第二章『罪』

 先日の食料確保を終えてから約一週間が過ぎた。カイの人食衝動は今のところ、まだ表に出てきていないようだった。今まで傾向から言って、二週間を過ぎて三週間目に差し掛かる頃が一番危険だった。

 ゆえに、幸いカイの衝動が限界に来るまでまだ時間がある。時間があるならば食料確保よりも優先すべきは人食病の治療方法についてだ。

 マキナたちは二日前に大きな病院の跡地を見つけ、今はそこを拠点として人食病の治療方法を探っていた。文明崩壊前はおそらく名のある病院だったであろうこの場所は、数十階建てのかなり大きなビルになっている。このビルの中から人食病に関するデータを探し出すだけでも一苦労だが、見つけたからと言ってそれがカイを救えるとは限らない、部の悪い賭けだが、それしか現状の希望は有り得ない。

 昨日、一昨日で一階から五階まで探索したので今日はそれより上だ。

 マキナの隣をカイがゆっくりとついてくる。

「お兄ちゃん……いつも思うけど、誰もいない病院って怖いよね……」

 はにかみながらマキナの裾を掴んでいるカイ。

「まぁね。でも問題ない、カイは俺が守ってやるから」

「……うん。でもあたしだってお兄ちゃんを守るからね!」

 腕まくりをしながら笑うカイ。

 本来なら二手に分かれて捜索した方が早いのだろうが、何処に誰が隠れていて、いつ命を狙われるかわからない世界なのだ。そんな中で二手に分かれれば、二度と再会できない可能性は小さくない。

 病院の跡地には様々な、医療器具が散乱し、不気味なことこの上ない。病院なら治療していた患者の死体や骨があってもおかしくはないはずだが、それはなく、おそらくは人食病に侵された者の食料になったのだろう。

 病院の一室一室を順番に回って行くと、大きな檻が設けられた部屋を見つけた。それはまるで病院と言う場所に似つかわしいものではなく、動物園でライオンやヒョウなどの肉食動物を入れておくのが正しい使い方のはずだ。

 檻の中はおそらく人骨と思われる骨が尋常ではないほどごろごろと転がっており、もしかするとその骨こそがこの病院の患者だったのかもしれない。その向こう側には血で出来たと思われるしみがいたるところに飛び散っていた。

 五年前のマキナとカイなら間違いなく見た瞬間に吐いていたであろう非日常。だが今となってはなんてことはない。あくまで日常的な光景だ。

 警戒しながらさらに部屋の奥へと進むと、檻の奥に小さな影が見えた。

人だ。

「待て、カイ。誰かいる」

 カイの耳元で小さく言うと、マキナは一歩前に出た。ゆっくりと慎重に檻の中を窺う。部屋の中は薄暗く、人の気配はするがはっきりとはわからない。しかし目を凝らして見ると、ぼんやりと小さな影が見えた。

「子供……?」

 檻の中にいたのは小さな男の子だった。薄暗いのに目が慣れたのか、しばらくするとはっきりと見えて来た。顔立ちは整っており、一般的に言えば間違いなく美少年と言った類だろう。だが一見美少年に見えるその姿も、しっかりと見れば普通でないことがわかる。金色の短い髪は血で赤く染まり、その輝きを鈍らせてしまっている。さらに、その手には骨らしき物を持ち、まるで犬のようにしゃぶりついている。

「骨……? え、」

 それが動物の骨である可能性は考えなかった。檻に入れられ、骨にむしゃぶりつく人間。この世界なら誰でもすぐに確信に至る。

 その様子が意味することは一つ。間違いない。この男の子は人食病に侵されている。

 マキナはその少年をもう少し詳しく調べるべく、ゆっくりと檻へと近付く。ここにこの少年が閉じ込められているというのであれば、必ずどこかに閉じ込めた人間がいるはずだ。その人間の手掛かりを得るために危険だとはわかりつつも、近づかないわけにはいかなかった。

