第三章『キリエ』

 その日マキナは夢を見た。

 それはカイが『人食病』に感染する一年前のこと。マキナがまだ幼かった頃に起きた恐怖の記憶。

 マキナはその頃まだ小学生だった。普通に学校に行き、友達と遊び、家に帰ればまた友達と遊ぶ。そんなどこにでもいるような小学生の日常をマキナも過ごしていた。

 そんなある日の帰り道。いつものように交差点で友達と別れ、家路を急いでいた時のこと。不意に男に後ろから抑えつけられ、意識を失ったのだった。そう、マキナは十一歳の時、誘拐されたのだ。

 普通誘拐の目的と言えば金だ。子供を誘拐し、親に金を用意させる。他にも幼い子供を性的虐待のために連れ去るケースもあるが、マキナの梔子家は比較的裕福な家庭だったため、前者の金目当ての犯行だろうとマキナの両親は予測していた。そのため全財産を投げ打ってでも、マキナを取り返そうと強く決めていた。

 だが犯人と思しき男は金を要求しなかった。

「すぐに返す」

 それだけ言い残すとまったく連絡してこなくなった。

 近辺の住人を捜索しても誰一人として怪しいところはなく、まして今回の事件に関する情報を持った者も皆無だった。マキナの足取りに関してもまるで忽然と消えたかのように何も見つからなかった。

 マキナが見つかったのは、姿を消してから二週間後だった。家の近くの空き地で蹲るように放心しているのを近所の者に保護されたのだ。

 幸いなことに外傷はまったくなかった。殴られた跡も縛られた跡も。性的虐待を受けた様子もまったくなかった。ただ一つ、誘拐されていた間の事をマキナがまったく覚えていなかったことだ。医者曰く、誘拐のトラウマから来る記憶障害だろうとのことだった。

 それ以降まったくマキナの行動におかしな所はなく、なんの違和感もなく再日常に溶け込むことが出来た。

 両親はその様子を見て深く安堵した。

 その後はこの誘拐事件の記憶は梔子家から消え失せ、幸せな時間が戻って行った。だがマキナは少しだけ両親に嘘をついていることがある。

 確かに誘拐されていた間の記憶がない。相手の顔も、相手が何をしたのかも。だが一つだけ覚えていることがある。男が最後に言った言葉。



『……これで後は待つだけだ』



 大したことではないとそう思って両親には話さなかった。だが何故だろうか、今日に思い出すことがある。カイにも話したことはない、マキナだけのたった一つの秘密。




     †     †




 キリエが研究室にこもってから十日、

「完成したわ」

 部屋に入って来たキリエがいきなり言った。

「本当かっ!?」

「ええ、本当。これよ」

 聞き返したマキナに対し、キリエがポケットから一つの錠剤を取り出した。一見何の変哲もない錠剤に見える。

「この薬があれば、間違いなく人食衝動を抑えることが出来るはず」

 マキナとカイが顔を綻ばす。

「でも、焦らないで。結果が出るのはしばらく後ね。この薬を飲んだからって、すぐに何かが変わるわけじゃないわ。だって人食病とは言っても禁断症状と人食をするという点を除けば、普通の人間と一緒なのだから。カイちゃんの禁断症状が出るまでの期間は?」

