13. The World According to Anatole (2)



 こんなことをしていると地獄に堕ちるのかもしれないと、アナトールはぼんやりと考えながら、エヴァ・エリオットの細くてしなやかな身体を抱きしめていた。しかし、アナトールはもうとっくに地獄を見てきた。今さらそういうことを気にしてもなんの助けにもならないと、よく分かっている。

 だから彼は、腕の中にいる女性の甘い香りを、心おきなく味わうことにした。

 アナトールがさらに深く彼女の首元に顔を埋めると、彼女からはアーモンドの木のような、甘くて生気に満ちた香りがした。

 悪くない。

 いつもなら、このまま、すべてを無茶苦茶にしてやりたい衝動に駆られるはずだった。

 しかし不思議なことに、エヴァ・エリオットを抱きしめ、彼女のかぐわしい香りを吸い込み、わずかに震える身体をしっかりと抱きしめるだけで、アナトールは今までに経験したことのない安堵を胸の中に感じていた。

 どういうことだろう。本来なら、アナトールはこの興奮状態ができるだけ早く終わることだけを祈って、額に嫌な汗をにじませるものだった。

 それが今は、このまま永遠にこの瞬間が続いてくれてもかまわないとさえ思っている。

 エヴァのような育ちのいい女性を、アナトールは抱いたことがなかった。少なくともこの興奮状態でいる時には。

 彼がいままで相手にしてきた女性はたいてい、商売女であったり、男であれば誰でもいいというような世慣れした女たちだったりした。少なくとも、やはり、この興奮状態でいる時は。彼女らを卑下しているわけではないが、エヴァはアナトールが抱いてきた誰とも違っていた。

 慈しみに満ちたエヴァの香りに取り囲まれたように、アナトールは彼女の存在に救いのようなものを見いだし、安息を感じていた。

 こんな気分は初めてかもしれない。

 いや……似た気分を一つだけ知っている。

 戦場で、ヴィヴィアンに手紙を書いていたときだ。そして、彼女からの手紙を受け取り、その一文字一文字をゆっくりと読んでいたとき……。


 その刹那に、アナトールは雷に打たれたような衝撃を覚えた。

 ヴィヴィアンからの手紙。

 エヴァの温もり。

 ああ、そういうことだったのか……。


 その事実は、すぐにすんなりとアナトールの中で理解されていった。

 最初からエヴァがアナトールを気遣っていた理由も、ヴィヴィアンの冷めた態度も。エヴァがずっとなにか言いたそうにして、まごついていた理由も。すべて説明がつく。

 あの手紙を書いていたのは、エヴァだったのだ……。

 そうなるとエヴァはアナトールに嘘をついていることになるのに、なぜか怒りは湧いてこなかった。それどころか、エヴァの気遣いを知って、アナトールは彼女に対してわずかな尊敬を抱いた。

 始まりは、なんだったのだろう。

 ヴィヴィアンはあの美貌に乾いた性格だから、アナトールから届いた最初の手紙に、大きな反応は示さなかったはずだ。どこか途中から二人が入れ替わったとは考えにくい。きっと最初から、返事を寄越してきたのはエヴァの方だったのだろう。

 最初の手紙に。

 アナトールを変えた、あの、紙切れに綴られていた言葉に。

 優しいエヴァはそれを無視できなかったのかもしれない。あの時アナトールは、手紙は出したものの、ほとんど反応を期待していなかったから、ヴィヴィアンから返事が届いた時は本当に驚いたものだ。

 そして、そこに綴られていた温かい文章に、どれだけ救われたか……。


 アナトールはエリオット姉妹の嘘を見抜いて、逆に安堵していた。これで、自分のささやかな『最初の嘘』も、少しは罪が軽くなるのかもしれない。

 少なくとも、エヴァに惹かれる自分の気持ちに、罪悪感を抱く必要はなくなったわけだ。

 久しぶりに浮ついた気分になって、アナトールはこのままエヴァを持ち上げてクルクルと回ってしまいたくなった。例の興奮状態が変に作用しているのか、それとも、これが幸福というものなのだろうか?

