第五章『絶望から終わりへ』

 研究所には鍵は掛っていなかった。

 これだけ整備された綺麗な建物だ。今も誰かが使っていることは明らかだろう。しかし鍵は掛っておらず、マキナとカイの二人は簡単に入ることが出来た。

 入るとそこには壁一面にモニターが敷き詰められており、モニター一つ一つに『イタリア、ローマ』『イギリス、バーミンガム』などの表記がある。おそらくは元の地名だろう。人食病患者の増大によって壊滅したこの世界で地名など意味をなさない。

「なんだ……これは?」

 マキナとカイはモニターを見上げる。

「写真……?」

 モニターには世界中のありとあらゆる場所の名前があった。カイが言ったようにモニターに動きはなく、写真のように見える。

 マキナは無意識にある地名を探していた。『日本、東京』。マキナとカイが両親と共に幸せな時間を過ごした場所。

 端から順にモニターに目を通して行く。

『アメリカ、ニューヨーク』

『イタリア、ローマ』

『フランス、パリ』

『ドイツ、ミュンヘン』

 各国の首都、崩壊前に大都市と呼ばれ、多くの人々を魅了したそれにはもう過去の面影はなく、ただ廃墟があるだけであった。

 さらにマキナは自身の目を動かし、モニターを追っていく。そして……見つけた。

『日本、東京』

 東京、と一言で言っても極めて広大だ。モニターに映っている場所がマキナとカイの家があった場所かなんてわからない。だが、それでも悲しかった。先程に見た各国の首都同様に、ただ廃墟が広がるだけ。モニターに映るのが、東京のどこなのかまるでわからない。まさに跡形もなくその存在が消滅していた。

 マキナとカイは何も言わない。わかっていたことだ。故郷が今も残っているなんて期待するほうが間違っている。

 けれど、モニターを見つけた瞬間過去の幸せが本当に戻ることはないと、そう言われたような気がしたのだ。

 マキナが黙ってモニターを見つめていると、不意にカイが隣で声を上げた。

「動いてる……? お兄ちゃん、これ……」

 カイが指さすもモニターに目をやると、そこには一人の少女が画面の中で必死の形相で走っていた。まるで何かに追われているかのように。

「写真じゃない……?」

 マキナとカイが写真だと思っていたモニターは、どうやら写真ではなかったらしい。それぞれのモニターをよく見てみるとそれぞれかすかに動きがあった。

 まるで静止画のように感じられたのは、そこで動く生き物、人間や動物がまったくおらず、生命が持つそれ特有のオーラのようなものがまったく存在しなかったからだろう。

「いったいなんなんだここは……。まさかこのモニターを使って世界中を監視しているのか……? いや、そんなまさか……」

 マキナは眉間に手を当てて考える。一体この施設は何なのか、なぜここまで高度なコンピューターが起動しているのか、一体誰がこんなことをしているのか。

 様々な疑問が頭の中では浮かんでは消えていく。

 どれに対しても明確な答えがないのだ。考えること自体無意味なのかと思えてしまう。

 マキナが思考の海に沈んでいると、再びカイが声を上げた。

「嫌ッ……やだ、やめて……やめてよ……」

 カイの視線を追うとそこには先程少女が映っていたモニターがあった。少女は走るのをやめ、壁にもたれかかるようにして息を荒く吐いている。

 そして、その後ろには昨日マキナとカイを襲った、化け物がいた。六本の足を駆動させ、全身に血のような朱を纏ったその姿を忘れるはずがない。

 化け物はゆっくりと少女の後ろへと近づく、すると一気に少女の首へと自らの鋭い牙を突き立てる。少女の首からは血が噴き出し、顔が絶望に歪む。なんとか振り払おうとするが、それは叶わない。

 少女の生きることへの希望が絶望に変わる瞬間を目にし、マキナとカイは思わず目を覆った。

「……くそッ」

 マキナはカイの視界を塞ぐようにして抱きしめる。

「大丈夫だ、大丈夫だから」

 カイが息を荒くし、マキナの胸の中で嗚咽を漏らす。自分と同じ年頃の少女が化け物に食われるのを見て、かなりショックだったのだろう。マキナはカイの背中をゆっくりと何度も撫で、落ち着かせようとする。

 ただ、いつまでもここでゆっくりしているわけにはいかない。この施設ははっきり言って異様だ。崩壊したこの世界において、すべてのコンピューターが問題なく起動し、あげくモニターで世界中を監視しているかのようだ。

 この施設には何かがある。マキナははっきりとそう感じた。

 カイがだいぶ落ち着いてきたのを確認し、マキナは他の場所を捜索することをカイに提案した。このモニターのある部屋は、入ってきてすぐの場所だ。外から見た建物の大きさを考えれば、まだまだかなりの部屋が存在するはずだ。

「大丈夫か? カイ」

「うん……。もう平気」

 マキナが確認し、モニター室から移動しようとする。すると突如、モニター室の左右にある扉が開いた。聞いたことのある足音と共に、ぞろぞろと見たことのある生き物が、 見たくもない生き物が――