 マキナがカイと一度顔を見合わせた後、答える。

「二週間から三週間の間。今はこの前食べてから二週間と三日経ってる。どんなに長くてもあと四日であたしは禁断症状が出るはず」

「そう、ならあと四日でこの薬の効果は実証されるわけね。取りあえず、飲みなさい」

 キリエがそう言ってカイに薬を渡す。カイはそれを受け取り、一気に水で流し込んだ。

「何ともない……」

「それはそうよ。さっきも言ったでしょ。結果がわかるのは四日後だって」

 キリエが肩をすくめながら言った。

「レンはいいのか?」

「今から飲ませに行くわ、付いて来てもらえる? マキナ」

「ああ」

 レンのいる部屋は、今いる部屋の反対側にある。一刻も早くレンを助けたいだろうに、カイを優先してくれるキリエの気持ちがマキナは嬉しかった。

 三人で部屋を出ようとして、キリエが不意に言った。

「ああ、カイちゃんはおとなしくしていた方がいいかもしれない。この薬はまだ不完全だから、無理に身体を動かさない方がいいわ。少し横になっていて」

「そうだな、無理しない方がいい。カイ。何かあったらすぐに来れる距離だから大丈夫だ」

 少し距離はあるが、この病院は誰もいないこともあり、少し大きい声を上げれば全体に響き渡る。多少離れていても問題はないはずだ。

「うん、わかった。気を付けてね、お兄ちゃん」

 マキナはキリエの後に付いていく。しかしキリエの歩く方向はレンがいる方向ではなく、研究室に向かっていた。

「おい、レンの所に行くんじゃないのか?」

 怪訝に思ったマキナが聞くと、

「薬を取りに行くのよ。なぁに? 私が信用できない?」

 キリエがにやっと笑いながら聞き返してきた。

「そんなことはない。さすがにもう、信頼しているよ。お前の態度を見てても、怪しいところはなかったしな」

「あら、それはお姉さん嬉しいわ」

 軽口を叩いていると、すぐに研究所に到着した。マキナがキリエに促されて中に入る。ここしばらく、よくキリエと会話をした場所だ。何処に何があるかだいたい把握しており、いつものソファに腰掛けようとして、キリエが研究室の鍵を閉めた。

 マキナは今までキリエが研究室に鍵を掛けたのを見たことはなかった。今になって何故。マキナの中で様々な疑問が浮かび上がる。

「どういうつもりだ?」

「あら、何が?」

「なぜ鍵を掛けるんだ? 薬をとったらレンの所に行くんだろう?」

「大した意味はないわ。少しあなたとお話をしたくなっただけよ、マキナ」

 マキナが怪訝な表情でキリエを睨む。この状況でお話をしたいなど、どう考えてもおかしい。薬が完成したのならばすぐにでも飲ませたいはずだ。

 だが、キリエはそれをしない。

「私はね、疲れたのよ。本当にもう疲れてしまったの。すべてに。両親から虐待されて、それが怖くてレンを連れて逃げだした。本当に必死だったよ。それで幸せとまでは言えなくても、温かい日々を過ごしていたんだ、レンと二人で。でもそしたら今度は人食病。私はね、一生懸命勉強した。いろんな書物を読み漁った。いろんな知識を手に入れて、絶対にレンを元に戻すって決めた。でもね、でもね……治せない。治せないのよ……」

 マキナの表情が変わる。キリエは人食病を治す薬を作ると言っていたのだ。しかし目の前のキリエはそれを否定する。治すことはできない、と。

「ごめん、マキナ。私、嘘ついた――」



「――人食病は治せない」



 マキナの顔が驚愕に染まる。そして気付いた時には右手でキリエを殴り壁に押し付けていた。まだ完治してはいないがキリエの治療のおかげでもうほぼ問題なく動く。

「どういうことだッ! お前、俺たちを騙したのかッ!?」

 左手で拳銃を引き抜き、キリエの額に押し付ける。

「ごめん、ごめんね……」

「答えろッ! 人食病は治せない? ならカイに飲ませたさっきの薬はなんだッ!?」

 先程キリエはカイに薬を飲ませた。しかし、それを飲ませたキリエ自身が人食病は治せないとそう言う。ならば、飲ませた薬は一体何なのか。

「答えろッ!」

 マキナが叫ぶように問い詰める。

 答えないキリエに対し、マキナが拳銃をさらに深くキリエの額に押し当てたその時。突然轟音と共に研究室の扉が叩かれた。

「お、兄ちゃ、ん? あたしね、なんか変、なんだ……。身体が熱く、て……。怖い怖いよ……」

 カイの声だ。キリエのことなどすべて忘れて、ドアの前へと向かうマキナ。

「おい、カイ! カイッ! 大丈夫か!? 今何とかしてやるから! くそッ!」

 マキナが扉を懸命に開けようするが、ピクリとも動かない。

「くそッ! おい、キリエ! お前カイになにをした!?」

「ふふ、心配しなくていいわ。カイちゃんは死なないわ。あなたもね、マキナ」

 キリエが笑いながら言った。マキナは意味がわからなかった。キリエは一体何がしたいのか。マキナやカイをレンの食料にするために殺したいというのならまだ納得できる。しかしマキナやカイは死なないという。

 考えながらもマキナは必死に扉を開けようとする。

「無駄よ。その扉は開かない。この研究室の扉は特殊でね、ちょっとやそっとじゃ壊れないの。だから無駄よ」

「いったい何なんだよっ! お前は何がしたいんだッ!」

 マキナは再びキリエを壁に押し付けた。右手で首を締め付け、左手の拳銃はこめかみへ。マキナの息は荒い、怒りが体内を駆け巡り、一歩間違えばキリエをすぐにでも殺してしまうかもしれない。