 するとその刹那、マキナはしっかりと鋭い殺気を感じた。

「私のレンにさわるなァァァァァァァァァァァ!!!!!!」

 後ろから大きな声が響き渡った。

「……ッ!」

 マキナは咄嗟に振り向き、カイを腕で庇いながら隣の部屋へと逃げ込む。二つの部屋が中にあるドアで繋がっており、簡単に逃げ込める位置にあったのが幸いだった。しかしこのままではいられない。このままここに隠れているだけではジリ貧だ。

 マキナはドアの端から少しだけ顔を出して様子を確認する。先程の大きな声の主は紅い髪をした女だった。ぱっと見ただけではわからないが、マキナやカイよりかなり年上だろう。二十代そこそこといった感じだろうか。

 女は、レンと呼ばれていた男の子の無事を確認すると、まるでそれだけで人を殺せるのではないかと感じられる鋭い視線をマキナたちに向けてきた。

「あんたたち、よくもぬけぬけとレンに近づいてくれたわね、お礼に肉の塊にしてあげるわ!」

 女が腰から引きぬいた拳銃の引き金を引く。咄嗟に顔を引っ込めてやり過ごすマキナとカイ。しかしマキナは避けるだけではない。女の一瞬の発砲を見逃さずに、冷静に分析する。

 女が使っていたのは、かなり小型の拳銃だ。おそらくは威力は低いが小回りの利くタイプだろう。

 ほんの数秒で思考をまとめると、マキナも腰から拳銃を抜き取り、引き金を引く。

 この拳銃は普通の銃よりもかなり威力が高い。だがその半面撃った後の反動も小さくないため、小回りは利かない。そのため扱いがかなり難しい。だが、初めて人を殺した時から愛用している、相棒だった。

マキナはそんな女の銃とは正反対の性質を持った拳銃の引き金を引いた。

銃弾がいきかう中で、カイが聞いてきた。

「ねぇ、あの子人食病、だよね? だったらあの女の人、この病院にあった情報を持っているじゃないかな?」

「ああ、だろうな。もしかするとあの女が全部持って行ってしまってるかもしれないな。明らかにこの病院は人食病に関する資料が少ないと思っていたけど……そういうことか」

 この病院は普通に比べて明らかに人食病に関する資料が少なかった。それはおそらく目の前の女が病院をくまなく調べ上げ、その資料をすべて持ち去ったからだろう。あの檻から見て、あの女は間違いなくこの病院を拠点にしている。探す時間は俺たちよりもはるかにあったはずだ。

 そうとわかった以上、なにがなんでもあの女から情報を聞き出さなければいけなくなった。

「よし、カイ。ここでじっとしてろよ。あとは俺に任せろ」

 心配そうな視線を向けてくるカイを、にっこりと笑って安心させてやる。カイは人食病に侵され死なないとはいえ、それ以外は極めて普通の女の子なのだ。超人的な力を発揮するのはあくまで人食衝動による禁断症状が起きてしまったときだけだ。普段はむしろ一般で言えばかなりか弱い部類に入るだろう。そんなカイを戦わせるわけにはいかない。

(……よし、やってやるか)

 マキナは手に持つ銃弾を確認し、身体のあちこちに仕掛けてある武器の位置をもう一度頭で把握する。足や腕、さらには服の中など、万が一の場合に備え様々な武器を隠し持っているのだ。

「あら、降参かしら? おとなしく食料になるのなら見逃してあげてもいいわよ? それじゃ見逃したことにならないかしら? まぁ、なんでもいいわ」

「なぁに、心配すんな。今から存分に相手してやるよ、人生最後のおしゃべりを楽しむんだな」

 マキナの言葉と同時に女が黙った。おそらく、これから本格的な戦闘になることを感じたのだろう。しばしの沈黙、そしてガタン、という瓦礫の落ちる音。

 それが始まりの合図だった。

 音と同時にマキナは部屋のガラスを突き破り廊下へと飛び出した。女もマキナを追って廊下へと姿を現す。ドンッ! と女の銃弾がマキナの頬をかすめるが、気にしない。紙一重で生きているということは戦場において運ではなく実力だ。紙一重を乗り切れるかどうか、そのすべてが一瞬一瞬の判断なのだから。

