第9話 “カー”・チェイス(1/2)

 二人が出会う少し前、祇居がバスで代表挨拶の原稿を見直していた時。


 窓側の席に座っていた凛は、ひたすら窓に張り付いていた。

 そして兄よりも先に、あの奇想天外な校舎に驚いた。

 凛は完全に言葉を失い、音も忘れていた。

「降りるよ」

 祇居が声を掛けたのはその時だった。

 凛は桜のプロムナードの先にある白い塔に見とれたままだった。

 バスが動き出してやっと、後ろに誰もいない事に気付く。


「しーちゃん…?」


 流れていく風景の隅に、門の前で立ち尽くす祇居が居た。

 凛は咄嗟にバスの後部座席へと走って行った。

 そして必死に叫ぶ。

 祇居は気づいた様だったが、追って来るその姿は遠ざかり、何秒もしない内に坂の向こうに消えた。

 そしてしばらくして、それは来た。


 とくん――


 一際大きく胸の奥から震動が響いて来たかとおもうと、細く高い音が頭の内側に響いて、やがて大きくなって何も聞こえなくなる。

 視界に映るあらゆるものが、電波の妨害されたテレビの様にブレ始める。 

 腕が透けて、向こうが見える。

 体中から力が抜ける。

「しいちゃん」

 凛はバスの床に蹲り、誰にも気づかれないまま消えようとしていた。


 それから数十分後――

 日向は必死だった。祇居は、それ以上に必死だった。

 前を飛ぶ黒い鳥がスピードを上げるにつれテオドール二世もスピードを上げ、黒い鳥が曲がる所で、曲がる。

 途中には、どう考えてもご近所でない限り行き止まりとしか思えないかぎ型の道や、からの一直線の芝生の下り坂、さらに坂が終わった直後現れた(よって回避不能であった)人家まる一個分の落差に、その崖からジャンプしたランドナーを何が起こったのか日向の頭が把握できない内に受け止めたラフティング用ゴムボートを満載したトラックであるとか、ボートからバウンドした先でほぼ直線上につながっていた住宅街の塀であるとか、塀の先に誰かがくっつけた滑り台、滑り台の先で衝撃を吸収した小さな砂場などが--あった。


 砂場は、児童公園の一部だった。

 ブランコやジャングルジムで遊んでいた数人の子供が、目を丸くして、突然あらわれた自転車の方を見ている。

「――」

「――」

 だが、自転車の二人がそれらに何かの感想を抱く前に、事態は展開した。


「バスが――」

 公園の入り口にあるバス停に、あの黄色いバスが見えたのだ。

 そしてそれは、二人の目の前で動き出した。

「いったん降りて! ――乗って!」

 すぐに砂場からテオドール二世を出すと向きを変え、祇居が乗るや日向は、完全に周囲の目を忘れてペダルを踏んだ。

 水のように砂が後ろに跳ね上げられ、一気に車体が前へ放たれる。

 すげー、とブランコから見ていた子供が呟いた。 


 スケート選手のようにカーブを描いて、ランドナーは公園から道路へ滑り出した。

 完全に平らな幅の広い道路に出た自転車は、時速五十キロを超えている。

 この時丁度信号が〈黄〉に変わった瞬間に交差点に入ったバスの運転手は、サイドミラーを見た。

「?」

 そしてスピードメーターを見てから、サイドミラーを二度見した。

 そこには、バスを猛追してくる自転車に乗ったブレザーとリボンの女子高生、その後ろには袴姿の少女が映っていた。

「――」

 運転手は胸騒ぎを覚えたが、すぐ後で、その姿は消えていた。

 首をかしげ、そのままバスを走らせる。


「あーっ!」

 日向は言いながら、思い切りブレーキを掛けた。

 テオドール二世は両輪から煙を上げ、アスファルトに黒い轍を残しながら停車線ぎりぎりで止まった。

 目の前の横断歩道を、幼稚園らしき黄色い帽子の行列が歩いて行く。

「どこかで、また止まってくれればいいんですが…」

 祇居が苦しそうに言う。

「うう」

 頭を掻きむしる日向に、脇の電信柱の上から声が降ってきた。

「日向様、右に曲がりましょう。やっこさんの先はかまぼこ型のカーブになってるんで、先で掴まえられます」


「あ、またあの鳥で」

 カラスの鳴き声しか聞こえていない祇居が言いかけると、

「ソウダー! このさきのみちは、Dの字に曲がってるんだったッ!」

「えっ?」

 突然日向が叫び、右にハンドルを切ってこぎ出した。

 そしてしばらく行った先で、本当に左脇の道からバスが合流して来た。

 祇居は感動で震えた。

「ほんとうだ! すごいです!」

「まかせてッ!」


 周りの風景は、駅前周辺に至る住宅街に入ろうとしていた。

 この時市営バスと、テオドール二世の車間約三十メートル。

 祇居の眼に、やっとバスの後部座席の窓が見えてきた。

「まずい――凛の姿が見えない」

 妹の性格であれば、自分の姿がもう一度見えるまで同じ場所から離れないはずだ。

(それさえもできなくなっているという事は――)

 祇居は、寒気に震えた。

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