05. His Return



 祭りの翌日、エリオット姉妹は遅い朝食をとっているところだった。

「決まってるわ、答えは単純よ。彼に本当のことを言えばいいの」

「ヴィヴィアン!」

 食卓の上に積み上げられた手紙の山を見て、ヴィヴィアンはこともなげに言い放ったので、エヴァは顔を紅潮させながら抗議した。

 思慮深く、いささか内向的なエヴァに比べ、ヴィヴィアンはすぎるくらいに開放的だ。

 だから今までも、正反対の姉妹の間でいさかい事が無かったわけではないが、たいていは上手い均衡が取れていた。

 しかし今回ばかりは、最初から大きく意見が食い違いそうだったけれど。

「そんなことをしたら、きっと彼はすぐにここを去ってしまうわ。彼は土地の者じゃないのよ。彼がここに帰ってくるのは、ヴィヴィアンのためなの」

「私には、にわかには信じられないわね」

 食事の手を止めたヴィヴィアンは、本当に疑わしそうに鼻に皺を寄せながら言った。「四年前にちらりと逢っただけの相手を追って、大陸を横断するだなんて。私は毎日そばにいてくれる人しか好きになれない」

 食卓に乗っているのは味気ないオートミールだけだったが、不満には思わない。もっと蜂蜜を加えれば美味しくなるのだろうが、あいにく街中で不足しているから、姉妹のもとにも届かなかった。

 オートミールを無造作にかき混ぜながら、エヴァは注意深く続ける。

「彼を覚えている? たしか牧場を手伝ってくれる予定だったのよね」

「ええ、でも家で面接しただけよ。結局、働きはじめるまえに戦争が始まってしまって、真っ先に召喚されたからそれきりね。でも、面接したのは私だけど、あなただって家に居たでしょう」

「ほんの少し見ただけよ」

 流れ者だったアナトールがエリオット牧場に巡り着いたのは、戦争が始まる直前だった。

 二人は街で唯一の食料品店に労働者募集の張り紙を出していたのだが、ずいぶんの間、希望者はさっぱり現れなかった。両親が亡くなって以来ずっと牧場を手伝ってくれていた老人が腰を痛めて働けなくなり、窮地に陥っていたところだったから、ほとんど給金を払えなかったのが理由の一つ。ただし、寝床と食事だけは提供するという条件を付けたところ……どこからかアナトールが現れたのだ。

 よそ者。

 得体の知れない若い男。

 彼を避けるべき理由はいくらでもあったが、姉妹に選択の余地はなかった。エリオット牧場には果樹園や野菜園のほかに3頭の馬に10頭近い牛がいる。両親が存命のころは大きな事業だったが、姉妹二人では自給自足がやっとというところで、男手は絶対に必要だった。

「つまり……私の案はこうなの。アナトールが帰ってきたら、しばらくはヴィヴィアンが本当に手紙を書いていたふりをする。彼は真面目な人だし、あなたが嫌がるようなことは絶対にしないわ」

 エヴァは慎重に言葉を選んで言った。ヴィヴィアンは肩をすくめる。

「そうである事を願うわね」

「しばらくして彼がここに落ち着いてから真実を話すの。それでも彼がやっぱりここを去りたいと思うなら、それはそれで仕方ないわ。でも最初は……」

「まあ、私としても、ここで働いてくれる男手は欲しいし」

「彼を利用するつもりはないけど、でも……チャンスが欲しいの。彼に事情を説明する機会を」

 エヴァが恐れているのは、彼にすぐ真実を告げたら、裏切られたと感じてそのままエリオット牧場を離れて行ってしまうだろうということだった。姉妹して彼をもてあそんでいたように感じるかもしれない。

 時間が、必要なはずだ──。

 彼が牧場に腰を落ち着けて、冷静にエヴァの話を聞いてくれるだけの時間。お互いを知り合って、できるなら友達になって、エヴァにもヴィヴィアンにも悪気はなかったのだということを説明できるだけの時間。