 マキナの拳銃は威力こそ大きいものの、引き金を引いた後にわずかにスキが出来る。だからそう簡単には撃たず、タイミングを見計らう必要がある。

 廊下に立って、お互いの距離は約十メートル。その気になれば一瞬で詰められる距離であり、銃で撃つには少し近すぎる、そんな距離だ。お互いほんのわずかな思考時間で次の一手を決める。

 マキナがとったのは銃による攻防ではなく、一気に距離を詰め、接近戦により短時間でこの戦いを終わらせる方法。近づくまでに小さくない危険はあったが、女の銃は小回りさえ利けど、威力はさして高くない。

 それゆえ、接近するまでに殺される可能性は極めて低いはずだ。対して女は、あくまで銃を基本に考え距離を保つ方法。おそらく銃で追い詰め、弱らせたところを狙うつもりなのだろう。

 相手の手の内が読めたのであれば、それに突き合う必要はない。

「うぉぉぉぉォォォォ!」

 マキナは数歩で一気に距離を詰める。その間も、ドンッ! という音と共に女の銃弾のいくつかが身体を抉っていく。しかし予想した通り、痛みはあれど身体が動かなくなるほどではない。

「ちッ!」

 女が舌打ちをしつつ、後ろへと後退する。その表情は苦渋に満ちている。しかし、マキナの勢いは止まらない。真っ直ぐに女へと突き進み、右手で右太腿に隠していたナイフを逆さ持ちで取り出す。勢いに任せ、スピードのままに女へと薙いだ。だが、女もそう簡単にはやられてくれなかった。

 女は咄嗟に一歩後ろへと下がり、ナイフを避ける。さらにはその避けた勢いをそのままにバック転気味に蹴りを放って来た。マキナもギリギリのところで反応し避ける。女の蹴りは人体の急所である顎を確実に狙っていた。

 もし避けられていなければやられていた可能性が高い。女もこんな世の中で、かなりの修羅場をくぐって来ているのだろう。

 刹那とも言える瞬間、女の身体はバック転気味に宙を舞っている。空中、それは人間の身体において最も自由が効かない空間だ。掴むものも叩くものもない。そこに対して働くのは逆らえない重力だけだ。ゆえにその状態は大きなスキと言っていい。重力の方向さえ把握できれば、相手の動きのだいたいが把握できる。

 そして、そのスキをマキナは逃さない。

 これこそがマキナの狙いだった。女はマキナが接近戦を選んだのとは逆に距離を取って闘うことを選んだ。ならば、マキナが近づけば離れようとすることは目に見えている。マキナは左手に隠していた小型手榴弾を取り出し、口を使って線を外す。そして一気に女の着地地点あたりに投げ捨てた。

 バック転で着地しようとしている女の勢いは止まらず、そのままいけば小型手榴弾の爆発に巻き込まれることとなる。

 女が目をつぶるのが見えた。爆発に巻き込まれることを予想したのだろう。だが手榴弾特有の轟音は鳴らなかった。辺りに煙は生まれず、壁や地面が破壊されることもなかった。

 マキナがゆっくりと女に近づきナイフを突き付ける。

「それは、ダミーだ。貴重な情報源を殺すわけにはいかないだろ? チェックメイトだ。お姉さん」

 地面に転がる小型手榴弾を見ながら言うマキナ。女はマキナに対し軽蔑と怒りが混じった視線を向けるが、もう勝負はついた。あとは情報をすべて喋ってもらうだけだ。




     †     †




「で? お前はここで何をしている?」

 マキナが女を見下しながら聞いた。

 右手に持った拳銃は女の額に当てられている。今マキナが引き金を聞けば一瞬と待たずに女は肉片と化すだろう。女の生死は完全にマキナが握っている。女は両手を縛られ、銃やナイフなどの凶器の類はすべて失い、椅子に座らせている。

