第2話 姉妹の朝食
ベッドの直ぐ脇にある桃色のカーテンの隙間から、朝の陽ざしが定規で引かれたように差し込んで来ている。
――久しぶりに、母さんと話せた。
そう思って、パジャマの袖口で目じりを拭く。
拭きながら、くしゃみが出た。枕元のティッシュで鼻を噛む。
四月の朝は、まだ少し肌寒い。
(あ、でも自分で起きれた。)
ひとり微笑みを浮かべると、ドア側の壁にかかっている紺色のブレザーを眺めた。
その胸元には、新入生を示す若葉のブローチ。
「母さん、わたし高校生になるよ」
呟いた瞬間だった。
「日向様!」
「お嬢さま!」
ごつごつごつ、と小石を立て続けにぶつけられたように窓ガラスが揺れる。
「うるさいなあ!」
勢いよくカーテンを開けると、窓にカラスによく似た、だが嘴のやや細い、赤い瞳の鳥が二羽留まっていた。
「ヤエ、おはよ」
日向は窓を引きあけると、ショートの黒髪を掻き上げながら、ぶっきらぼうに挨拶をする。
「おはようございます、ですわ」
流暢な
左側の、線が筋張った一羽が羽根をばたつかせる。
「あのお嬢様、あっしは?」
「朝から騒がしいなあ、なんなの?」
「時間、時間ですわ!」
「じかん?」
一つの可能性が日向の頭に閃いた。
そして、恐れを抱きつつゆっくりとベッドの宮棚、ぬいぐるみたちの間にちょこなんと置かれた目覚まし時計のスイッチを見る。
――押し込まれていた。
「あの、あっし…」
「あんた、おだまり」
見紛いようもなく押し込まれていた。
いったいだれが? ――もちろん、自分だ。
「うそ」
日向が両手で目覚ましを抱えて震えていると、階下から姉のけたたましい呼び声が響く。
「くぉらひなーーー! 入学式じゃなかったのかー! 飯食わずに行くのかおまえはーー!」
「――たべる、たべるたべるちょっと待って!」
時計をベッドに放り投げて、日向は超特急でパジャマを脱ぎ始める。
「あっ、ナナエ見るな!」
パジャマを投げつけられた片方の鳥は、
「わっ、見えねえ、飛べねえ」
言いながら二階の窓から落ちて行く。
「落ち着いて下さいな。大丈夫です」
パジャマを涼しい顔で避けたもう一羽が、しっとりとした女性の声で諭す。
「うん」
言いつつ日向はブラウスの裾をプリーツスカートに入れて、フックを止めた。
ブレザーは汚すと嫌だからご飯の後に着よう。昨日鞄にノートパッドと筆記用具は入れてるから…
「う」
学習机の上に於いてある鞄の隣に、開かれたままのノートが置かれている。
左側のページには、
『遅くとも開式の三十分前に登校! 軽く校内を見回ろう☆
その日から始まるSEISHUNのドラマに対してエレガントな心の準備を』
などと書かれていた。
「まだだ。まだいける。五分で食べる。十五分で着く。OK。何も問題ない」
きりっと表情を引き締めると、開いた窓の向こうの、空の光に向かって手を伸ばした。
そしてそれを握り込むようにすると、胸にそっと押し当てる。
「ひなぁーーーー!」
「いまいくーー!」
日向は鞄を引っ掴み、自室から飛び出して行った。
階段を駆け下りる音が部屋に響く。
一羽遺された鳥は、
「あれまあ」
二、三度羽ばたいて窓の桟から机に飛び移ると、開かれたページに目を通した後、嘴を使って器用に閉じた。
「面白いノートですわね」
そのピンクの表紙には、『T』『P』『G』の三文字が器用にレタリングされて、
『月待日向パーフェクト学園生活ガイド』
との題字が手書きされていた。
日向は鞄とブレザーを抱えたまま階段を駆け下り、玄関に続いている一階廊下を横切って台所へと飛び込んだ。
「おはようおねえ!」
飛び込んだ瞬間にその背中に向かって挨拶するが、流しに向かって作業をしている姉は、直ぐには振り返らなかった。