「まったく……あなたが変な手紙を返したりしなければ、こんな事にはならなかったのに。言ったでしょう、思わせぶりなことは書かないでって」

「アナトール以外には書いてないわ」

「彼一人でも十分よ。ああ、神様、厄介なことになりませんように!」

 ヴィヴィアンは大袈裟に天井を仰いでみせた。

 そもそも、崇拝者たちへの手紙の返事を頼んできたのはヴィヴィアンだったのだけど、それについてエヴァは何も返さなかった。




 牧場の朝は早い。早すぎるくらいに。

 その朝は、祭りの日からすでに一週間が経とうとしていて、暑さは今まさに最高潮を迎えるだろう時期に差し掛かっていた。ひたいに落ちる汗を手の甲で拭いながら、エヴァは灼熱の太陽を見上げて立ち尽くした。

 熱い夏だ、特別に暑い夏。

 まだ朝食前だというのにこの暑さでは、昼になるまでに焼き尽くされてしまうのではないだろうか。そうでなければ溶けてしまうとか……。

 厩舎で馬に水を与える仕事を終えたあと外に出たエヴァは、牧場を横切りながら頭を振った。

 牧場の仕事はきつかったが、それでもエヴァにはヴィヴィアンという家族がいて、二人には土地がある。そのことに感謝しなければ。

 戦争は信じられないほど多くのものを、沢山の人たちから奪った。

 街に出れば未亡人や孤児がいくらでもいる。エヴァやヴィヴィアンは幸福な方なのだ。たとえ、若い女二人が牧場を切り盛りするという、昔なら考えられない状況に陥っているとしても。

 エヴァはゆっくりと深呼吸をすると、はめていた作業用の皮手袋を外して、広大な牧草地を見渡した。

 広大……というのは間違いだろうか。

 エリオット牧場は中規模で、広さといえばここから全ての敷地を見渡せる程度だ。ただ、牧場の先になだらかな丘があって、素晴らしい眺めを有している。どの季節にも素晴らしい風が吹いた。春は優しく、夏は軽快に、秋はかぐわしく、冬は静かな風が。

 目を閉じると、土の匂いがするのも好きだった。

 両親が亡くなったあと、牧場を売って街へ移ることをすすめる人は多かったが、姉妹はここに残ることを選んだ。二人とも後悔はしていない。管理は大変でも、それだけの努力をする価値がこの美しい土地にはある。

 特にあてもなく牧場の中を歩きはじめたエヴァは、時々、邪魔な雑草を見つけると取り除いたりしていた。そのまま気分に従って丘の方へ進むと、ちょうどエヴァが最も気に入っている景色が見えるあたりで、気持ちいい風が吹きぬけた。

 エヴァは立ち止まり、目を閉じた。


 どうしてだろう、急にアナトールの言葉が心に響いた。

『いつか私は君の土地にもどり、この愛の為に尽くそう』

 低く、穏かな声で。

 エヴァはアナトールの声を知らなかった。それでも、目の前にあるどんなものよりもはっきりと、それを思い浮かべることができる。

 この四年間、ぼろぼろになった古い紙の上に踊っていただけの言葉。

 いくつもの手紙を交わした。いくつもの愛の言葉を。

 でも、最後に心に残るのはいつも、最初の手紙の終わりにあったこの言葉だ。


 風が止んだのを感じて、エヴァは家に戻ろうと後ろを振り返った。

 まだ角度の低い朝日が前からさしていて眩しく、目を細めたエヴァは、遠くから牧場の中央を歩いてくる人影があるのにすぐには気づかなかった。誰かがこちらに近づいてくる。

(誰……男の人?)

 背の高い……男性のように見える。

 ジョンだろうか、とエヴァは最初に思った。こんな早い時間とは珍しい。

 しかし、訝しがっている間もなく、その人影はどんどんエヴァとの距離を縮めてきて、しだいに輪郭がはっきり見えてくる。想像していた通りに男性だが、ジョンではない。もう少し年上のようで、髪の色は黒……。