 ――血のごとき朱を纏う、六本足の化け物がいた。


「なんでここに……ッ!」

 マキナは歯がみする思いで呟く、それと同時に隣のカイの呼吸が荒くなる。つい先ほど見たばかりの恐怖の対象が現実となって現れたのだから無理もない。

 マキナは左手で強くカイを抱き寄せると、右手で腰にある銃に手を掛ける。何故ここにこの化け物がいるのか、この化け物は一体何なのか、気になることはいくつもある。

 だが今は生き残ることが先決だ。目的地にようやくたどり着いた今ここで死ぬわけにはいかない。この先にあるものが希望なのか、絶望なのか、それすらもまだ確かめていない。

「大丈夫だ、カイ。俺が守ってやる。ちょっと目閉じてろ」

 マキナはモニターの側にあった椅子にカイを座らせると、拳銃をホルスターから拭き抜いた。

 マキナは拳銃を引き抜くや否や、容赦なくその引き金を引く。

 化け物に休む暇を与えず、ただひたすらに拳銃の引き金を引く。ドンッ、ドンッ、という音と同時に弾丸は化け物の身体を貫いて行く。次々に化け物は地面に倒れ、血とは思えないような色をした液体をその身体から垂れ流す。

 マキナの銃弾の嵐を避けた化け物が、マキナの横から飛びかかってくる。その口に生えた鋭い牙がマキナの喉へと真っ直ぐに襲いかかる。

だが、マキナはやられない。ブーツの中に隠しておいたナイフを取り出し、化け物の顔へと一気に突き刺した。いくら化け物と言えど頭に刃物を突き刺されては無事では済まない。

 以前一度マキナはこの化け物と戦っている。それゆえ、その行動や弱点など完璧とまでは言えないが、ある程度把握していた。

 マキナはただひたすらに化け物を死へと追いやっていく。マキナが手を動かせば確実に化け物はその命を散らして行った。

「こいよ、化け物。俺が殺してやる」

 マキナは数多くの『命』を奪ってきた。カイを守るため、カイを生かすため。そして、自分のため。

 おそらくマキナの腕は血で真っ赤に染まっていることだろう。それを知りながらまだ、進んで自らの手を汚す。マキナが大切な人を守りたいから。大切な人と共に生きていきたいから。そのためなら、もう迷わないとそう誓った。

 キリエを守れなかった。だからもう絶対に大切なものを失わないために、その手を汚す。

(守るためなら、殺してやる。俺の手を真っ赤に血で染めてやる)

 一人、また一人と化け物の死体が増えていく。かなりの数がいた化け物たちも今ではその数を半分以下に減らしていた。化け物にも感情というものが存在するのか、徐々に化け物たちの中にも動揺が広がっているように感じられた。

「どうした化け物……。来ないならそこをどけッ! 俺たちはやらなきゃいけないことがある。お前らに構っている暇はないんだ!」

 マキナが叫ぶと、化け物たちは徐々に後退を始める。マキナが一歩進めば化け物たちも一歩下がる。そうしていくうちに化け物たちは壁際へと追い詰められる。

 壁に追い詰められた化け物たちはこの時完全に戦意を失っていた。

 それを察したマキナはカイの元へと向かう。

「……ごめんな。怖かったろ。もう大丈夫だ。行こう」

「……うん」

 意識はしっかりあるものの、恐怖から身体の力が抜けてしまっているカイをマキナが支える。マキナが肩を貸す形で、ゆっくりと先程化け物たちが入って来た扉へ向かう。左右に扉があるが、どちらに行けばいいかなんてわからない。だからマキナは適当に左の扉を選んだ。

 ゆっくりと歩き、左の扉の前に来た時、不意に反対側の扉から声が掛った。



「なんだ、つまらん。殺さないのか、そこの屑どもを」



 マキナとカイはその声に反応し、咄嗟に振り替える。

「あ、あなたは……ッ!」

 カイが振り返るや否や、男の顔を見て声を上げた。男は顔じゅうを包帯で巻いており、その素顔を窺い知ることは出来ない。マキナは相手の男は記憶になかった。

 するとそれを察したカイがマキナに、

「ほら、この前話したでしょ。あの化け物からあたしを助けてくれた人」

 それは以前、化け物に襲われやむなくカイを先に行かせ、離れ離れになった時のこと。カイは顔を包帯で隠した男に、助けられていた。

「声も体格も、それにあの独特のオーラ。たぶんあの人だよ。お礼言わなくちゃ」

 そう言ってカイがマキナから離れ、男の近くへと行こうとする。しかしマキナは――


「――待て、カイ」


 カイの前に出ると、腕でカイの進路を遮った。

「妹を助けてくれたことは礼を言う。だがあんた何者だ? 何故こんな場所にいる? この化け物を知っているのか?」

 カイは以前助けてもらったことで、この男に対して警戒心を緩めているようだ。だが、マキナは違う。目の前の男からは得体のしれない何かを感じた。人間が言う『嫌な予感』と言うもの具現化したような、そんな違和感を覚えた。

「まぁ、待てよ。梔子マキナ、ゆっくりいこうぜ。ちゃんと全部説明してやるよ。全部な。俺とお前の仲だろ? で、お前はこの屑どもを殺さないのか?」

 男は壁際でじっとしている化け物たちを指さしながら言った。

「何故、俺の名前を知っている……?」

「だから焦るなって。それに関してはしっかり答えてやる。だから今はまず俺の質問だ。こいつら殺さないのか?」

 男は今度を顎で化け物たちを指しながら言う。その態度は化け物たちの存在を本当にゴミか屑としか思っていないようだ。

「殺す必要がないだろう。こいつらは戦意を失っている」

「はっ、甘いねぇ、梔子マキナ。こいつらは化け物だ、お前を襲いお前の大切な妹までも襲った。それでも殺さないってか? そこらへんの動物は食糧として殺せても、この化け物は殺せないってか? なぁ、お前、なんとなく気付いてるんじゃないか?」

