09. "Scissors" (1)



 長い夜になりそうな気がして、エヴァの心はだんだんと沈んでいった。

 あれから二人はほとんど口もきかずに夜道を歩き続け、気がつけばすでに街の明かりが見え始める場所まできていた。とくに『シザーズ』の夜は賑やかだから、遠くからでも喧噪を感じることができる。

「あそこよ」

 と、エヴァは前を指差した。

 その先には、煌煌とした明かりが窓から漏れる、木造の平屋があった。

 正面の入り口前に低いテラスがあって、上から吊らされたハロゲンランプに照らされながら、数人の男たちがたむろしている。

 アナトールはわずかに眉をしかめて見せた。

「あそこに一人で行くつもりだったのか?」

「ええ。どうして?」

「君みたいなのが一人で夜中に行く場所じゃない」

 断定に満ちた口調だった。

 エヴァは街で唯一の居酒屋をあらためて眺め、そしてアナトールに視線を戻した。アナトールがなにを考えているのか、エヴァにはなんとなく感じ取ることができて、思わずぷっと吹き出してしまった。

「大丈夫よ、アナトール・ワイズ。確かに外観はひどい見てくれだし、看板も落ちかけてるけど、中は明るくて清潔よ。あそこで騒いでいる人たちも大丈夫。大声を上げてるけど、猫が虎の真似をしているだけで、害はないの。子供の頃から知っている人たちばかりだもの」

 しかし、アナトールは眉をしかめたままエヴァに向き直った。そして小声で呟く。

「そういうのが一番質が悪いんだ」

「え?」

「なんでもない」

 そうは言ったが、彼の表情はなにか納得のいかないものを含んだままのようで、少し子供っぽかった。エヴァはなんだか可笑しくなって、今まで引きずっていた心の重みが少し取れたような気がして、顔をほころばせた。

「誰もあなたをとって食おうなんてしないから、心配しないで」

 エヴァは冗談のつもりで言ったのだが、今のアナトールには通じないらしい。

「俺のことはどうでもいい。自分の身くらい自分で守れる。問題は君だ」

「わたし……?」

 問題呼ばわりされて傷ついたのと、心配してくれているのかもしれないという甘い期待とが、エヴァの中で渦巻いた。ついさっき、君には関係ないと突き放されたばかりだったから、そんな小さいことにまで救いを求めてしまう自分がいるのが、分かる。

 いよいよこの一人芝居も、泥濘ぬかるみにはまったようになってきた。

 エヴァの立場を考えれば、こんなふうに彼の一挙一動に動揺していていいはずがないのに。

「……わたしのことは、あなたには関係ないんじゃなかったの?」

 つい、エヴァは心にもないことを口走った。

 途端にアナトールの表情が変わる。

 夜の暗さのせいでよく見えないが、顔色さえ少し変化した気がした。彼は鋭いから、今のエヴァの台詞が、さっきのアナトールの言葉への当てつけであることをすぐに察したようだった。


「さっきのは、そんなつもりで言った訳じゃない」

 アナトールは怒っているようだった。


 肩が強ばって、半袖のシャツから覗く二の腕が躍動するのが見える。ヴィヴィアンの熊手を顔色一つ変えずに受けた彼の腕だ。力強くて、雄々しくて、その気になればエヴァなど簡単に組み伏してしまえるのだろう。

 実際、アナトールはそうしたいのを厭々我慢しているようでさえあった。

「俺は……まどろっこしいことはせずに、正直に話してくれと言いたかっただけだ。君がヴィヴィアンに代わって俺に何かを言う必要はない、と」

 そして、アナトールはまた、あの真摯な瞳でエヴァを見下ろしていた。

 答えを。

 返事を求められているのだと、エヴァは本能的に理解した。そしてエヴァも、今すぐ本当のことをすべて洗いざらい言ってしまいたい衝動に駆られた。


 アナトールは許してくれるかもしれない。

 エヴァの嘘を許してくれるかもしれない、今なら。


「アナトール、本当はわたし、」

 緊張のせいで、エヴァは息苦しくなった。しかし今しかないかもしれないのだ。

「本当はわたしがあなたに──」


「エヴァ! エヴァじゃないか!」

 エヴァが告白をし終える前に、突然、シザーズのテラスから降りてきた背の高い男性が声を上げ、こちらに早足で向かってきた。エヴァの親友、ジョンだった。

「どうしたんだい? 今夜は来ないのかと思ったのに」

「ジョン……こ、こんばんは」

 エヴァはなんとか挨拶をしたが、視線はアナトールから離せないでいた。アナトールも、ジョンには一瞬目をやっただけで、いつまでもエヴァの方を見つめている。

 嬉しそうな表情をして駆け寄ってきたジョンも、すぐになにかがおかしいと気付いたようだった。エヴァの前に立つアナトールに視線を向け、そしてエヴァに視線を戻す。

「大丈夫かい? こちらの男はなにか……君に良からぬことでも?」

「ま、まさか!」

 エヴァは慌てて首を振って、アナトールとジョンの間に立つと、二人を紹介した。

「ジョン、こちらはアナトールよ。アナトール・ワイズ少将。それからアナトール、こちらはジョン……わたしとヴィヴィアンの親友で、街の仕立て屋の看板息子なの」

 どちらの男性も背が高かったから、二人の真ん中に立つと、エヴァは自分が妙に小さくなったような気がした。

 彼らはしばらく、初対面の男同士が必ずすることをしていた。つまり、お互いを値踏みするように見つめ合ったあと、どちらからともなく手を出し合うのだ。今回、先に手を差し出したのはジョンの方だった。

「よろしく、ワイズ少将。今は、アナトールと呼んでもいいのかな」

 アナトールはうなずき、無言でジョンの手を握り返した。


 二人の男たちの出会いを前にして、エヴァは内心、穏やかではなかった。

 エヴァはどちらの男性もよく知っている。4年間、戦場で血と汗を流し続けてきたアナトール。そして、色盲のせいで召還されずに街に残っていたジョンは、アナトールのような男性に引け目を持っているはずだった。


「アナトールはうちの牧場に滞在しているの。その、その」

 その場を和やかにしたくて説明を始めたエヴァだったが、すぐに言葉に詰まってしまった。アナトールは、なんだと言えばいいのだろう? ヴィヴィアンの恋人? 友人? 4年前、牧場で働く予定だった人?

「明日からエリオット牧場で働く予定なんだ」

 そう答えたのはアナトールだった。

 エヴァは驚いてアナトールを見上げた。彼の漆黒の瞳は闇にまぎれ込んだように予測不可能で、清潔に剃られた顎は動かず、意志の強さを表しているようだった。

 ──牧場の手伝いなど、大の男が誇れるような職務ではない。

 それも、アナトールのように将校の地位まで受けた戦争の英雄が、これから小間使いのような仕事を始めるなどと、恥ずかしくて口に出来なくても不思議ではないのだ。それをアナトールは顔色一つ変えずにあっさりと言った。

 エヴァの中で、アナトールの存在がさらに大きくなった瞬間だった。


「そうか……」

 完全に納得した訳ではなさそうだったが、ジョンはアナトールの真摯な言葉に神妙にうなづいてみせた。

「それで、今夜は仕事始めに飲んでみるというとこかい? 僕が一緒しても邪魔にならないかな」

 ジョンの誘いを受けて、エヴァはまたアナトールを見つめた。

 アナトールがエヴァを見下ろすと二人の目が合って、彼はふいに優しく表情を緩めてみせた。

「まさか」


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