 だが凶器はすべて奪ったというのに、まるで凶器のごとく鋭いその眼光だけはまったく輝きを失っていない。まるで、『おまえにわたしは殺せない』そう言っているかのようだった。

「別に取って食おうというわけじゃない。お前がこの病院で手に入れた情報を教えてほしいだけなんだ」

 答えない女に、マキナは僅かに態度を軟化させて言った。正直なところ、マキナが女のオーラに圧倒されてしまった部分が少なからずあったのは認めざるを得ない。しかしそんなことを悟られるわけにはいかない。

「……情報?」

 怪訝そうに聞き返す女にマキナははっきりと答える。

「……人食病。この病院にある資料は全部お前が持っているんだろう? あのレンって子を見ればわかる。あれを人食病だと思わない方がおかしいだろう」

 レン、という名前が出た瞬間、マキナを見る女の視線がさらに鋭さを増す。その姿はまるで獲物を狩る猛獣のようだった。

「……あんたに何がわかるの。人を殺さなければ大事な人が死ぬのよ? 殺しちゃ悪いとでも言うつもり? そんな綺麗ごとは聞きあきたわ」

 女はマキナが人殺しを諭すつもりだと思ったらしい。だが、あいにくマキナにそのつもりは毛頭ない。むしろ人殺しの数で数えればマキナの方が上かもしれないのだ。責められる理由が見つからない。

「はっ、別に悪いなんて言うつもりはないさ。俺も今じゃなければお前を殺して食料にしているだろうな。今はタイミングが合わないだけだ」

「タイミング……? まさか、あなたも侵されているの?」

 女の顔が僅かに緩む。先程のレンという男の子のように人食病を患う者に対して何かしら思うところがあるのかもしれない。

「……違う。俺じゃない。カイ、俺の妹だ」

 今、カイは隣の部屋にいた。本来なら離れるべきではないのだろうが、もし女が何も話さないようであればどんな手段でも使うつもりでいた。そのため惨いことを行う自分の姿を見られたくはなかった。隣は鍵も掛かる部屋なので外からは侵入できない。一応は問題ないだろう。

「へぇ……。それで人食病の情報なのね。あなた、名前は?」

「俺はマキナ。梔子マキナだ。お前は?」

「……響キリエ。さっきのあの子、レンは私の弟よ」

 弟、という言葉を聞いてマキナが反応する。マキナも人食病に侵された妹を持つ身だ。弱肉強食の世とはいえ、マキナは一応人の心までは失っていないつもりだ。妹と弟、性別こそ違えど似た境遇を持つ者同士。マキナは自分自身の心が僅かに緩むのを感じた。それが同情なのか仲間意識なのかまではわからないが。

「弟、か……。そのためにここで人食病について調べていた、と」

「そうよ、もう随分前からここにいるわね」

「何か見つかったか?」

「いいえ、何も。見つかっていたら、あの子をあんな檻に入れていると思う? もうあの子は二カ月近く食事をしていないわ。極めて危険な状態。禁断症状が出る寸前のところで我慢しているはず……」

「……ッ! 二か月?」

 マキナは驚愕を禁じえなかった。人食病患者は数週間に一度と一般的に言われている、それを二カ月もの間耐え続けいているという強靭な精神。カイも以前に禁断症状の発作を起こしかけたことがあるが、一か月持たなかった。

「ええ、そうよ。もう限界は近いでしょうね」

 人食病患者が二ヶ月間食事をしない。これは極めて危険な状態だ。今すぐに禁断症状の発作が起きてもおかしくない。

「……悪いが、食料になる気はない」

「でしょうね、むしろ私を食料にするかしら?」

 キリエを食料にする。誰もが考えうる当然の選択肢だった。人食病に侵されたカイを守るためには、食糧が必要だ。そのため、マキナもキリエを食糧としてカイに食べさせるつもりでいる。

