11. "Scissors" (3)



 アナトールは一歩下がって、自分の肩に置かれた無作法な手を見下ろした。

「よお、色男じゃねえか」

 わずかに赤みがかった顔をした大柄な男が、ニヤニヤと挑戦的な笑みを口元に浮かべながら、アナトールとエヴァのすぐ後ろに立っている。

 年は三十代後半くらい……乾いた茶色の髪とつり上がった目元が目につく、間違っても、天使のような容貌とはほど遠い、荒くれ者風情の男だった。

 再び、アナトールは自分の運命を呪わなければならなかった。

 そして、すぐに熱く沸き上がってくる血を止めるのに、そうとうな自制心が必要になるのを分かっていた。

 戦うな。

 アナトールは自分に言い聞かせた。ここは戦場じゃない。

「この辺では見ない顔だな。まだ夜は始まったばかりじゃねぇか、どうしてもう席を立つ? 俺たちの街の酒は不味くて飲めないってわけかい?」

 こういう輩やからは、喧嘩のための喧嘩を探しているのであって、理由などどうでもいいのだろう。ただ多くの雄動物がそうするように、自分の縄張りに入ってきた新しいオスと戦わなければ気が済まない、そんな単純な動機があるだけで。

 アナトールは背筋を伸ばし、できるだけ穏やかな表情を顔に張り付けた。

 つもりだった。

「疲れているだけなんだ。この場所に文句をつける気はない」

「へっ、そう言うと思ったぜ……しかし俺には分かる。あんたは始終、俺たち街のモンを蔑むような目で見てやがった」

 男は挑発のために、アナトールをさらに強く掴んできた。

 しかし、男は、アナトールの肩が想像以上に固く逞しいのに気が付いて、一瞬だけ顔をしかめてみせた。

 それはそうだろう。

 アナトールはこの肩で四年間もライフルを担ぎ続けてきたのだ。

 ここで男が諦めてくれるのをわずかに期待したが、当然、この血の気の多そうな荒れくれ者が、目の前に現れた獲物を逃そうとするはずはなく。

「外に出ろよ、色男」

 男はギラついた目でそう促した。

 アナトールは、今この場で騒動が始まるのを懸念していたから、外に出ろという申し出はなかなか行儀のいい振る舞いだと、内心安堵していた。これで一つだけ心配が減ったからだ。

 外に出るなら、エヴァを傷つける可能性がずっと低くなる。

 アナトールはエヴァよりもジョンの方へ視線を移し、なるべく抑えた声で、口早に言った。

「彼女を家まで送ってくれ。俺もすぐに帰る」

 ジョンは少し迷ったようだが、男同士で伝わるものがあったのだろう、「ああ」と答えると、エヴァの肩を抱いた。

「おいで、エヴァ。僕たちは先に帰ろう」

 ジョンはささやいたが、もちろん、エヴァはすぐにはうなづかなかった。アナトールは出来るだけエヴァの方を見ないようにしていたが──それが彼女の安全に繋がると、分かっていたからだ──彼女がジョンに抵抗しようとしているのを、すぐに感じた。

「でも……」

 エヴァは当惑した声で呟く。

 多分、ジョンも彼女もこの荒れくれ男の正体を知っているはずだ。こういう男は、どんな街にもいる。

 どんな軍隊にも。

 なにか彼女を安心させられる言葉を掛けたかったが、それをすると男が逆上したり、エヴァの方に絡んできたりする可能性があるので、アナトールはあえて黙っていた。

 エヴァは賢い。

 アナトールの無言のメッセージに、すぐ気が付くはずだ。

「ほら、エヴァ、もう行こう。ここは大丈夫だよ」

 もう一度ジョンがエヴァの肩を抱き寄せながらそう促すと、彼女はまだ納得しきれない様子でアナトールを見つめていたが、最終的にはジョンの助言に従った。


「ええ……」


 そうだ、エヴァならそうするだろうと、アナトールにはなぜか分かっていた。




 五分ほど歩きはじめたところで、やはり、エヴァの足は後悔に動かなくなった。

 エヴァの手を引いて歩くジョンはといえば、『シザーズ』を出てからずっと無言で、固く一文字に口を結んだままだ。

 歩調も不自然なくらい早くて、いつもの彼の気遣いを感じられない。

 エヴァは立ち止まって、ジョンが振り向くのを待った。

「エヴァ?」

 案の定、ジョンはすぐに後ろを振り返ってエヴァを見下ろした。ジョンに恨みがある訳ではない……しかし、エヴァは彼に反抗的な視線を向けて動かなかった。

「わたし、戻らないと。あんなふうにアナトールを置いていく訳にはいかないわ」

 決意のこもったエヴァの声を聞き、ジョンは短いため息を吐きながら、片足で地面を軽く蹴ってみせた。

「これは彼が頼んできたことなんだよ、エヴァ。彼なら大丈夫だ。トムは喧嘩っぱやいし、それなりに強い。けど、酔ってたし、つい先月まで前線にいた彼が、負けるとは思えないな」