 男はニヤリと口元にいやらしい笑みを浮かべてマキナに問いかける。

「……なんのことだ」

 気付いている、男はそう言った。そして先程化け物を殺すときに、マキナは『自らの手を血で汚す』と、そう表現した。目の前にいたのは人間ではない、ただの化け物にも関わらず。これが男の言う『気付いている』ということなのか。

 マキナの頬を嫌な汗が一筋、流れ落ちる。

「気付いているんだろう? 自分を偽るなよ、偽善者。どうしても気付かないふりをするなら教えてやるよ、この屑どもはな――」



「――元人間だ」



「……ッ!」

 マキナが唇を噛む。

 何となく感じていた。化け物から感じられたのは犬や猫、他の動物とは違う確固たる『人』の息吹。マキナは知らないうちに、それに気付かない振りをしていた。

「……お兄ちゃん」

 男の言葉を聞いたカイがマキナに心配そうな声を掛ける。

「……大丈夫だ。俺は大丈夫。今までと何も変わらないさ」

 そう、何も変わらない。たしかにあの化け物は元人間かもしれない。だが人を殺す覚悟をもう何年も前に決めた。大切なものを守るためなら、手を汚そうと構わないとそう決めた。ならば、なにも変わらない。キリエすら殺したマキナに迷いはない。

「へぇ、強いねぇ、梔子マキナ。そういうの嫌いじゃないね。あぁ、もうなんとなく気付いただろ。こいつらを作ったのは俺だ。俺が人間って言うゴミを基盤にして作った屑。これがこの化け物たちだ」

 男が化け物を作った。それは衝撃の事実だ。だがそれも目の前の男が言うと不思議と信じることが出来た。それほどに異様な存在感を持った男だった。

「なんでそんな事をした……ッ!」

「なんで? 決まっているじゃないか。人間が嫌いだからだよ。俺は人間が嫌いだ。大嫌いだ。滅べばいいと思っている」

 男の口調はまるで、子供に常識を教えるようなものだった。地球は丸い、海は青い、山は高い、世界として当然のことを言っているかのような口調。

「……お前は一体何者なんだ?」

 男の言動はおかしかった。この異様な建物に住み、異様な雰囲気を持ち、挙句に人間を化け物へと変える。

 明らかに普通ではない。

「焦るなって言ってんだろ? 俺はこの瞬間を待っていたんだからさ。……まぁ、いいか。じゃあそろそろ見せてやるよ」

 男はそう言って、自らの顔に巻いた包帯を解き始めた。

 パサリ、という小さな音が聞こえ、男の素顔が明らかになる。

 それと同時、マキナとカイ二人の顔が驚愕に染まった。

 男は色素がすべて抜け落ちたかのような白髪だった。だが、驚いたのはそこではない。

 口元にはいやらしい笑みを浮かべていた。

 少しマキナより歳をとっていた。

 髪は真っ白だった。



「よう、俺」



「なんで……俺が……?」

 男はマキナとまったく同じ顔をしていた。




     †     †




 何なんだ、何なんだ、何なんだ……ッ!

 マキナは混乱していた。

 あまりの不可解さに震えが止まらない。

 意味がわからなかった。

 そこに鏡があるわけでもない。

 自分に双子の兄弟がいるわけでもない。

 にも関わらず、自分とまったく同じ顔をした男が目の前でにやにやといやらしい笑みを浮かべ、こちらを見ている。

「……痛快だねぇ。俺。驚いただろう? そりゃあそうだ、目の前に自分とまったく同じ顔の人間がいたら驚くだろうなぁ。俺でも驚くさ。わかっていても前回はおどろいたしな」

 前回? マキナは一瞬その言葉に反応するが、頭の混乱そのことについて思考することを許さない。

「一体なんなんだ……。これは……ッ」

 まるで悪夢でも見ているかのような感覚に陥るマキナ。ただでさえ悪夢のような世界でそのうえさらなる悪夢のような現実がマキナを侵食する。

「ははっ、まぁそうだろうな。じゃあ教えてやる。俺の名前は『帝』。そして、ちょとお前より歳をとっちゃいるが、紛れもないお前自身だよ」

「『帝』……ッ!?」

 『帝』といえばこの世界の人間なら誰しもが知っている名前だ。人食病研究の第一人者であり、人食病克服のために尽力した世界的に有名な人物。そしてなにより、キリエに教えてもらったこの場所こそ、帝教授の研究所なのだ。確かに、そこに帝教授自身がいるのは頷ける。ただ、マキナと同じ顔をしている理由がわからない。

 マキナの表情を見て、言いたいことを察したのか帝が言葉を紡ぐ。

「わからないだろうな……。ほんの少しだけ昔話をしようか」

 そういって帝は話し始める。

「昔々あるところに、梔子マキナと言う少年と、梔子カイという少女が住んでいました」

 梔子家は極めて普通な、どこにでもあるような幸せを享受していた。母親と父親、マキナとカイ、時にはマキナと父親、ごく稀にカイと母親、小さなケンカは絶えなかったけど、そんなことすぐに忘れて週末には家族で旅行に行く。

 梔子家はそんな普通の幸せをあって当然のものと、そんな風に認識して生きていた。去年と同じように家族が集まり、父の誕生日を終え年末も近くなる時期だった。

 当たり前だと思っていた日々が、唐突に崩れた。

『第三次世界大戦』

 きっかけは些細な暴動だったらしい。ヨーロッパで起こった暴動、黒人男性が警官に射殺されたことによって起きたその暴動は、ネガティブな形で人々の日ごろの鬱憤を爆発させた。暴動はみるみるうちに広がり、そこに加わったのが過去の『貴族階級vs労働社会級』の構図だった。各国政府としてもこの状況を利用しようとする動きがあらわれ、二つに分断されてしまう。この状況はアジアにも広まり、今度は『植民地支配に対する復讐』という形で人々の対立は激しさを増して行った。