 だが、それは今ではない。まだカイの禁断症状発症までは幸い時間がある。それは、キリエから情報を聞き出す余裕があるということだ。

 一秒を惜しむようにマキナはキリエに問いかける。

「情報は何処にある? 全部だ」

「……さっきあなたがいた部屋の机の中ね。そこにすべてがあるわ。悪いけど大した内容のものはないわよ。期待しない方がいいわ」

 大したものはない、そう言われて簡単に鵜呑みにするわけにはいかない。情報を独占している可能性は小さくない。こんな世の中で信頼できるのは自分だけだ。

「……どうだかな」

 マキナはキリエを立つように促すと部屋を出た。人食病の情報を確認しに行くのだ。情報を調べるなら早いに越したことはない。もちろん、移動する間もキリエの額に銃を向けることは忘れない。

「あ、お兄ちゃん! 終わったの? 大丈夫? 怪我してない?」

 扉を開けると、カイが近づいてくる。いつものようにマキナの心配をしながら。マキナは大丈夫だよ、と優しい口調で言った後、情報を調べる旨を伝える。カイは頷きマキナの後に続く。

 先程キリエに襲われた際、マキナとカイの二人が咄嗟に逃げ込んだ部屋の奥に目当ての机はあった。引き出しを開け、中にある資料を確認する。いくつかの冊子にまとめてあり、そのすべてを合わせると五百ページくらいだろうか。

「死にたくなければ、変な気を起こすなよ」

「……はいはい、用心深いわね」

 マキナはキリエの腕を近くのパイプに縛り付け、資料へと目を移す。カイも同様にマキナの後を追って資料へと目を通して行く。一行ずつ決して見間違いのないように。

 久しぶりに訪れた希望なのだ。この中にカイを救う方法があることを信じて、マキナはページを読み進めていく。




     †     †




 人食病が世界に蔓延して以来、世界は暗闇に包まれた。太陽が顔を出すことなど極めてまれであり、日中でも常に薄暗かった。そのため、今の世界の人々はまともに時計を使わない。あってもなくても変わらないからだ。昼も夜もない、いつ誰かに襲われるかわからないそんな世の中で時間に縛られて生きる意味はない。

 そんな存在を忘れられた時計が夜の九時を指す頃、マキナとカイはすべての資料に目を通し終えた。

「……何もない。くそッ! 何もないッ!」

 そう言ってマキナは手に持っていた資料を乱雑に床に叩き付けた。

 そう、その内容にカイの病を治すための手掛かりになるようなものは何もなかった。書いてあったのはあくまで人食病の症状の概要や、患者の経過報告。禁断症状に陥った場合の残酷さ。そして何よりもマキナを苛立たせたのは、丁寧に治療法はない、とまで書いてあったことだった。

 叩き付けた資料を見つめ、拳を握るマキナ。隣ではカイが俯いている。二人の心をどうしようもないほどの焦燥感が蝕んでいく。

 すると、マキナたちが資料に目を通している間一言も言葉を発さなかったキリエが、沈黙を破るように声を上げた。

「……満足したかしら? これが全部。この病院内にあったすべての情報よ」

 その言葉に対し、マキナとカイは何も答えない。答えられなかった。もちろん、そう簡単に人食病の治療法が見つかるとは思っていない。だが、過酷な旅を五年間続けるなかで、何も手掛かりを得られないというのはやはり堪えるものがあった。この五年間で手に入れることの出来た情報すら数えるほどしかない。

 無言の二人を無視するかのようにキリエは話を続ける。キリエはこうなることを待っていたかのように落ち着いており、マキナとカイの二人に有無を言わせない雰囲気で淡々と言葉を紡いでいく。

