04. Prologue



 よく晴れた暑い日だった。

 国中の誰もかれもが、強烈な歓喜をもってこの日を迎えた──四年に渡った隣国との戦争が、やっと終結したのだ。それも勝利をもって。

 苦しくなる一方だった暮らしに終焉がきたと、人々は勝利よりも、戦いが終わったという事実にたいして喜んだ。あらゆる民家に旗が掲げられ、娘たちはめかし込んで町を歩き、男たちは陽気に歌を歌い、酒を飲む。

 喜び、興奮、歓声……。町は沸いている。

 狂ったように勝利を祝う町人たちに混じって、ヴィヴィアンも噴水のある広場で祭りに参加していた。

 ヴィヴィアンの魅惑的な黒の巻き毛は後頭部で高くひとつに結ばれていて、滝のように豪華に背中まで流れている。贅沢ではないが洒落たドレスに身をまとい、夏晴れの空の下、優雅な微笑を浮かべつつみなに挨拶して回る姿は、快活な魅力に溢れていた。

 ヴィヴィアン・エリオットは、この辺りでは有名な美女だ。

 太陽のように明るく、外交的な性格で、誰からも敬愛されている。少々気が強すぎるのが鼻につくが、それを補ってあまりある魅力があった──ヴィヴィアンは、たとえ男として生まれてきていても、人々に愛されただろう。彼女はそういう種類の魅力を持っていた。

 彼女はいつだって人の中心になる……まさに太陽のような女性だ。


 エヴァはそんな姉を敬愛していた。そして、いつも羨ましく思ってきた。

 しかし今日ほど彼女を羨ましく思ったことはないだろう。


 華やかに笑顔を振りまきながら陽気な笑い声を上げている姉を、エヴァは安民宿の前に張り出している軒の影から見守っているところだった。そして、ヴィヴィアンほど勝利の日に相応しい女はいないと、ぼんやりと思う。

 エヴァはけっして不器量ではないけれど、ヴィヴィアンのような華やかな魅力には欠けていた。

 神秘的で艶やかなヴィヴィアンの黒髪に比べ、エヴァのそれはよくある薄い茶色だったし、顔立ちもずっと大人しい。

 しかし今、エヴァを悩ませているのは、彼女らの容姿の違いなどではない。

 終戦。戦いの終わり。──男たちの帰還。

 もうすぐアナトールが帰ってくるのだ。ヴィヴィアンのアナトールが。


「浮かない顔をしているね、エヴァ」

 突然後ろから声を掛けられて、エヴァは弾かれるように振り返った。すると、幼馴染のジョンの顔がある。楽しげにカールしたダークブロンドの髪に、人懐こそうな笑顔をした青年。

 ジョンは見惚れるような美形とは違ったが、ひょろりと背が高く、人好きのする顔をしている、エヴァの最も親しい友人だ。

「そういうあなたも、少し残念そうな顔をしているわ、ジョン」

 微笑みながらエヴァが言った。

 ジョンは肩をすくめる。

「僕がずっと兵役に行きたかったのは、君が一番よく知っているはずだよね」

「ええ……でも、あなたのために、戦争が終わって良かったと思うわ。戦場なんて本当は汚くて辛いばかりのところなのよ。英雄になれるのは亡くなってしまった人たちだけ」

「見てきたようなことを言うんだね?」

「実際に自分の目で見たわけじゃないわ。ただ、手紙で……」

 と、言いかけて、エヴァははっと言葉を止めた。

 いけない。

 エヴァが『彼』に手紙を書いていることは、固く守らなければならない秘密なのだ。誰にも言ってはならない──とくに、戦争が終わり、これから彼が帰ってくるであろう今は。

「手紙? 誰かと文通をしているの?」

「い、いえ……その、遠い親戚の叔父さまよ。従軍なさっていて、時々私たちに手紙をくれたの」

「へえ、知らなかったな」

 ジョンは再び肩をすくめてみせて、それから祭りの騒ぎに視線を移した。今日は無礼講だ。この華やかな騒ぎは夜まで続いて、みなが疲れ切ってベッドに倒れこむ朝方まで、街が静かになることはないだろう。

 ジョン・ウェンティスは一見健康な若者そのものだが、生まれつきの色盲だったせいで徴兵されなかった青年だ。穏かだが正義感に溢れた彼は、同じ年の青年たちがみな戦場に赴くところを一人だけ街に残されて、ずっと憤然としていた。

 しかし、エヴァのような娘からすれば、ジョンが街に残ってくれたことは素晴らしい恩恵だった。

 彼は仕立て屋の息子だったが、家の仕事が終わるとよくエヴァとヴィヴィアンの牧場を手伝ってくれていた。

 他にも、街で男手が必要になると積極的に助けに出ていたが、特によくエリオット牧場を手伝ってくれていたのは、エヴァの親しい友人だったということもあるし、将来は土地を買って牧場主になりたいという彼の夢のせいでもあったのだろう。

 なるほど、色盲で仕立て屋を継ぐのは難しい。

「僕はこれから『シザーズ』に行くつもりなんだけど、君も来るかい?」

 ジョンは気軽な感じでエヴァを誘った。

 『シザーズ』は家庭的な酒屋で、地元の音楽家がいつもアコーディオンを披露しているような、くだけた場所だ。エヴァは酒が苦手だったが、『シザーズ』だけは雰囲気が好きで、時々ジョンやヴィヴィアンと遊びに行く。