 この時、正式に『第三次世界大戦』開戦が発布された。 

国連が人々の暴動を抑えるために武力行使を行えば、それはさらなる暴力を呼び、各国の二分した政府は私欲を満たすために本来の責務を忘れた。

 初めはよかった、まだ名目があったから。

 でもそのうち皆が戦う理由を忘れ、戦っていることこそが普通の状況へと成り果ててしまった。こうなってはもう誰も止められない。

 弱肉強食。

 生き残るためには他者を蹴落とすしかない。

 梔子家もそうだった。ただひたすらに生き。自分たち四人だけで、ひそやかに生きていかなくてはならなかった。

 そして、

 両親が死んだ。

 両親は、マキナを守るために銃弾の盾となった。

 悲しかった。でも生きるしかなかった、ここで死ねば、両親の死が無駄になるから。

 それからはマキナとカイ。二人で寄り添うようにして生き続けた。だが、世界がそれを許さない。悪化する戦争。撒き散らされる人々の悪意。

 何よりも問題だったのが食糧不足。当然だった、だれも食糧を作ろうとしないのだから。

 マキナとカイはそれからも懸命に生きた。だが、この頃から元々身体が強くなかったカイが両親を失ったショックもあって、たびたび寝込むようになった。マキナはそんなカイを守るべく、様々な勉強をした。病気に対する知識も身に着けた。人を殺す術も覚えた。奪う力も手に入れた。

「なんでもやったさ、殺しも窃盗も、それこそなんでも。やっと二人の生活に慣れ、こんな悪夢のような世界でもカイと二人なら生きていけるとそう考え始めた頃だよ……あれさえ、あれさえ、あれさえなければ……ッ! あれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえあれさえなければァ……ッ!」

 帝は唇をかみしめる力のあまり、口から血をぼたぼたとこぼしながら、話は帝のすべてを変えた運命の日へと至る。




     †    †



「大丈夫か? 寒くないか? 今食べ物持って来てやるから」

 少年は電気もなく薄暗い部屋の中で、ボロボロの毛布を羽織り地面に横たわる少女に問いかけた。

「げほっ、げほっ……だい、じょうぶ、だよ。わたしのことは心配しないで?」

 少女の表情は、言葉とは裏腹に青白く、とても大丈夫とは思えない。少年は目の前の少女の頭を撫でる。少女がくすぐったそうに笑うが、その笑いにもはや生気はない。少女の頭を撫でることしか出来ない自分に腹が立つ。

 もう水も、食料もない。

 人の心ですら、荒みきっている。

 助け合いなんて言葉は等の昔に消え失せた。

 でも、せめて、せめて、目の前の少女だけでも救ってほしいと、少年は願う。誰に願うわけでもない。誰かが助けてくれるなんて思っていない。ましてや神様がいるとも思っていない。ただ、何でもいい、誰でもいい。たとえ悪魔だろうが、目の前の少女を救えるのなら自分の魂を売っても構わない。ただそう思っていた。

 だが現実は甘くない。運んでくるのは常に絶望か死のどちらかだ。

 少年が少女の頭から手を離すと、ふと部屋の外から声が聞こえた。

「ははっ! お前知ってるか? 意外と人間って美味いんだぜ? こんな世の中じゃたべるもんなんて人肉くらいだろ! どっかにいねぇかなぁ、人間。今すぐ料理してやンのになァ……」

「俺も昨日初めて食ったぜ。この世の中であんなに美味いもん食ったの久々だなァ。あのほのかに酸っぱいのがうめぇよなァ。あー腹減った、このあたりに死にかけの兄妹がいるって話なんだがなァ……? 早く俺らの飯になってくんねぇかな?」

 扉の外から二人組と思しき男の、下卑た笑い声がする。

 人を食べる……? 冗談じゃない。馬鹿げてる。少年はその言葉に吐き気すら覚えた。だが、あの口調からして男たちは本気だろう。もし見つかれば間違いなく食料にされてしまう。

 少年は息を潜める。今この場所から出ていけば、見つかるのは目に見えている。ならば、男たちをやり過ごす以外に手段はない。

「お兄ちゃん……? どうしたの、大丈夫? げほっ、げほっ、げほっ!」

 少女が少年の緊迫した雰囲気を感じ取ったのか、声を上げると同時に大きく咳込んだ

「大丈夫か? 心配しなくていい。大丈夫だから」

 少女の背中を優しく撫で、ゆっくり呼吸をするように促す。しかし、

「あァ? この部屋だなァ? へへへっ、見つけたぜぇ、大事な獲物をよォ!」

  少年は歯がみをする。見つかってしまった。せめて目の前の少女だけでも守らなくては。

「お兄ちゃん、ごめんね。ごめんね」

「気にしなくていいよ。すぐ戻るから待ってて」

 少年は優しい笑みを少女に向けると、傍においてあった剣を持ちゆっくりと立ち上がる。

 戻れる保証はない。むしろ戻れる可能性は限りなく低い。でも、戦わなければ全部失うのだ。

 少年は男が部屋に入ってくる前に内側から扉を蹴り飛ばした。

 外に出て、周りを確かめるも男たちはいない。

 少年の頭に嫌な予感がよぎったその時。


「いやぁぁぁぁぁァァァァ!!!」


 少女の声が聞こえた。少年が戻るとそこには、

「はっはっはァ! バカだよなァ! 子供ってのは! 力の弱い方から狙うのは狩りの鉄則じゃねぇか! なぁ、少年! 一つ勉強になっただろ?」


 男が、少女の引き千切られた小指を咥えていた。

 その隣の男は引き千切られた少女の耳を咥えていた。

 さっきまで少女が寝ていた場所は真っ赤に染まっていた。

 さっきまで少女が羽織っていたボロボロの毛布の色が変わっていた。


「よォ、少年? お前も食うか? 腹減ってんだろ?」


 男の言葉は、少年の耳に入らない。


 大切な人だった。


 誰よりも大切な人だった。


 大好きだった。


 愛していた。


 失いたくなかった。


 失えなかった。


 なのに、なのに、なのに、



 なのに、なのに、なのに、なのに、なのに、なのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのなのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのに




「……返せよ」


 食いしばりすぎたせいで口は血で溢れた。


 握りすぎた拳も血で溢れた。

 

 悲しみのあまり目からは血の涙が出た。

 

 だが、そんなことどうでもいい。




 殺 し て や る




 コ ロ シ テ ヤ ル




 すべて、壊してやる。みんな、殺してやる。




「返せ、カイを返せええェェェェェェェェェェェェェ!!!!!!!!」





 手に持った剣を振り下ろしたと同時に、辺りに鮮血が舞う。



 紅く、紅く、紅く、生臭いにおいをまき散らしながら。



 薄暗い空に、すべてを憎んだ悲しき少年の叫びが木霊する。



 そして少年は誓う。どんなことをしてもカイを取り戻す。

 そして、カイをこんな目にあわせた人類に必ず復讐してやる、と。



 その数年後、『梔子マキナ』は『帝』と名前を変え、世界再生プロジェクトのリーダーとなる。




     †     †




「お前まさか……ッ?」

「お兄ちゃん……」

 マキナとカイ、帝は二人の言葉に耳を貸さない。

「それで俺は考えたよ。カイを取り戻して、世界に復讐する方法を。そして思いついた、過去を変えてやればいいってな。普通の人間なら『無理』の一言で片づけるだろうなぁ。でもあの時の俺は何でも出来る気がした。怒りのあまり眠ることを忘れ、気付けば髪は真っ白になっていた。でもなんでだろうな、自分の考えることのすべてを実現できたよ」

「人類への復讐……。それが人食病か……ッ!」

「ああ、そうだ。さすが俺。俺は人が人を食べる様を見て、酷く失望したよ。人間に。誰かを大切に思い、誰かを気遣える人間なんて世界には数えるほどしかいない。誰もが自分の欲望を満たすことだけを第一に考えている……。それが人間の本質だ。自身の食欲を満たすために同族であっても食す……。そんな醜い生き物なんだよ、人間は」

「……」

 マキナは帝の言葉に何も言うこと出来ない。マキナの生きて来た世界も人食病に侵された人間たちがお互いに傷つけあい、大切なものを奪いあって来た。人間の本性が醜いものであるという考えは決して間違っていないのかもしれない。

「だから俺は、第三次世界大戦後に発足した世界再生プロジェクトを利用した。意見を捜査して、世界を救うには過去改変しかないとそう思わせた。簡単だったよ。理論から技術、どれをとっても俺より優秀な奴はいなかった。俺は人間を越えた存在だからな」

「……そして過去に戻り、人食病を蔓延させた、か……ッ!」

「その通りさ、人食病こそが俺の人類への復讐だ。復讐と言っても俺はただ、人間の一番醜い部分を引きずり出す手助けをしただけさ。どんなことがあっても何事もやりようはあるものさ。だが人間はすぐに争う道を選ぶ、自らの保身を第一に考える。その結果が、今のこの世界さ」

 帝の言葉の節々からは、人間に対する深い絶望をうかがい知ることが出来た。確かに帝は深い絶望の海を泳いできたのだろう。そして見つけた答えが過去を変え、人類へ復讐すること。

 だが、マキナには納得のいかないことが一つだけあった。

 それはマキナにとっても帝にとっても大切な人のこと、梔子カイのこと。

「お前の言いたいことはわかった。でもな、なんで人食病なんて蔓延させたんだ。お前はカイを助けることが目的なんじゃないのか! お前が人食病を蔓延させたせいで、カイがどれだけ苦しんできたと思う? 何度カイが涙を流したと思う? 本当にカイのことを思うなら、なんで人食病なんか……ッ!」

 帝は小さく笑う。そしてまるで聞くまでもないことのように、

「……信じていたからさ。自分自身を。そしてお前を……なぁ、俺」

「信じていた……?」

「ああ、そうだ。お前なら必ずカイを守ってくれると、そしてここまで辿り着いてくれると、そう信じていたんだ。そのためにちゃんとお前には仕掛けがしてある」

「仕掛け、だと……?」

「ああそうだ。お前は世間的に言ってしまえばまだまだ子供だ。そんなお前が普通に考えてこんな混沌とした世界を生き抜けると思うか?」

 マキナは十六歳だ。確かに世間一般で言えばまだまだ子供だ。そんな子供が人食病の蔓延し、誰しもが殺し合う世界で生き抜いてきた。それは偶然か、必然か。

 マキナ自身は、自分の力でこの困難を乗り切って来たと信じている。

 しかし、

「それは俺のおかげだ」

「笑えない冗談だな」

「冗談だと思うか? お前だって覚えがあるんじゃないか?」

 帝の言葉によってマキナの思考は過去へと向かう。レンと対峙した時、化け物と対峙した時、マキナは必ずピンチを乗り切って来た。確かにそれは奇跡のような確率だったかもしれない。

