第5話 大甘さん家の蜜柑ちゃん
まだ焼き上がってないバゲットとパティスリー、母がランチ客用に拵えるサンドイッチを除けば、店内のディスプレイは完璧だ。
店内と言っても、八畳の面積しかない小さな売り場ではあるのだが。
蜜柑は、奥の暖簾をくぐって工房に入りながら、声を掛けた。
「できたよ」
「おう! すまんな!」
前かがみになって、業務用オーブンの中に目を凝らしていた父親が、無精ひげに覆われた顔を上げた。
オジサンのくせに、目がきらきらしている。
蜜柑は俯きながらも父を睨むようにしつつ、両手を握りしめた。
その反応を特にかまうでも無く、父は明るく会話を続ける。
「奥村さんの息子さんも、小学校の入学式だっていうからな、すまん」
「いいよ」
蜜柑は、低い声で短く云った。
「ごめんな、うち、行けなくて」
「いいよ」
「あ…――そうだ蜜柑、ほらこれ!」
父は、ジュニア人気No.1の菓子パンの取り置きを差し出して来た。
「あーんこ・ぱーんち!」
「…お昼はウチで食べるよ。今日は式だけだよ?」
「あ、そうか」
二人とも黙った。
あんパンで作られたキャラクターだけが、艶々した頬で笑っている。
父は息を吸いながら、もう一度大きな笑顔をつくった。
「じゃあ、朝飯喰って、行って来い! 昼はピザでも頼もうな」
蜜柑は返事をしない。
引き下げられたちいさなあんパンも見ない。
三角巾とエプロンを外して工房の入り口――家の勝手口の脇机に置くと、そのままドアを潜って、台所に入った。
湯気の立つ流しに立っていた母が振り向き、目が合う。
「ありがとう、蜜柑。ごはんできてるから」
「うん」
母の笑顔を見てやっと、唇のほんの端を綻ばせる。
朝食はいつも通りだった。
いつも通りの、簡単で、気持ちがこもっていて、空気や水の様に、毎日食べられる朝食だ。
「いただきます」
蜜柑は云うと、手を合わせて朝食を食べ始めた。
母が洗い物をする音と、テレビのニュースだけが響く。
……二月の大量破壊兵器実験に対する国際非難を黙殺したアル・ヤーバーン宗主国。同国の通信は、依然として遮断状態にあり……
「ごちそうさま」
食器を運んでいくと、弟の弁当を作っていた手を止めて、母が言った。
「蜜柑。だいじょうぶだから」
「…うん」
蜜柑は席に戻り鞄を取り上げると、
「いってきます」
小さな声で云って家の玄関から出た。
「いってらっしゃい!」
明るい声が背中を押した。
小さな庭、小さな塀の中に四つ並ぶ自転車の内、緑色のものを引きずり出して、いつもの裏路地から出発する。
(…意味なんかない。)
それが高校の入学式へ向かう朝、蜜柑の胸に生まれた言葉だった。
母が大丈夫だというのは、高校生活が上手く行くという意味でも、蜜柑が誰にも傷つけられないという意味でもない。
敢えて言うとすれば、それは、いざとなったらわたしが、どんなことをしてもあなたを守るから、という意味に過ぎない。
そして自分はそんなこと、かけらも望んでないのだ。
なぜならその価値が自分には無いから。
蜜柑は裏路地から、駅前商店街の表に出て『パンの大甘堂』の方を振り返らずに自転車をこぎ出した。
(いいや。つまらなかったら、本でも読んで。)
また、三年間を過ごせばいいのだ。
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