 どくん、とエヴァの心臓が跳ねた。

 相手はじょじょに近づいてくる。

 エヴァは戸惑ってあたりを見回したが、他には誰もいない。彼がエヴァに向かって歩いてきているのは確かなようだった。

 彼はエヴァに近付くにつれ歩く速度を落とし、二人がお互いの顔を確認できるほどの場所まで来ると、ぴたりと足を止めた。

 エヴァは息を呑んだ。

 もう、彼の容姿がはっきりと分かる。男性らしい骨っぽい顎の線に、彫りの深い目元、まっすぐに結ばれた誠実そうな口元の青年……。

 彼は軍の制服を着ていて、肩には荒い麻で作られた茶色のリュックをしょっていた。肩章には金色の星が縫い付けられており、胸元には赤と金で作られた小さな勲章がある。

 まさか──

 足が凍りついたように動かなくなって、エヴァは立ち尽くして前方の男性を見つめ続けた。

 彼も静かにエヴァを見つめ返していた。

 まさか──

 四年前にちらりと一瞬見ただけの。

 確か、背の高い黒髪の男性だったことはぼんやりと覚えている。しかしそれ以外は、手紙の中に閉じ込められた言葉だけが彼だった。


「アナトール……?」

 エヴァは自分の口がそう言うのを、他人事のように聞いた。

 男は答えなかった。

 答えなかったけれど──彼の瞳は何かを語っているようだった。はっきりと直線を描いた男性的な眉が、それを強調する。彼はずいぶん長い間、草原の真ん中に立ってエヴァの顔を見つめていた。

 また風が吹くと、エヴァの茶色い髪が揺れて踊る。

 肩にしょっていた麻のリュックを地面に落とした男は、ふたたびゆっくりとした足取りでエヴァに近づいてきた。

 彼の歩き方は、エヴァの知っている誰のものとも違っていた。真っ直ぐで確かで、堂々としているのに、どこか周りを警戒しているような……獲物を求めている狼のような。

 なぜか、エヴァは彼が近付いてくるのを自然に感じて、黙って待っていた。距離が縮んでお互いの髪の動きさえしっかり見えるようになると、彼はもう一度足を止めてエヴァを見下ろす。

 その瞳も、エヴァの知っている誰のものとも違った。

 夜の闇のような黒なのに、暗い感じがまったくしない、不思議と惹き付けられる色。少年のようにまっすぐで、それでいて背筋を震わすような大人の男の力強さもある、魅惑的なまなざし。

 土地にあるすべてのものが、エヴァのまわりで動きを止めたようだった。

 一秒、一秒が、静かに刻まれて、進んでゆく。

 しばらく彼の瞳を見つめているうちに、何かを求められているのだと気がついて、エヴァは握っていた皮手袋を地面に落とした。

 そして、一歩。

 エヴァは無意識に彼の方へ足を進めた。

 また、一歩。

 言葉は一つも交わされることなく、二人の間には名前さえ存在しなかった。しかし、磁石の対極がどうしようもなく引き合わされるように、二人の距離はすぐに縮んでいく。


 静かに、そして厳かに。

 男性はゆっくりとエヴァの前へ近づいてきたと思うと、その印象的な黒い瞳をじっと固めたまま彼女を凝視した。彼の唇はぐっと強く結ばれていて、それが骨っぽい顎に続いている。

 二人の足元にある牧草は、朝露の残り香をかすかにただよわせながら、ゆっくりと揺れていた。なぜかもう暑さは感じない。

 朝は静かで、すべての自然は新しく息を吹き返したように鮮やかだった。

 それは夢に見るような美しい光景で、いつかアナトールが戦場から帰ってくるとき……『雨はいつか止む』……こんな風な空の下で彼を迎えられたらいいと願っていたのと同じだった。


 再び吹きだした風が二人の髪を揺らし、それに導かれるようにエヴァもゆっくりと歩を進めると、二人の距離はさらに縮まった。もう、お互いの呼吸さえ聞こえてきそうな近さだった。

 無意識に、エヴァは片手を前に伸ばした。

 すると彼は、その印象的な黒の瞳をエヴァの顔に向けたまま、最後の一歩を踏み出そうとした。そして、二人は触れ合う──ように思えたところだった。

「エヴァ! 最近変なのが多いんだから、他人を牧場に入れるのはやめなさいって言ったじゃない! そこにいるのは誰なの?」

 と、よく響くヴィヴィアンの声が、唐突に男性の背後から上がった。

 エヴァは夢から覚めたようにハッと背筋を横に伸ばし、急いで彼の後ろを覗き込んだ。遠くの家の方から、きっちりと髪を頭上に結ったヴィヴィアンがこちらに向かって歩いてくるのが見える。その手には、長い熊手が必要以上にしっかりと握られていた。

