10. "Scissors" (2)



 『シザーズ』の明るい喧噪は、この平和な田舎街を象徴しているようだとぼんやり考えながら、アナトールは擦り傷だらけのグラスに注がれた酒を眺めていた。


 年月の流れに濃く変色した木製のテーブルと椅子が、乱雑に並んでいる。

 壁板は疲れた色をしていたが、あちこちに新しい絵や写真が飾られていて、古くさい感じはしなかった。男たちは陽気に声を上げて笑い、歌い、くだらないジョークを交わし合って、ウェイトレスの女性とからかい合っていたりする。

 カウンターの奥に並んだ酒の種類は多くなかったし、安い銘柄がほとんどだったが、客の回りはいいようだった。


 平和だ。

 どうしようもないくらい、穏やかな世界。


 実際の酒場は声と音楽に溢れ返っていたが、アナトールに感じられるのは「静けさ」だった。

 鉄の音がしない。

 あの重い軍靴の足音も聞こえない。

 男たちの大声も、戦場で聞くそれとは全く違っていた。とげとげしさがなく、本当に旨いから飲んで、本当に楽しいから笑っているという感じだ。

 戦場の酒場では、兵士たちは死の恐怖に対抗するために笑う。酒を飲むのは、その恐怖を少しでも遠ざけたいからだった。

 そしてアナトールは、まだ自分がこの『シザーズ』の明らかな部外者であるのを、肌で感じていた。

 よそ者であるだけではなく、この場の平和で穏やかな空気に、自分はまだ溶け込めていない。アナトールの脳裏にはいまだに塹壕で聞いた爆音が響いていて、右手は気がつくと銃の存在を探している。神経はつねに緊張していて、どこかに敵がいないか絶え間なく探している始末だ。

 それがアナトールの世界だった。

 前線から離れてすでに一ヶ月近く経っているのに、アナトールの身体にはまだ、きな臭さがまとわりついている。身体だけではない。心にまで。


 それでもアナトールがこの場に留まっていられる理由はただ一つ、自分の目の前に座って紅茶を啜っている女性──エヴァ・エリオットだけだった。


 エヴァは姉から預かったという手紙を店のバーテンダーに渡したあと、アナトールとジョンの座っているテーブル席に戻って来て、空いている椅子に腰を下ろした。

 一連の動作はぎこちなくて、時々「なにか」を気付かれないように、アナトールを注意しているように見えて仕方がない。


(くそ……)


 アナトールは自分と、自分の運命を心底呪った。

 どうして、彼の人生には、安息というものがないのだろう?

 戦争は終わった。

 アナトールは四年間、恋文にも似た手紙のやり取りで、心を通わせ合ったと思っていた女性の元に帰ってきた。すぐに恋人同士とはいわないが、なにか、もっと心が安らかになる関係を夢に見ていた……はず、なのに。

 まったく他人行儀なヴィヴィアン。

 そして、どういうわけか、妹のエヴァはその一挙一動でアナトールの心をかき乱してくれる。


 今もそうだ……。

 ジョンと呼ばれたひょろ長い男と歓談しながら、音楽に耳を傾けて、時々アナトールの方に視線を投げるエヴァ・エリオットは、彼の心をかき乱している。


 彼女のただ、さりげなく髪を耳の後ろに掛ける仕草を見るだけで。

 アナトールがなにを考えているのか知ったら、彼女はそれこそ裸足で戦場まで逃げて行ってしまうだろう。




 ほんの数語でもいいから、アナトールに掛けるべき適当な台詞があればいいのに、とエヴァは思った。

 運良く見つかった空席にジョンとアナトールと共に腰を下ろしたあと、男二人は酒を、エヴァは好きな紅茶を頼んだけれど、味などさっぱり分からなかった。


 最初から予想していたこととはいえ、ジョンとアナトールがすぐに打ち解けるということはなく、二人の男の間には見えない厚い壁があるようだった。

 人懐こいジョンは数回、アナトールに気軽な質問を投げかけていたが、アナトールの返事がイエス・ノーの二者択一の域から出ないに至って、徐々にやる気を失ってしまったようだ。

 今ではただジョンとエヴァがいつも通りに会話し、アナトールは一応会話を聞いている素振りを見せているものの、心は遠いどこかにあるのが明らかな状態だった。

 遠いどこか……。


(ヴィヴィアンのことを、考えているの?)


 エヴァの心もまた、ジョンとの会話ではない所にあった。

 ただそれは、「遠いどこか」ではなくて、エヴァの目の前に座っている男性にある。

 それでも慣れ親しんだジョンとの会話はやはりそれなりに楽しくて、エヴァは時折アナトールに視線を向けながら、牧場の近状などを話し合っていたのだけれど。

 でも。

 どうしたって、アナトールのことを気にせずにはいられない。


 今夜の彼は清潔な白いシャツを着ていた。

 あらためて彼の顔を見る。

 真っ直ぐに伸びた長い眉はくっきりとしていて、その下の漆黒の瞳を強調していた。彫りが深い顔立ちで、男性的な顎も今は綺麗に剃られている。

 彼の黒髪は日差しのせいか少し焦げ茶に焼けていて、あまり長くはない。そして、彼の一挙一動……。


 アナトール・ワイズは明らかにこの場にとけ込んでいなかった。

 まるで猫の群れに放り込まれた虎のように、周囲はアナトールの存在を警戒していて、アナトールはといえば、生きる世界の違う動物を見るような目で、周囲を観察している。

 早くもエヴァは、アナトールをここに連れて来てしまったことを後悔していた。


 元はといえばヴィヴィアンの馬鹿げた策略のせいなのだが、強く否定できなかったのは自分だ。長い間してきた手紙のやり取りで、アナトールのことを理解しているのは自分の方なのに。

