第4話 百合と袴
「……?」
咄嗟にイヤホンを外して目を凝らすが、ところどころ桜を佇ませる、朝の静かな車道に過ぎない。
そのまま目を凝らすが、何かが来る気配はなかった。
「…いちゃん」
(変な話だ。)
なぜ振り向いたかが、自分でも分からない事に気付いて、首を振り、花屋の方に向き直る。と、
「しいちゃん!」
凛の蒼黒い大きな瞳が、ぶつかりそうなくらい近くに在った。
「わっ」
思わず叫んで後ずさる。
傍に居た通行人が振り返り、少し離れた場所から祇居の姿を盗み見ていたらしい男などは、一緒に驚いたような反応を示した。
それらの男は、祇居が気づいてそちらに目をやると、一様に立ちあがったり、別のあらぬ方向を見たりしたのですぐに分かった。
(…だから袴は嫌だったんだ。)
思いながらも、周囲への注意を失っていたことを悔いた。
「あの、お客さん、どうしましたか」
足下まで花バケツに埋め尽くされた廊下の奥から、店員が現れて訊いた。
「い、いえ」
祇居は慌てて笑顔を作ると、首を振った。
「そうですか」
初老の婦人店員は、人のいい笑顔を浮かべるとすぐに納得してみせた。
「決まりました?」
「あ、まだ…」
「そうですか。わたしちょっと奥に居ますから、呼んでください」
店員は再び店の奥へ姿を消す。
「ふう」
とりあえず息を整えた祇居は、すぐイヤホンを嵌め直し、帯に挟んである携帯を操作するふりをしてから、スピーカーを右手で摘まんで少し持ち上げて、下から見上げて来る妹へ話しかけた。
「凛、いきなり大声出さないで」
祇居の腹辺りまでしか背の無い凛は、円いほっぺを更に膨らませた。
「だって、どれだけよんでもしいちゃんが、ふりむいてくれないんだもの」
「だからって――」
祇居は言いかけ、それが妹に取ってどういう意味を持つのか、直ぐに思い至って言い直した。
「うん、ごめん」
見上げて来ていたおかっぱの下のどんぐり眼が、嬉しそうに瞬きをした。
祇居は周囲を見渡して、特に誰も自分を注視していないのを確認すると、しゃがんで凛の頭を撫でる。
「それで、どの花がいいか決まった?」
「うん、これ!」
凛が指さした先には、陽光を帯びた百合があった。
「ほら、凛のだよ」
買い求めた白い花を目の前に差し出すと、妹はうっとりとして、その一輪の周りを手で囲んでいた。
「…もういいかい?」
いつまでもそうさせて居させたかったが、入学式の時間があった。
「次のバスに乗らなくちゃ」
祇居が花を鞄に仕舞おうとすると、凛は
「あ」
と名残惜しそうに声を出した。
「大丈夫だよ。茎が脱脂綿でくるんであるし、あとでお部屋に飾ろ?」
凛は、しばらく祇居の手にある花を見つめていたが、やがて首を振った。
「ううん。いい。それ、しいちゃんにあげる」
「え?」
「しいちゃん、にゅうがくしきでしょ。りんのだから、しいちゃんにプレゼント」
妹の思いやりに、祇居は微笑んだ。
「ありがとう」
「しいちゃん、それ、かみにさして」
「髪?」
祇居は表情を引きつらせながら、頭の後ろで結わえられている長い黒髪を触った。
「うん、これのね、このあたり」
「…はいはい」
ため息をついてもう一度しゃがむと、妹の小さな手に誘導されるままに、髪をまとめた部分に花を差した。通りがかったサラリーマン風の男が、一瞬はっと息を呑んで、立ち止まる。
「さあ、乗り換えのバスに行かないと」
祇居は恥ずかしさを紛らせるように、わざと口に出して立ち上がった。
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