 だが、自身の経験と閃き、そして自らが持つ力によって切り抜けて来たという自負がある。

「そうか、なら一つ問おう。梔子マキナ。何故お前だけ、人食病に感染しない?」

 マキナの心臓が跳ねる。

 それはマキナ自身がずっと不思議に感じていたことでもある。

 ずっと人食病感染者であるカイのそばにいたにも関わらず、人食病に感染するどころか、その気配すらまったくない。

 だが、一人。人食病に感染していない人間に出会ったことがある。マキナとまったく同じ状況にあった人間。マキナにとって大切だった人。


 響キリエ。


「……お兄ちゃんだけじゃない、キリエさんだって感染してなかった!」

 隣にいるカイが、マキナの代わりに声を上げた。

「そうか、確かにいるんだ。人食病にある程度の耐性を持った忌々しい人間と言うのは。だが、あくまでそれはある程度の耐性に過ぎない」

「……何が言いたい」

 マキナは帝を睨みつけながら言った。

「ふん、お前ももうわかっているんだろう? お前は俺で、俺はお前だ。まぁいい、言ってやろうか。そのキリエとか言う女――」



「――お前に出会ってから感染しなかったか?」



 帝の視線が真っ直ぐにマキナを射抜く。鋭く鋭く。まるでマキナの心のすべてを見透かしているかのように。

「嘘……。キリエさんは感染してなかったよ……ッ!」

「してたんだ……。あいつは最後、死に際に感染してた」

 マキナがキリエを撃つ、決定打となったこと。それがキリエの人食病感染。胸には黒い刻印が浮かんでいた。確かにあの時キリエは人食病に感染していた。

「だろうな。それは当然だ。どんな人間でも人食病の病原体そのものが側にいたんじゃ、感染を免れることは出来ないだろうな」

 帝は淡々と言葉を紡ぐ。

「さて、ここまでヒントを出したんだ。もう一度聞こうか? 梔子マキナ、何故お前は人食病に感染せずにいられる?」

 カイは、人食病に感染した。

 キリエは、マキナに出会ってから人食病に感染した。

 そして帝の言った言葉。『どんな人間でも人食病の病原体そのものが側にいたのでは、感染を免れることは出来ない』。


 それらが示す真実。それはただ一つ。



 マキナ自身が、人食病の病原体であるということ。



「そうさ、梔子マキナ。お前が人食病の病原体さ。病原体そのものであるお前が人食病に感染する訳がないだろう! お前がこの世界に人食病をもたらした張本人なのさ!」

「……嘘、だろ? 嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。そんなの嘘だッ!」

「嫌……。一体なんで……?」

 地面に膝を付き、息を荒くして叫ぶマキナ。カイはマキナに寄り添い、涙を流す。

「ああ、なんで人食病に刻印が現れるか知ってるか? あれは俺の人類に対する復讐の証さ」

 帝はそう言って自らの手のひらを見せた。そこには刃物で刻まれたであろう刻印が刻まれている円の中に何が書かれているわけでもない、ただ刃物で自らの手のひらを傷つけただけの模様。そしてそれは、人食病患者の刻印とまったく同じだった。

 しかし、今のマキナはそんな帝の言葉すらも耳に入らなかった。

 一体何故、マキナが人食病の病原体などになってしまったのか、マキナは再び自らの過去へと意識を向ける。

 人食病が世界に蔓延するよりも前の幸せだった頃の記憶。昔の生活は本当に幸せだった。父さんがいて、母さんがいて、カイがいて……そしてマキナがいた。その生活の中で、マキナが人食病の病原体になるような出来事があっただろうか。

 マキナは何度も何度も自らの記憶をたどり、そして――

 ――みつけた。

 それは幼いマキナの身に起きた唯一の不幸。

 カイが『人食病』に感染する一年前のこと。

 二週間にわたる誘拐事件。

 その時、誘拐犯の男は何と言ったか。マキナが父にも、母にも、そしてカイにも誰にも言っていない、マキナだけが知っている男の言葉。

『……これで後は待つだけだ』

 マキナの中ですべてが繋がった。帝の存在、この世界の現状、そしてマキナの過去に暗い影を落とす誘拐犯。そのすべてが一つの線で結ばれていく。

「……お前かッ! あの時俺を誘拐したのはお前かッ!」

 帝は笑う。高らかに。

「ご明答。あの時お前を誘拐したのは俺だ。そしてお前の身体に一つ細工をさせてもらった。そこにある」

 帝はそう言って、マキナの右胸を真っ直ぐに指さした。

「お前の身体に埋め込んだのはシヴァのロザリオと言ってな。俺の世界、お前たちで言うところの未来で完成したタイムマシンさ。普通ならそれはただのタイムマシンだ。だが俺はそこに細工を施した。人食病の根源となる寄生体をこの中に入れ、なおかつ俺の経験や戦闘技術、そのすべてをロザリオの中に入れて置いた」