ワイシャツに黒のスラックス。燃えるように朱い髪が腰まで垂れ下がり、腰にはあの人参色のエプロンの結び目が見える。
姉--穂乃華(ほのか)の後ろ姿は、この頃益々母に似てきたようだ。
「やっと起きたか」
だが体ごとこちらに向けて来た機嫌の悪そうな顔には、母の持っていた柔和さは微塵も無い。
銀縁眼鏡の奥の桃色の瞳は若干すわっており、また呆れている様でもあり、『一回起こしたぞ』と如実に物語っていた。
「一回起こしたぞ」
艶のある声が鋭さを帯びると、聴く者にとっては鞭のように響く。
そして定説通り、怒っている美人ほど迫力のあるものも無い。
「あい…」
日向は自分の椅子に荷物を置きながら、小柄な体を更に縮めた。
穂乃華はむっすりと黙り込んだまま、両手で支え持っていたお盆からティーポットとカップを二脚、テーブルの上に移す。
そして一言も無いままでポットの紅茶をカップに移していった。
日向は何となくそのまま席に着いて、首をすくめる。
「ほら」
目の前に差し出される、湯気を立てる紅茶。
「あ、ありがと…」
茜色の水面に、気まずそうな自分の顔が映っている。
(んが、いうべきことはいわねば…。)
「あの…お姉さま。朝ご飯は」
「目の前にあるものでは不服かね」
斜向かいの席に着いた姉は、眼鏡を外し涼しい顔でタブレットを眺めながら、自分の紅茶を啜っている。
日向はおもむろに両手をテーブルに着いて腰を浮かせた。
「ひどいよおねえ! わたし入学式なんだよ? それにもう五分もじかんないのに出発しなきゃなんだよ?!」
「いきなり爆発する奴だな…」
言う割には少しも焦らずにカップを置くと、妹の顔を見上げる。
「昨日あれだけ早く寝ろと言ったのに、いつまでも小学生宜しく制服を着てドレッサーの前に立ってたのはお前だぞ」
「む」
「今日も先ず私は言われたとおりに六時半にドアをノックしたんだ。それから、四十五分にお前の目覚まし時計が鳴った時にも声を掛けた。お前は起きたといって目覚まし時計を止め」
「うー…!」
「…だからお前は朝食を省略して睡眠を優先したのかと」
「もういいもん! プリンかソーセージでもたべていく!」
日向はいきり立つと、つかつかと冷蔵庫へと歩いて行きドアをあけ放つ。
と、そのままの姿勢で静止した。
「……おねえ、これ…」
冷蔵室の中段のトレイに入っていたそれは、純白のクリームに包まれていた。
カステラサイズの長方形の上には、メロンとハムが美しくデコレーションされ、グリーンピースがちらされている。
「サンドイッチのうそケーキ! どうして?」
「スモーガストータ――せめてケーキ・サンドイッチっていいな」
「ねえ、どうして? 朝ご飯抜きじゃないの?」
胸の前で両拳を握って問う妹に、穂乃華は片眉を上げて答えた。
「朝飯じゃない。入学祝だよ。おめでと」
そっけなく言い、またカップを啜る。
「あ」
じわりと、日向の眼の端に涙がにじんだ。
「おねえちゃん!」
「はいはい。いきなり抱きつかれると茶が零れるからな」
ものの五分で、スモーガストータ(ゆで卵サーモン)を三分の二平らげた日向は、姉の指摘を受けて大急ぎで顔を洗い、
「ほら、忘れずにこれ」
葡萄の実の様な錠剤を二粒渡された。
「…うん」
日向は一瞬沈黙したが、頷くと慣れた動作で水も無く飲み下す。
喉が小さく動いて、それから十秒の内には、紅玉の様に朱かった瞳が段々と茶色じみた黒へと変わって行った。
それでも瞳の奥には燃え残った火の様に紅い輝きが見えたが、余程注意深く覗き込まない事には分からないレベルだった。
「行ってきます!」
「いってきな」
日向が元気よく玄関を閉じて出ていくと、穂乃華は、その朝初めての笑顔を見せた。
「さて、そろそろ届く筈だが」
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