 アナトールには分からなかった。

 ただ、ずっと目の前にあった雨雲がまたたくまに開けて、光りに溢れた清々しい場所へ送り出されたような、大きな開放感に包まれていた。

「アナトール……だ、大丈夫?」

 震えた声が耳元に届いて、アナトールはほんの少し現実に戻った。

 見下ろすと、エヴァはなんとか両手を使ってアナトールの胸を押しだし、わずかな距離をとるのに成功していた。

 こんなにいい気分なのに、どうして俺から離ようとするんだ? 内心、アナトールは舌打ちをした。

 もしかしたら実際にしてしまったかもしれない。

「俺から離れないでくれ」

 そう頼みこむと、アナトールはエヴァを抱き直した。ぎゅっと彼女の肩を抱き寄せると、柔らかい髪がアナトールの手にからむ。

 温かくてくすぐったい……ずっと覚えていたくなるような、心地のいい感覚だった。


 ──親愛なる、あなたへ

 ああ、そうだ。あれは最初からエヴァへ届いていたのだ。


「エヴァ、聞いてくれ」

 エヴァの身体が緊張したように固くなるのを感じて、アナトールはわずかに腕を緩めたが、彼女を放しはしなかった。

「俺はろくでもない人間だ。少なくとも、ろくでもない人間だった。信念も信仰もない、生きるためだけに誰にも言えないようなことを平気でやってきた人間だ」

 この告白は、エヴァを遠ざけてしまうかもしれなかった。

 しかし、いつか本当にそうなるなら、今ここでそうなってしまった方がいいのだ。情が移って、手遅れになる前に。

「戦場でもそれは変わらなかった……俺は狂犬となにも変わりなかったんだ、エヴァ。『ヴィヴィアン』からの手紙を受け取るまでは」

 エヴァの反応を確かめるように、アナトールは一言一言を区切って、ゆっくりと喋った。エヴァの顔が見たくて、アナトールは少しだけ距離をとって彼女を見下ろした。

 薄い茶色のエヴァの瞳は、不安そうに揺れている。

「彼女の言葉が俺を変えたんだ。俺を、救ってくれた」

 エヴァはなにも答えなかった。

「だから俺はここに帰ってきたんだ。俺にとって、あの手紙のやりとりはそれほど大きかった。それを分かってくれ」

 アナトールはエヴァの両頬を、すくうように両手で包んでいた。

 真っ直ぐな瞳がアナトールを見つめ返している。アナトールは返事を期待していたわけではない。今すぐここでエヴァが真実を話してくれるとも思わなかったし、それでいいと思った。

 ただ、彼女に、どうにかして伝えたかったのだ。

 アナトールにとって大切なのは、あの手紙を書いてくれた心であって、ヴィヴィアンという特定の名前でもなければ、彼女の美貌でもないのだということを。

 まだ互いに秘密を秘めたままのこの状態では、いささか難しいことではあったけれど……。

 エヴァの手が上がってきて、そっとアナトールの手に触れると、二人の影は夜の闇に溶け込んだように自然に重なった。

 彼女の唇があまりにも柔らかそうで、アナトールはそこに口づけたいのを我慢するために、想像以上の自制心を使わなければならなかった。しかし、アナトールは動かなかった。

 しばらくの沈黙ののち、エヴァはうなづいてみせた。

 アナトールもそれにうなづき返し、二人はじっとお互いを見つめながら、なにも言わないでいた。


 どうやってこれ以上話し合っていいのか、そもそも今ここで話し合うべきなのか、分からない。

 多分、今はまだ、その時ではなのだろう。

「悪かった……もう、大丈夫だ。落ち着いたから」

 アナトールはできるだけ丁寧な動きで、エヴァにからめていた腕をほどいて一歩後ろへ下がった。

「もう帰ろうか」

「え? ええ……」

 どこか拍子抜けしたように、エヴァは何度か瞳をまたたきながら、歩き出したアナトールに追いつこうと駆け出した。


 ずっと重苦しいだけだったアナトールの世界が、いくらか変わった瞬間だった。

 真っ暗だった夜空に、大きく輝く『エヴァ』という星が、現れたのだ。



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