすると、

「戦った後というのは」

 と、アナトールは乾いた声で絞り出すように言った。「誰でも興奮する。アドレナリンが出て、心臓が高鳴って、神経が高ぶる。誰でもそうだ。それだけなら普通だ」

 エヴァは理解した、というように首を小さく縦に振った。

 アナトールは続ける。

「でも俺の場合は、これが特にひどい。昔からそうだった。戦地でも同じだった。だから、君に側にいて欲しくない。俺の言っている意味が、分かるだろう?」

 最後は懇願するような口調になって、アナトールはそう言い切ると、ポケットの中に隠していた拳を強く握った。

 ──ええ、分かるわ。

 エヴァは口にさえしなかったけれど、さらに数回、わずかに頷いてみせた。

 アナトールも頷いてみせた。

 そして彼は黙って、エヴァがこのまま立ち去るのを待っているようだった。重い沈黙がしばらく流れて、アナトールの視線にだんだんと苛立ちが現れてきたとき、エヴァはもうたまらなくなって、静かに告げた。

「一緒に帰りましょう」

 アナトールは動かなかった。

「一緒に帰って、テラスで涼みましょう。大丈夫。決闘した後の雄牛たちと比べれば、あなたは本当に紳士的よ」

 アナトールは少し笑って、片足で地面を蹴ってみせた。

「信じてないのね? 本当よ。柵を壊したり雌牛に襲いかかったり、それはひどいものなんだから」

「それこそまさに、俺がやってしまいそうなことだ」

「本当にやるなら、もうやってしまっているはずよ、アナトール・ワイズ。でもあなたはこうしてわたしの前に立ってる。だから大丈夫」

 そして、エヴァは付け足した。「信じて」


 夜空に小さな星がいくつもきらめいていた。どこかこの国の遠いところで、今もまだ戦争の傷跡に苦しんでいる男たちがいるのだろう。

 でも、今、エヴァは目の前にいるたった一人の男性にだけ、慈しみを感じていた。

 エヴァは微笑んで、もう一度呟いた。

「一緒に帰りましょう、アナトール」

 今度は、アナトールは頷かなかった。しかし、かといって否定もしなかった。

 ただ静かにエヴァを見つめ続けたのち──なにが起きたのか、エヴァには分からなかったくらいの早さで、彼女の身体をぎゅっと抱きしめていた。

「ア……アナ……」

「君が悪い」

 アナトールはエヴァの首元に顔をうずめたまま、呟いた。

「君が悪いんだ……今だけ、こうさせてくれ」



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