 帝の言っていることは残酷だった。人食病の元凶にマキナがなってしまったことはもちろんのこと。

 だがそれ以上にマキナの心を貫いた事実。

 シヴァのロザリオには帝の経験と戦闘技術が入っていると帝は言う。それはマキナが今までしてきたことのすべてを否定されることに等しかった。

 すべてが与えられていた。それはつまり自分の力ではなく、すべてが帝に与えられ、その手のひらで踊らされていたということ。

 今までマキナはどんなにつらい時も、苦しい時も立ち上がって来た。カイが人食病に感染した時も、両親を失った時も、そしてキリエを失った時も。

 今まで自分自身の力で成し遂げ立ち上がったと、そう思っていたことはすべて幻想にすぎなかったというのか。

「残念だったな。今までお前は頑張って来た。でもそれは全部俺の力さ。俺が与えた力によってカイを守って来たんだ。言いかえれば俺がカイを守って来たんだよ」

「なんだよ……。なんなんだよ、それ…」

「悲しいだろ? 苦しいだろ? だから絶望の淵で死んでくれ」

 そう言って帝は懐から取り出した拳銃を、その場に座り込むマキナへと向ける。

「なッ!? やめて! 何をする気!?」

「ん? なんてことはない、こいつを殺すんだよ。当り前だろう、カイ? 人間は腐っている。だから俺が駆逐してやるんだよ。こいつを殺して、世界中に僅かに残っている奴らも殺し、俺は世界を作り直すのさ。カイ、お前と二人で」

 帝は平然と恐ろしいことを言い放った。その間もマキナから拳銃を離さない。

「なぁ、お前、何がしたいんだ?」

「言っているだろう? 世界の人間を皆殺しにした上で、カイと二人で新しい世界を作るのさ。俺とカイは新しい世界のアダムとイブになるんだよ。人間を越えた存在としてな。だからお前はいらない」

 アダムとイブ、それは旧約聖書『創世記』に最初の人間と記される人物。神に作られた、二人は世界の礎となった。

 帝はカイと二人で世界の創成を行おうというのか。

「なんだ、そんなことか……」

 マキナはゆっくりと立ち上がりながら言った。

「そんなこと……?」

「そんなこと、だろ。新世界のアダムとイブ? 冗談じゃない。冗談じゃないよ。お前はカイの事を何も考えちゃいない。その新しい世界にカイの幸せはあるか? 世界中の人々を皆殺しにする? それをカイが望むと思うか? お前は何もわかっちゃいない」

 マキナは、モニターに映った少女が化け物に殺されるのを見たカイを思い出す。あの時のカイの表情、あんな顔をするカイが人類の皆殺しなんて望むはずがない。どんな世界のカイであっても。

「吠えるな、クソが」

 帝が向ける拳銃をものともせず、マキナは続ける。

「自分で言うのもなんだけどさ、俺は今まで頑張って来たよ。カイと二人で幸せになりたいって、そう思ったから。死ぬ気で戦った事もあった。実際死にかけた事だってあった。両親も失った。それにキリエも……失った。でも前を向いてきたつもりだ。そこに自信があったから、俺はお前にそれは自分の力じゃないって言われて絶望した。いや、今もしている……かな。だがな、この力が俺の物じゃなくても、俺にはカイを守る力があった。だから今、こうしてここにいられるんだ。そこはあんたに感謝しなきゃな」

 そういってマキナは隣にいるカイに微笑む。

「だから、だからこそ、俺はお前が許せない。カイを大切に思っていたお前が、一度カイを失ったお前が、なんでカイのことを考えてやらないんだ。これ以上、誰かがカイを傷付けるのであれば、俺はそいつを許さない。たとえそれがお前――俺自身だとしてもッ!」

 マキナは拳銃を引き抜いた。

 対峙する二人の名前は梔子マキナ。

 二人は別々の時間を歩んできた。



 一人は第三次世界大戦という、人が巻き起こした混沌とした世界。

 一人は人食病が蔓延する、一人の男の強大な憎しみが作り出した世界。



 同じ時間、同じ場所で二人の男は向かい合う。



 本来なら第三次世界大戦が始まる2098年、3月4日。


 銃声と共に、殺し合いは始まった。




    †     †




 銃声が響き幾分かが立った。まだ二人は倒れていない。

「お前にある力は誰のものだと思っている、お前は俺なんだ。実力は変わらない。だが俺は人間を越えた存在だ。人間が神に勝てるか? 無理だろう?」

「どうかな? やってみなきゃわからない」

 二人は同じ人間、『梔子マキナ』。

 そしてシヴァのロザリオにより、戦闘技術も経験もすべてが同じ。そんな二人が戦えば長期戦になることは目に見えている。

 マキナが拳銃の引き金を引いても、帝はマキナの思考を読み、見事に避けて見せる。帝がナイフを持ち、接近戦を仕掛けてもお互いの癖を把握している以上、マキナは避けることが出来る。

「ナイフを使っても拳銃を使ってもお互いがお互いの思考がわかる。こんなにめんどくさいことはない、同じ実力の物が戦えばどっちが勝つか。あとは運次第だろう」

「運か、梔子マキナ同士が決着を付けるにはちょうどいいんじゃないか?」

「ふん、冗談じゃない。俺は運なんかに自分の運命を任せなくてもいいんだ、お前と違ってな」

 パチン、と帝が指を鳴らすと、扉から多くの化け物たちが一斉に入って来た。

「貴様……ッ!」

「運が味方すれば勝てるんじゃないか? どんな状況でも勝ち目はあるはずだ、なぁ? 俺」

 先程化け物と戦ったように、マキナは化け物が相手であれば十分に戦える。たとえ、その数が多くても。しかし、化け物たちの動きは今までとは明らかに違った。

 化け物たちは何十という数で、マキナの周りを囲むようにして一気に突進してきたのだ。当然、マキナも応戦する。今までの化け物たちはマキナの攻撃を避けようとしてきた。

 しかし、今の化け物たちから避ける様子はまったく見られない。銃弾で身体を貫かれようと、ナイフで身体を引き裂かれようとも、ただただがむしゃらにマキナへと向かってきた。