 エヴァは少し考えるふりをしたあと、微笑みながら首を横に振った。

「とっても魅力的なお誘いだけど、今日はやめておくわ。家でやらなければいけないことがあるの」

「祭りの日にかい? いつも思うんだけど、君は働きすぎだよ」

「そういう性分なのよ。でも、あなたは楽しんできてね。それからグレイ・パウダーによろしく」

「ふぅん……いいけどね」

 心底残念そうな顔をして、ジョンは口を尖らせる。「でも、手伝いが必要だったら遠慮なく言うんだよ」

「ありがとう、ジョン。私の親友」

 そう言うと、エヴァは、背伸びをしながらジョンの頬に軽い親愛のキスをして、くるりと踵を返し、小鹿のような軽快な足取りでその場を離れていった。

 人込みの中にまぎれていくエヴァの後姿を見つめながら、ジョンは長い長い溜息を吐く。

「親友……か」

 ポツリと呟かれた言葉は、喧騒に吸い込まれた。



 古典的なヴィクトリア調の家の入り口の前には、横に広い屋根付きのポーチがあって、そこへ上る五段ほどの階段がある。古いオーク材の床は、その上を駆けるとぎしぎしという乾いた音を立てたが、エヴァはかまわずに早足で駆け上がった。

 玄関を開け放つと、今朝仕込んでおいた野菜シチューの香りがエヴァを迎え入れる。手に入らない香辛料や肉があったせいで完璧とはいえないシチューだったが、それでもこれで今晩は空腹を抱えなくてすむのだから、とりあえずはそれで十分だ。

 エヴァはそのまま二階へ駆け上がった。

 自室の扉を開けると、すばやく窓際にある女性用のライティングデスクの引出しを開ける。

 中から出てきたのは、手垢で茶色くなった皮ひもに束ねられている、みすぼらしい手紙の山だった。

 それらの手紙は、ここに到着した時点ですでに汚れているのが常だったが、それ以上に、エヴァが読みすぎたせいでボロボロになっているのだった。

 ──だって読まずにはいられなかった。何度も何度も繰り返し。

 アナトール。

 彼の、誠実で、それでいて情熱的な言葉を。

 彼がヴィヴィアンに宛てた愛の言葉を。


 はじまりは誰が意図したものでもなかった──はずだ。

 ヴィヴィアンは美しくて、外交的で、いつだって彼女の周りには沢山の崇拝者がいた。アナトールはその中の一人に過ぎなかったのだ。

 戦争が始まって、その『崇拝者』たちの多くは戦場へ向かった。

 だからヴィヴィアンは沢山の手紙を戦地から受け取った。ここでもアナトールは、その中の一人に過ぎなかったのだ。少なくとも、ヴィヴィアンにとっては。

(でも、私にとっては違ったの……)

 ヴィヴィアンは快活で、家に篭って手紙の返事を書きつづけるという種類の女性とは違った。最初の頃こそ生まれ故郷から遠く離れて血汗を流している青年たちを哀れみ、ぽつぽつ返事を出していたが、それを習慣にするのは難しかった。

 だから、いつ頃からか、それらはエヴァの仕事になっていたのだ。戦地から送られてきたヴィヴィアン宛ての手紙に、エヴァが、ヴィヴィアンの名前を使って返事を書く。

 内容は、のらりくらりと求愛を交わし、それでも友人として彼らを応援するもので……そのせいか一年を過ぎた頃には、手紙を送り続けてくる者はほとんどいなくなっていた。

 亡くなったのかもしれないし、諦めたのかもしれないし、他に恋を見つけたのかもしれない。

 例外は一人、アナトールだった。

 アナトール・ワイズ。

 彼は街の者ではなく──本当に偶然、戦争が始まる直前に姉妹の住む街に滞在していて、ヴィヴィアンに出逢って恋に落ちた、らしい。

(はじまり、は)

 せわしなく高鳴る鼓動を感じながら、皮ひもをほどいたエヴァは、中から一番古い日付の封筒を探し当てる。もう四年も前から繰り返し読んでいる手紙なのに、今でも初めて読んだ時と同じ感情の高鳴りを感じることができる。

 そう、最初から、アナトールの手紙はエヴァにとって特別なものだった。

 だからこそエヴァはアナトールに対してだけ、他の青年に送る手紙よりもずっと個人的で感情に溢れた手紙を送り続けたのだ……。


 その結果が、これだ。

 エヴァは、ほとんど見たこともないアナトールに恋心を抱いた。アナトールは、エヴァの書く言葉を信じて、ヴィヴィアンへの愛を深めた。


「『親愛なる、あなたへ』」

 多くの手紙はこの書き出しではじまった。

 かすかに震える手で手紙を持ったまま、アナトールの男性らしい力強い文字を追って、読みはじめる。

「『戦場では雨が降っている……。いつも、太陽の下でも。この雨がやむまで私は君に会えない。だから私は弾丸の雨を進む……その先に君の笑顔が待っている気がして』」

 この下に小さな赤黒い斑点が染みている。

 血なのかもしれない。誰のものかは、分からないが。

「『雨はいつか止む。あとに残るのはこの想いだけだ。君を愛している』」

 エヴァは一息ついた。

 この一節を読むとき、いつも感じる甘い疼きと、苦い嫉妬……。

 アナトールの言葉を受け取るのはエヴァだったけれど、彼の想いが向けられているのは、いつもヴィヴィアンだけなのだ。手紙は続いた。

「『──いつか私は君の土地にもどり、この愛の為に尽くそう』」

 そして最後に、手紙の文字より小さく、アナトール・ワイズと署名されている。

 これが、アナトールが戦地から送ってきた最初の手紙だった。

 どちらかといえば短い、そっけないと言ってもいいほどの文量で、ヴィヴィアンはこれといった興味を示さず脇にどけていたほどだ。偶然エヴァが見つけなかったら、それきりだったかもしれない。それを考えると寒気がしてくる。

 しかし、今は。

 彼が帰ってくるだろう、今は……どうすればいい?



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