 エヴァは慌てて男性の方に向き戻った。彼は一瞬だけヴィヴィアンに目を向けたようだったが、すぐにエヴァに視線を戻して、こちらをじっと見つめてくる。

 その瞳は、エヴァになにがしかの説明を求めているように見えた。

「あ……あの」

 なにを言うべきだろうなどと考える暇もなく、ヴィヴィアンはこちらに向かってくる。エヴァの心はひどく混乱していて定まらなかった。早く、早く何かを言わなくちゃ、取り返しのつかないことになりそうな予感がして仕方がない。しかし、そんな時に限って言葉は出てきてくれないものだ。

 勢いづいているヴィヴィアンは、あっという間にエヴァと彼の方に近づいてくる。

 ヴィヴィアンは怖いもの知らずでもあって、まさに今、彼女の手に握られている銅製の熊手の犠牲になった求愛者も少なくなかった。酔った勢いで彼女の身体に触ろうとした一青年が、あの熊手にがつんとやられて、頭を数針縫う羽目におちいったのは町でも有名な話だ。

 あきらかに殺気だって近づいてくるヴィヴィアンに対し、彼は背を向けたままこれといった興味を示さず、エヴァの顔をじっと見つめたままで立っている。相当な度胸があるのか、それとも耳が悪いのだろうか?

 とうとう凶器をかかげたヴィヴィアンが数メートル先に近づいてきたとき、エヴァはたまらなくなって叫んだ。

「ヴィヴィアン、やめてちょうだい! お願いだからあなたもちゃんと逃げて!」

 熊手は勢いよく振りあげられ、とがった先端が容赦なく男性に向かって振り下ろされようとしていた。エヴァは硬直して目を見開いた。

 鋭い先端が容赦なく男性の頭に打ちつけられる──と思われた瞬間。

 まるで疾風のような速さだった。

 男性はヴィヴィアンの方を振り返りさえせず、真摯な視線をエヴァに向けたまま、振り下ろされた銅製の凶器を片手で掴んだ。女とはいえヴィヴィアンは背もあるし、力もそれなりにある。

 しかし、彼は顔色一つ変えないどころか、手も身体もまったくといっていいほど動じずに凶器を受けた。逆に振り下ろした熊手を取られたヴィヴィアンが、その衝撃に顔をゆがめて、そのまま手を離すことになったくらいだ。

 しん……とした数秒の沈黙のあと、男性は静かに熊手の先端を脇に下ろし、取っ手の部分を地面に下ろした。しかし、武器となる尖った先端だけは、強く握り締めたままだ。


 エヴァはただ驚きのために息を呑んだ。

 ヴィヴィアンは、驚きと同時に、屈辱を受けたようなショックを隠せずにいた。

 彼だけが静かにエヴァを見つめ続けている。


 さらに続いた数秒の静寂ののち、なんとか口を開いたのはエヴァだった。

 いつもそうだ。エリオット姉妹は、誰がどう見てもヴィヴィアンの方がずっと気丈で、エヴァは大人しく控えめだと思われているが、いざというとき度胸を見せるのはエヴァの方なのだ。

「あなたは……アナトール・ワイズなの?」

 その、ゆっくり紡がれた台詞を聞いて、ヴィヴィアンは目を丸くしながら男性をまじまじと見た。

 そういえば、たしかにこんな背格好だったような……。しかし、雰囲気も髪型も、肌の色さえだいぶ変わっている。

 ヴィヴィアンが最後に見たときの彼は、長身で屈強そうではあるが、どこか世を拗ねているような無気力さがあって、いかにも若者らしい荒っぽさとだらしのなささえ感じたと記憶している。髪は無作法に肩まで伸び、よれよれになった麻のシャツとズボンという姿だった。

 それが、目の前にいる彼は、黒髪をきっちりと短く切りそろえて、紋章をつけた軍服姿だ。

 軍服はそれなりに着込まれているのが分かるが、皮のブーツだけは、しっかりとポマードを染み込ませて磨かれているのが目に取れる。

 雰囲気はまるで違った。

 説明するのは難しい。ただ、同じ男性が四年の戦争を戦い、生き延びるとこう変わるのかもしれないという……そんな予想はできた。ヴィヴィアンもエヴァも、実際に戦場にいたわけではなくても、厳しい四年間を生きてきた。


「ああ」

 と、彼は短い返事をした。

 低くて落ち着いた声だった。ただし、甘さや優雅さとは無縁の響き……アナトール・ワイズがエリオット牧場に帰って来たのだ。



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