 アナトールはまだ、こんな普通の平和にすぐにとけ込める準備ができていないのだ……と、思う。

 交わした手紙の中には、戦場のようすを綴ってくれたものもあった。彼が心に傷を負っているのを、よく分かっているはずだった。アナトールはあまり好んでその話をする訳ではなかったが、たぶん、他に書くもののない時もあったのだと思う。彼はいつだって、控えめではあったけれど、前線でなにが起っているのか知らせてくれた。

 戦友の死を知らせてくれた手紙では、こうだ。


『親愛なる君へ


 今日は、あまり明るい話題を書けなくてすまない。

 昨夜、ジャックが亡くなった。覚えているかな。何度か彼と馬鹿げたことをしたのを話した、私の友達だ。

 具体的なことは書けないが、彼の死は間違いなく英雄そのものだった。彼のお陰で、多くの兵の命が救われた。私も救われたうちの一人だ。


 彼のいなくなった野営地に戻り、今、一人でこの手紙を書いている。外ではまた遠くから銃撃の音が聞こえてくるが、これはもしかしたら、私の空耳かもしれない。

 ジャックには故郷に両親がいて、彼の帰りを待っている恋人もいた。

 私には誰もいない。

 どうして神はジャックを選んだのだろう。私にすればよかったんだ。そうすれば誰も泣かないですんだ。不条理に怒りを感じる。

 ただ、どういうわけか、一緒に野営地の火を囲みながら家族の話をしていたジャックの穏やかな顔を思い出すと、怒りは悔しさへと流されていってしまう。

 少なくとも、君は元気だろうか。

 君の無事を祈る。


 アナトール・ワイズ』


 確か、エヴァがはじめてアナトールに「帰ってきて欲しい」という趣旨の返事を書いたのが、この手紙を受け取ったすぐ後だった。

 アナトールの手紙は、最初から素朴でまっすぐで、飾った言葉をあまり使わなかった。でも、どういうわけかエヴァには、いつもアナトールの思いが手に取るように感じられて、彼が喜んでいれば自分も嬉しかったし、彼が苦しんでいれば、エヴァも苦しかったものだ。

 この手紙を受け取ったとき、親友を失った彼の心の痛みを、エヴァは自分の心の中にも感じた。

 そして、『私には誰もいない』。

 そう思っている彼に、そんなことはない、あなたにも帰りを待っている人がいるんだと、どうしても伝えたかったのだ。

 ──その結果が、今のこの混乱でもあるのだけれど。

 とにかく、アナトールが辛い四年間を生き抜いてきたのはエヴァが一番よく知っているはずだった。気軽に大勢が集まる酒場などに連れてくるべきではなかったのに、エヴァは状況に流されて、彼に気まずい思いをさせている。

 エヴァは、なにか気の利いたことを言って、アナトールを落ち着かせてあげたかった。

 もしくは、適当な理由を見つけて、早くここを出るべきだ。


 アナトールのグラスの酒が減ってきた頃合いを見計らうと、エヴァはおもむろに背筋を伸ばし、テーブルの上にあったジョンの手に自分の手を乗せた。

「わたし、その、少し酔ってきたみたいなの。明日も仕事は早いし、そろそろ帰ろうと思うわ」

「酔う?」

 ジョンが怪訝な顔をした。「紅茶に酔う人間がいるとは知らなかったよ」

「そ、その……周りの匂いに、よ。時々そいういうことがあるの」

 そして、エヴァはアナトールの方を向いて、首をかしげて見せた。

「もう帰ってもいいかしら? あなたもまだ旅の疲れが残っているでしょう?」


 アナトールはまっすぐエヴァを見据えていたが、すぐには答えなかった。彼はどこか、驚いているようにさえ見えた。

 すぐにジョンが口を挟む。

「彼はまだ飲みたいんじゃないかな。僕が送ろうか?」

「いや、俺も帰るよ。確かに疲れているみたいだ」

 間髪を入れず、アナトールはグラスを机の上に置くと立ち上がって、エヴァが一緒に立ち上がるのを期待するように待っていた。エヴァは立ち上がって、アナトールの隣に移動する。

 二人は、意識せずとも腕が触れい合いそうな微妙な距離に、並んで立った。

 ジョンの驚いた目が、そんな二人を交互に見回す。


「邪魔……したのかな」

 傷ついたような声を、ジョンは絞り出した。


「いいえ、ジョン、楽しかったわ。ただ、アナトールはまだ今朝ここに着いたばかりだし、わたしたち疲れているだけなの。また来週にでも一緒に飲みましょう?」

「それは、もちろん……」

「ね、行きましょう、アナトール──」


 と、エヴァがアナトールに声を掛けたところだった。

 突然、二人の背後に大きな影がぬっと現れて、毛だらけの太い腕が無作法にアナトールの肩をわしづかみにした。


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