 そんな化け物たちの突進をマキナは防ぐことは出来ない。

「くそ……ッ!」

 先程見たモニターでは、少女が喉元を噛みちぎられて絶命した。マキナは必死に応戦するが、それも限界だった。

 化け物がマキナへと襲いかかり、マキナの脳裏には力なく倒れる少女の姿が蘇る。

「く……ッ!」

 しかし、少女のようにはならなかった。

「安心しろ、そう簡単には殺さない」

 化け物が覆いかぶさったことで視界を失っていたマキナ。

 視界が開けると、マキナは地面に倒されており、腕、足、四肢のすべてを化け物に抑えつけられていた。

「どうするつもりだ……?」

 マキナは身体の自由、すべてを失った。その状況が示すことはすなわち、マキナの敗北。この先どうなるのかは聞くまでもなかった。

「どうする? こうするんだよッ!」

 帝は何のためらいもなく、自らが手に持つ拳銃の引き金を引く。

 左手の次は右手、左足、右足。

 マキナの四肢から紅いしぶきが飛び、マキナを抑えつける化け物のただでさえ紅い身体をさらに真っ赤に染め上げていく。

「やめてッ! ……もうやめて。お願いだから」

 カイがその様子を見ながら涙を流す。そして帝に対して懸命に訴える。

 すると帝はカイの方に振り向き、

「ああ、そうだな。カイごめんな。これじゃダメだよな」

「……?」

 カイは戸惑いながらも一瞬自分の訴えが聞き入れられたのかと、安堵する。しかし、帝の答えはカイが期待した物とはまったく違っていた。

「そうだよな。こいつはこんな殺し方をしちゃだめだよな。カイも俺と同じ苦しみを味わいたいんだよな。こんな生ぬるい殺し方じゃダメだよな……」

 帝はそう言うと、マキナの周りを取り囲む化け物たちに命令する。



「食え」



 カイの顔が驚愕に染まる。

「待って、お願い待って! お願い何でもするから、お願いだから、お兄ちゃんを助けて! お願いだから、お兄ちゃんだけは……ッ!」

 カイの必死の訴えにも、帝は耳を貸さない。

「お願い……。お願いだから、もうやめて……」

「そうだ、俺とカイは新世界のアダムとイブになるんだ。痛みも苦しみも、全部分かち合わなくちゃならない。俺はカイを食われて絶望した。だからカイも、マキナを食われて絶望しなきゃいけないんだ」

 帝は一人で茫然としたように、ぶつぶつと呟く。その視線はまるでガラス玉のように虚ろで、何も映っていないかのようだ。

 四肢を痛めつけられ、なおかつ抑えつけられ、完全に自由を奪われたマキナ。周りの化け物たちは、今にもマキナを食おうと涎を滴らせている。

 そんな中でマキナは最後の力を振り絞る。抑えつけられた右手から人差し指を動かし、出口を指さした。帝も化け物もマキナに気を取られており、出口への道は開けていた。

 マキナはカイに向けて必死に口を動かす。

 逃げろ、と。

 お前一人だけでも逃げろ、と。

 カイはマキナの意図に気付き、首を振る。

「ヤダ……。お兄ちゃんを置いて逃げるなんてヤダ……。ずっと一緒だって約束したのに……。ヤダよ。こんなのヤダよ……ッ」

 大粒の涙を流すカイを見て、マキナは胸が苦しくなる。


 ずっと一緒だと約束した。

 絶対に守ってやると約束した。

 誰にも傷つけさせないと誓った。

 それなのに、もう無理だった。


 全身に力が入らない。まるで血液と共にマキナ自身の命が流れ出しているかのような感覚。マキナの衣服は今この瞬間にも紅い色を増して行く。それが増せば増すほど、自分が死に近づいていくのを感じた。


 カイは言った。

 『死ぬときは一緒に死にたい』と。

 でも、もうそれですら敵わない。


 マキナの死はもう目の前に迫っている。死神の鎌が首元まで掛っている。だからせめてカイだけでも生きてほしかった。


 カイに死んでほしくなかった。

 ただそれだけ。


 カイは涙を流しながらも、マキナに向けて言う。ここに来る前日、カイが口にした言葉。


「死ぬときは一緒だって、約束したよ……。お兄ちゃん……ッ!」


 ドクン、とマキナの心臓が跳ねた気がした。

 『死ぬときは一緒』

 その約束が、マキナの心を締め付ける。


「ヤダ……。あたしはお兄ちゃんのいない世界で生きていけない……。生きていたくなんかないッ! ヤダ、絶対にヤダッ!」

「カ、イ……」

 カイの悲痛な叫び、そして、

「だから、お願い。今までもずっとお兄ちゃんに迷惑かけて来たけれど、お願い、もう一度だけ最後にあたしの我儘を聞いて……。お願い」

 その言葉とともにカイはスカートのポケットから一粒の錠剤を取り出した。

 マキナとカイが絶対に使わないと決めていた最後の方法。

 そして現状でマキナとカイ、二人が一緒に死ねる唯一の手段。

「ごめん、ごめんね、お兄ちゃん……大好きだよ、もう苦しむのはやめよう、一緒に死のう。だから――」



「――お兄ちゃんのこと食べていい?」


 

 これが梔子カイの最後のお願い。

 マキナはそれにゆっくりと頷いた。

 そして、カイが一粒の錠剤を口に含む。

 唯一の方法、それは響キリエが残した。最後の手段。

 極めて絶望に近い救い。

 あるいは救いの皮を被った絶望。



 今の二人には、それに縋る以外の道はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る