「心配いらないって言ったでしょ。カイちゃんに飲ませたのは人食衝動を促進させる薬よ。身体に悪影響はない」

 先程、カイが研究室の扉を叩いた力。間違いなく普段のカイでは出し得ない。それはすなわち、人食病による禁断症状が出ている結果だ。そしてキリエは言う。自らが投与した薬によって禁断症状を引き起こしたのだ、と。

 マキナは意味がわからない。そんなことして何の意味があるのか。

「ねぇ、知ってるかしら? 人食病の人間を完全に殺す方法」

 人食病の人間は死なない。それは誰もが知っている事だ。人食病の人間はゾンビと同じだ。頭を吹き飛ばされても、必ず再生する。だからどんな方法を持っても殺すことはできないと言われてきた。

「ふふ、知らないようね。でもあるのよ、二つ、ね。そのうちの一つが今私のやっていること――」



「――人食病に侵された人間は、同じく人食病に侵された人間によって食われることで、完全に死ぬのよ」



「な、に……?」

 それでも話がおかしい。キリエの言う殺す方法は確かに正しいのかもしれない。だが、キリエが殺したい人食病患者とは一体誰か。

 マキナの頭に嫌な予感がよぎる。

「ふふ、今カイちゃんは本能に従って人肉を貪る獣と同じよ。でも、研究所のドアはそう簡単には開かない。だから私たちのことを食べることは出来ない。じゃあ、どこに行くでしょうね。ここらに最も近くにある食糧は……」

「お前、まさか――」



「――レンを、自分の弟を、カイに食わせる気か……?」



 キリエはレンを殺そうとしているのだ。人食病の本能に取りつかれたカイは、人肉を求めて彷徨うだろう。だが、マキナとキリエは厚い研究室の扉に阻まれ食べることは出来ない。ならば当然、カイはこの病院にいるもう一人の人物を狙うだろう。

 人食病に侵されたキリエの弟、レンを。

「お前ッ……。正気か?」

 確かにこれならキリエの言った通りマキナもカイも無事だ。だが、何故こんなことをする? あれほど大切にしていたレンを何故キリエ自ら殺そうとするのか。

「言ったでしょう……? 私はもう疲れたのよ。いいかげん嫌なのよ。こんな世界にいるのは。でもね、あの子をおいて行けない。だからあの子と私、二人ともが死ねる方法を探さなきゃいけなかった」

 そこでキリエは一瞬の沈黙の後、ゆっくりと言った。

「……私は、死にたいのよ」

(なんだよ、なんなんだよ、それ)

 キリエは死にたかったのだ。人が人を食うというおぞましい病気が蔓延する世界。人を殺すことでしか明日を描けない世界。そんな世界で生きて行きたくはなかったのだ。でも一人では死ねない。大切な弟を一人ぼっちにするわけにはいかなかったから。だから探した。二人で死ぬ方法を。

 その結果が今、マキナとカイによってもたらされている。

(……そんなのって、悲しすぎるよ)

「あら、泣いているの? あなたたちには感謝しているわ。これでようやく天国に行ける。こんなどうしょうもない世の中にさよなら出来る」

 いつの間にか、マキナの目から涙が溢れていた。

「なんで、なんで! なんで一緒に生きるっていう選択肢を選ばなかったんだよ! 俺は選んだぞ! カイと二人で生きて幸せになるって誓ったんだ! なんでお前はそれを選べないんだ。生きろよ……。生きて、生きて、生きて、生き抜いて見せろよ!」

 マキナの目から落ちる涙は止まることを知らない。

「ごめんね、マキナ。みんなあなたみたいに強くはないのよ。私もね。だから耐えられなかった。こんな希望もない世界で生きていくのは。ふふ、嬉しかったわ。あなた私には白鳥がお似合いだってそう言ってくれたでしょ? あれ、ものすごく嬉しかったわ。次に生まれる時には白鳥がいいかもしれないわ……」

『白鳥みたい』自分が言ったその言葉、キリエの表情を見て、マキナは昔を思い出した。

 それは幸せだった頃の記憶。

 母親が事あるごとによく言っていた口癖。

『私みたいに白鳥のような人を見つけなさい』

 そこまで思い出してマキナは気付いた。何故ここまで自分がキリエに心を開いていたのか。何故ここまでキリエを無条件に信頼していたのか。

 研究所でキリエと会話した時、マキナはキリエに何と言ったか。



『あんたは白鳥くらいが丁度いい』



 無意識だった。本当に無意識だった。気付いたら言葉にしていた。

(そっか……。そうか。キリエは……)