「勝ち負けの心配をしているんじゃないの」

 言いながら、エヴァは今朝、アナトールがヴィヴィアンの熊手を受け止めたときのことを思い出していた。

 ただの街の不良であるトムに、あのアナトールが負けるとは考えられない。

 心配なのは、彼が戦わなければいけないという、その事実に対してだった。

 アナトールは気にしていた……『君たち姉妹を怖がらせてしまうような物言いをするかもしれない』。

 そう言って、出来るだけ人間らしく振る舞おう、とまで言い加えて。

 エヴァが唯一、アナトールの帰還に罪悪感を感じないでいられた理由は、この穏やかな田舎が、戦争で傷ついた彼の心と身体を癒す助けになると信じていたからだ。

 こんなふうに、最初の夜から喧嘩を始めるためじゃ、ない。

「わたしは戻るわ、ジョン。アナトールと一緒に帰るから、あなたは家へ戻っても大丈夫よ」

 くるりと向きを変えると、エヴァはジョンの手を振り離してもと来た道へ戻ろうとした。しかし、急に彼の手が強くエヴァを引き止める。

 驚いて顔だけ振り向いたエヴァが見つけたものは、見たこともないほど真剣な親友の瞳だった。どこか切羽詰まっているようにも見える、ひたむきなジョンの視線。

「ジョン……?」

「彼はいったい何者なんだい?」

 エヴァの手をさらに強く握りながら、ジョンは固い口調でそう問いつめてきた。

「なんで彼のような人間が急にエリオット牧場で働くことになるんだい? 彼は街の者でもないし、この土地に愛着がある訳でもないらしいし。変じゃないか」


 事情を知らなければ、ジョンの疑問はもっともだと言えた。

 そして、ジョンはいつだって、女二人で牧場を切り盛りしているエリオット姉妹を助け、気にかけてくれていた。守ってきてくれた。

 そこに突然現れたアナトールに、ジョンが警戒心を抱くのは当然かもしれない。まったくの赤の他人であるうえに、よそ者で、戦争から帰ってきたばかりの若い男。得体の知れない独り者。結局のところ、それがアナトールなのだから。


「彼は、戦争が始まる前に……うちで働いてくれるはずだったの」

 エヴァは一部だけの真実を話した。

「それは聞いたよ。四年前にそんな話があったのも、なんとなく覚えている。でも、働き始める前に戦争が始まってそれきりだったはずだ」

「それは……」

 エヴァが口ごもると、ジョンはまくし立てるように言葉を早めた。

「絶対におかしい。 将校にまでなったなら、こんな田舎まで戻ってこなくても、もっといい働き口が別にあったはずだ 。彼の君を見る目を見たかい? まるで……」

 ここで、ジョンは一息置いた。続きを言いづらくて、もっと穏やかな表現はないかと探しているようだった。

「まるで、昔から君を知っているような目だ。まるで君を追ってきたような」

 エヴァは驚いて目を見開いて、ジョンをまっすぐに見つめた。

 そんなふうに考えたことはなかった──もちろん、アナトールがよく自分をじっと見ていることは分かっていた。でも、それが他人にそんなふうに見えるとは、思ってもみなかったことだ。

 なんて皮肉なんだろう。

「違うわ」

 と、無意識にエヴァの口は動いていた。

「違うの……もしアナトールが誰かを追ってきたというなら、相手はヴィヴィアンよ。その、二人は、戦争中も文通をしていたの」

「文通をしていた?」

 信じられないとでも言いたげに、ジョンはその言葉を鸚鵡返しにした。エヴァだって、自分の言ったことが信じ難い嘘だと、よく分かっている。しかしアナトール本人にさえまだ真実を告げられないのに、ジョンにそれを告白する訳にはいかなかった。

 まるで埃が目に入ったようにエヴァは何度か目をぱちぱちと瞬きながら、できるだけ少ない嘘で、上手く説明ができないものかと考えを巡らせた。

 ああ、そんな器用なことが出来れば、そもそもこんな状況には陥っていないかもしれない。

「た、ただの、何気ないやり取りよ。近状を知らせ合うだけの……」

「あのヴィヴィアンが? 彼と?」

「そうよ。戦争中だもの、こういうことも」

 あるわ、と、エヴァは自信なさげに呟いていた。

 こんなふうにジョンに嘘をつくのは初めてかもしれないと、エヴァは後ろめたさを感じたけれど、それでもまだ本当のことは言えなかった。

 ジョンはしばらく黙って、まるでエヴァを初めて見るような目で、見下ろしていた。その沈黙の間ずっと、彼はなにか考えを巡らせているのがエヴァには分かったが、あえてそれに口を挟むことはしなかった。

 そして、ジョンはぽつりと呟くように言った。

「僕は馬鹿じゃないんだよ、エヴァ」

 エヴァは急に胸が苦しくなるのを感じて、短く息を吸った。なぜか続きを聞きたくないと思った。しかしジョンは続ける。

「そして、男だ。男はね、家族でもない、好きでもない相手と文通したりはしないんだよ」

 エヴァはなにも答えられなかった。

 彼自身が言うとおり、ジョンは馬鹿ではない。商売をする家に育った子供独特の、人の心を読む上手さがあって、勘も鋭い。彼がすでに真実を悟ったとしても、不思議ではなかった。

「わたし、戻らなくちゃ」

 なんとか背筋を伸ばしたエヴァは、そう言いながらジョンの手を振りほどいた。

 ジョンの瞳が、全身が、傷ついたように固くなるのを感じたが、エヴァは彼からゆっくり一歩離れて、『シザーズ』の方へ足を向けた。

「エヴァ!」

 ジョンの声が、立ち去ろうとするエヴァに向けて上がる。

「僕は君に傷ついて欲しくないだけだ。彼とは関わらない方がいい。複雑な事情があるなら、なおさら」


 ──そうね、ジョンは正しいのかもしれない。


 エヴァにはそれが分かっていた。でも、もう、アナトールの元へ戻らなければいけないと思う自分を止められないのも、よく分かっていた。


 駆け出したエヴァのスカートが宵闇にひらめくのを、ジョンは歯を食いしばりながら見つめていた。



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