「この病院内にあった情報はすべてよ。でもね、私自身が導き出した情報はそこにはないわ」

 マキナとカイが同時に、キリエを見る。『私自身が導き出した情報はない』。つまりはこれ以上の情報をキリエは持っている、ということ。

「私は、世界が崩壊する前はこの病院で働いていたのよ。だから数えきれないくらいの人食病患者を見て来ている。そんな経験があるから言えるわ――」



「――人食病を治す薬は作れる」



 マキナとカイはその言葉を聞いて、驚きを隠せない。驚愕と言っても良かった。世界中が血眼になって探し続けたにも関わらず見つけられなかったものを、目の前の女は見つけたと言っているのだ。こんな荒廃しきった世界を救う方法があると言っているのだ。

「……性質の悪い冗談だな」

 マキナは鼻で笑い、肩をすくめる。有り得ない、そう思うのが普通だ。マキナはとてもではないが信じることが出来なかった。マキナの隣のカイは何も言わずに、じっとキリエを見つめている。

「まぁ、そう言うでしょうね。でも嘘じゃないわ。ここの地下には、私の研究室がある。そこで今も研究を続けているわ。あと少しで完成する。だから少しでいい。私を自由にして頂戴」

「はっ、何を言うかと思えばそれか……。そんな嘘に騙されて俺がお前を自由にすると思ったか? 甘く見られたもんだな」

 この話は馬鹿げている。キリエが生き延びるために嘘を言っていると考えるのが、状況から見て妥当だろう。しかし、それでも『人食病を治す薬は作れる』という言葉がマキナの心を揺さぶる。人食病さえなければ、マキナとカイ二人の幸せな時間が戻ってくるかもしれない。

「あと数日、長くても二週間あれば完成する。嘘かどうか判断するのはその後でも遅くないはず。妹さんを助けたいのでしょう? ならば意地を張るのはやめなさい。もちろん薬が完成したらあなたたちにも提供するわ。ここで私を自由にすればあなたも私も大切なものを失わずにすむのよ。悩む必要なんてないでしょう!」

 キリエの言うことはもっともだった。極めて正しい。もしどうしても信用できないというのなら、常に見張っておけばいいのだ。それはわかっている。だがマキナが気にしているのはそれだけではない。

「……くそッ」

 キリエが嘘をついている可能性はある。しかし、たいした問題ではない。もしキリエが不審な行動をとれば、最悪殺してしまえばいいのだから。

 それ以上にマキナを悩ませている問題、それはカイの禁断症状だ。カイが食事をしたのは約一週間前。カイの禁断症状が発症するのは約二週間から三週間。期限的に考えてギリギリだ。もしうまく行かなければカイが人肉を貪る獣になり果てる。

 マキナが少しの間黙り、考えていると、

「……わかった、二週間でいいのね?」

 隣でずっと黙っていたカイが言った。

「おい、カイ!」

「……わかってる。お兄ちゃん。お兄ちゃんの言いたいことはわかってるよ。でもね、もしこの話が本当なら、試す価値は絶対にあると思うんだ。お兄ちゃんと一緒に普通に暮らせるんだよ? 危険な賭けかもしれないけど、賭けてみたいよ! そのためなら、あたし頑張れる」

 カイの言葉を聞いたキリエが真剣な表情で、マキナに対して事実を並べていく。

「あら、妹さんの方が利口ね。そう、仮にこの話が嘘だとしても賭けに乗る価値はあるんじゃなくて? 私の武器はすべて没収しておけばいいんだもの。……それに最悪の場合私が食糧になってあげるわ」

 自ら食糧になると、カイに食われてやると、平然と言ってのけるキリエ。その言葉には相当の覚悟が感じられた。マキナを圧倒するほどの。そして何よりも感情ではなく論理的に考えて、たとえ罠だとしてもこの話に賭けてみるだけのメリットがマキナとカイには存在した。

