第10話 “カー”・チェイス(2/2)
信号でもあれば、今度こそ二人はバスに追い付ける筈であった。
だが間の悪い事に、その後三分近くは直線道路で信号は青が続いた。
日向の脚にも、鉛のように乳酸が溜まり始める。
バスと自転車との距離は、一時よりも開き始めていた。
(息が切れたのなんて、久しぶりだな…。)
だが、そんな日向の視界の先に、一つの可能性が開けてくる。
駅に近づくにつれ道は本格的に拡がって、今や分離帯を挟んだ片側二車線のものとなっていた。
その外側にあるのはアーケードの歩道と、その奥に立ち並ぶ大小の商店街だ。
やがて道の先に、ひときわ大きな白いビルが〈MR〉のロゴを掲げてそびえ立つ。
(駅前のロータリー。)
桜垣駅前のロータリーは、上から見れば、三本しか足がないタコの様な形をしている。そこへ向かう以上、バスは間違いなくタコの頭をぐるりと回って、途中で客の乗り降りを済ませた後、三本足のどれかに戻る事になる。
「つぎ逃したら間に合わない! 近づいたら大声で叫んで!」
日向は思い切り腰を浮かせ、鳥の様に頭と腰を水平にした。そして、疲れ切った両足をもう一度ペダルに叩き付ける。
日向のスカートが広がって首元まで来たとき、祇居は仰け反って顔を背けた。
その頬は、少し赤くなっている。
やがて再び、二人の視界の先に市営バスの車体が見えた。ちょうど、ロータリーにある停留所の一つで止まっていたのだった。
(間に合った!)
そう思った時。
テオドール二世の前輪数メートル先に、アーケード側から、小さな女の子が飛び出して来た。
「あ!」
日向はとっさに、強く握りしめていたハンドルを右に切った。
車道の脇を走っていたランドナーは急な軌道変更を加えられ、バランスを崩しながら車道側へほぼ四十五度折れる。
勢いのついたまま、自転車は中央分離帯の縁石と植木に激突し――
二人は、空中に投げ出された。
最後の力を振り絞っていた日向は、突然の連続になすすべなく空中に舞っていた。
とっさに目を瞑り、身体を縮めるのが精いっぱいだった。
暗闇の中で誰かに肩を掴まれたと思った直後、強い衝撃が全身を襲っていた。
「うー…?」
日向が呻きつつ片目を開くと、横倒しになった道路と、その先の分離帯の植え込みが見えた。
植え込みの向こうから、女の子のものと思しき泣き声が響いてくる。
(ぶじなんだ…よかった…)
私は…?
日向は恐る恐る、自分の身体を動かした。だが、意外な事に擦り傷一つ無い。
「大丈夫ですか?」
耳の後ろで、男の子のような声がした。
「ええと…」
背中に当たっているのは、かなりしっかりとした誰かの胸板。
「腰や頭は打っていないようですね。立てますか?」
両肩を掴まれる感触。
それは確かに学校を出発するときと同じもので。
日向はアスファルトの上に起こされ、視界が九十度回転した。
斜め上から覗き込んでくる、袴少女の微笑み。
「ケガはないみたいですね。よかった」
「腰が抜けてる…」
日向は上を向いたまま、正直に言った。
「巻き込んでしまって、すみませんでした」
袴を着たその子は謝りながらも、素晴らしい笑顔を見せた。
うらおもてのない、光がこぼれてくるような笑顔。
(あ――)
だが、見惚れている間にすぐ背を向けると、道路の脇から中側へと歩いて行く。
そして両手を拡げた。
日向が、まだ転倒のショックが抜けきらないまま、その子の向いている方向――向かって右を見たその時。
「ぃや」
耳を聾するほどのクラクションを鳴らしながら、バスの巨体がその子に迫っていた。
悲鳴のようなブレーキ音が商店街に響きわたる。
日向は思わず目を閉じる。
静寂があった。
やがて通行人のどよめく声が聞こえて来、クラクションの音が再び怒ったように二回、三回鳴らされた。
「ドアを開けてください!」
それは確かに、さっき聞いたばかりの声だった。
日向は目を開いた。
バスとその子の胸の間には、数十センチほどしかなかった。
祇居は、もう一度良く通る声で言った。
「ドアを開けてください!」
日向もまた立ち上がり、昇降ドアに駆け寄って叫んだ。
「開けて! 中に病人がいるんです!」
中の運転手は日向の顔を振り返り、そしてもう一度正面の祇居の顔を見る。
そして、二人の真剣さに気圧されて、ドアの開閉ボタンを押した。
「ありがとう」
祇居は云うと素早くドア側に回って、日向を少し押しのける形でバスの中に入った。
日向は心配になりながら開いたドアを見上げていたが、やがて祇居は、白い和服を着た女の子を抱きかかえて戻って来た。
女の子は目を閉じぐったりしていたが、少しだけ身体を動かせていた。
「無事です」
祇居が、歯を食いしばる様な表情で言った。
「やった! 運転手さん、ありがとうございました!」
日向が勢いよく頭を下げると、
「……」
運転手は、この上も無く不気味そうに顔を歪めて見返した。
バスの中では、何やら不穏なざわめきが起こっている。
「つきあってられるか」
運転手は首を振ると、苦い表情のまま無言でドアを閉め、バスを出発させた。
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