「……マキナ?」

 マキナは大きく息を吐く。自分がキリエにここまで親近感を抱く理由。それは、

「あんた、母さんに似てるんだ」

「お母さん?」

 無意識にマキナは、キリエに対し母親と同じような安心感を感じていたのだろう。だから知らず知らずのうちに心を開いてしまっていた。いつのまにか大切な人になっていた。

(ははっ、カッコ悪いなぁ……。それに、何で今まで思い出せなかったんだ)

 自分の気持ちに今まで気付くことが出来なかった。それに気付けなかったということは母親の記憶がすら薄れてしまっているということだ。幸せだった頃の家族の記憶。それすらも今のマキナの中では消えつつあるのかも知れない。

「だから俺、いつの間にかお前に甘えていたのかもしれない。ははっ、かっこ悪いな。この歳で誰かに甘えたいなんて、かっこ悪い」

 マキナの頬を一粒の雫がつたう。気付かないふりをしていても、苦しかった、辛かった。だから、母親に似た人物に出会って、そこに縋りたくなってしまった。知らないうちに惹かれてしまっていた。

「大丈夫よ。かっこ悪くなんてない。あなたはかっこいいわ。とても」

 キリエはそう言ってゆっくりとマキナを抱きしめる。

 そして自らの唇をマキナの唇に重ねた。

「強くなれるおまじない。ふふっお姉さんからの最初で最後のプレゼント。さぁ、お願い最後は誰かの手で逝きたいの。だから、その引き金を引いて、お願い」

 マキナは首を横に振る。そんなこと出来るわけない。全ての事情を知り、自分の感情を知った今、そんなこと出来るはずがない。

「生きよう、一緒に。今からならレンだって間に合うかもしれない! 全部守るから、守って見せるからッ!」

「ふふっ、それもいいかもしれないわね。でもね、あの子を一人にしてはおけないし、それに――」

 キリエはそう言って着ているシャツのボタンを外し始めた。そこには、

「見える? これ、私もどうやら感染しちゃったみたい。今まで感染しなかったのに、いきなりどうしてだろうね……?」

 キリエのはだけた胸には黒い刻印が浮かんでいた。

 それが示すのは一つだけ、キリエも人食病に感染したということ。

「でも、まだ間に合う。私は感染してはいるけど、人食病患者が死ななくなるのは、初めて人食衝動を覚えた時からよ。まだ私は感じていない。だから、早く」

「そんな……。でもッ!」

「お願い。私はあなたを食べたくなんてない。ちゃんとした人間として死にたいの。だから、お願い――」



「――私の愛した人の手で私を殺して」



 マキナは拳銃をキリエの額に強く、強く押し当てた。

「こんな少年に惚れちゃうなんて私もどうかしてるわね。大好きな妹さんと幸せになりなさい。そのかわり来世じゃ私の恋人になってね? 約束よ、マキナ」

 そう言ってキリエとマキナは小指を絡め合った。



「ありがとう、大好き。さようなら」

 それが、響キリエの最後の言葉。



 部屋に銃声が響く。


 また一人、人が死んだ。ただ、それだけのこと。


 マキナはキリエの向こう側に母親の影を、幸せだった頃の自分を見ていた。だから、キリエのそばにいるのは居心地が良かった。知らないうちに惹かれてしまっていた。それが愛情だったのかなんてわからない。ただ、大切な人になってしまっていた。


 だが、そんな居心地のいい場所も自分自身の心も、引き金を引いて打ち抜いた。


 

 キリエの命と一緒に。


 

 人を殺しすぎた、とマキナは思う。

 マキナの腕は血で染まっている。この先もどんどんより濃く染まっていくだろう。そして、それに侵食されるように幸せだった頃の記憶も忘れてしまうのだろう。きっと最後には消えてしまう。キリエと過ごした時間もきっとすぐ薄れてしまう。


 だから、そんな不確かなものに頼ってなんていられない。縋ってなんていられない。自分の大切な人を守るためにもっと強くならなければいけない。もう、思い出には縋らない。大切なものは目の前にあるのだから。迷う必要なんて何もない。



(母さん、父さん。キリエ……さよならだ)

 


 もう、誰にも頼らない。

 もう、何にも縋らない。


 もう、迷わない。

 



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