 マキナは目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。そして、

「……わかった。二週間だ。それ以上は待てない。それと今すぐその研究所とやらに案内しろ。詳しい話はそれからだ」

「ありがとうっ! お兄ちゃん!」

 カイが嬉しそうに、飛びついてくる。

 カイの本当の笑顔を取りもどすためには時として危険な橋も渡らなくてはならないのだろう。大丈夫、絶対に大丈夫。

 そう自分に言い聞かせ、マキナはキリエの縄を解いた。




     †     †




 それから一週間、キリエは研究所にこもりきりになった。マキナが見張りのために、研究所に入ると、寝る間も惜しんで研究に勤しんでいた。研究に没頭するあまり、マキナの存在に気付かないことなど当然で、時にはマキナの前で居眠りを始めることすらあった。キリエのあまりに無防備なその姿に、マキナはすっかり毒気を抜かれてしまっていた。

 朝起きて、いつものようにキリエを見張るために研究室へと向かうマキナ。カイはまだ眠っていたので研究室の隣の部屋に置いてきた。隣なので、何かあればすぐわかるはずだ。幸いカイの禁断症状は未だ顔を覗かせてはいない。

(このままうまくいけばいいが……)

 わかっている。油断は禁物だ。禁断症状は何かの拍子に突然発症することもあるからだ。キリエの研究が完成するのが早いか、カイの禁断症状が早いか。まさしくギリギリの綱渡り。キリエの研究の状況は詳しくわからなかったが、今のところは順調なようだった。

(今のところはいい方に転がっている、か……)

 研究室のドアを開けると、目の下に非常に大きなクマを作ったキリエがいた。日に日に目の下のクマが大きくなる。おそらくロクに寝ていないのだろう。

「あら、また来たの? あんたも暇なのね。私なんかに構っている暇があればカイちゃんとイチャイチャしてればいいのに」

「誰が、イチャイチャだ。誰が。……そんなことより順調か?」

 マキナは真剣な表情で聞いた。この質問をするのは何度目だろうか。もう数えきれないほどしたかもしれない。マキナ自身聞いても仕方ないことはわかっているつもりだ。だが、それでも聞かずにはいられなかった。

 そして、もう何度目かもわからない質問に対し、キリエは必ず丁寧に答えてくれた。怒ることも、無視することも、キリエはしなかった。

「ええ、まぁまぁって感じかしらね。一週間以内には完成するんじゃないかしら。期待して待ってなさい」

 その言葉を聞いたマキナが頷く。一週間以内、この言葉を聞いてマキナはほっと肩を撫で下ろす。そのくらいならばカイの禁断症状もなんとかなるかもしれない。

 マキナがそんなことを考えていると、キリエは自嘲気味に話だした。

「……にしても、お互い大変よね。人食病なんておかしな病気のせいで世界はめちゃくちゃ、挙句大切な人がそれに感染しちゃうんだから、災難よね」

「今の世界で人食病に感染してない人間の方が珍しいだろ。俺やお前の方が希少だよ」

「……それもそうかもね。でもあんたたちって兄妹なんでしょ? 歳は?」

「俺が十六、カイが十三だ。そういうお前はどうなんだ?」

 キリエがマキナたちのことを、マキナがキリエたちのことを聞くのは初めてだった。もう一週間近く一緒にいるが知らず知らずのうちにお互いについての話題は避けて来た。常に一枚お互いの間に壁を置いて話していた。それは、いつかまたお互いに殺し合わなければならないかもしれないという恐怖からだったかもしれない。

 だが、そんな壁も無意識のうちになくなっていた。

「兄妹の割にはずいぶん歳が離れているよな?」

 マキナが檻の中で見たレンと呼ばれた少年はどう見ても十にも満たない年齢だった。しかしそれに対してキリエは、明らかにマキナよりも年上だった。雰囲気からして誰が見ても大人だとわかるだろう。

「兄妹に見えないでしょうね。私の家はちょっと複雑でね。まぁ、どこにでもあるような話なんだけど。私が十六の時、父親が外に女を作ってね、その時に生まれたのがレン。それがきっかけで家族は崩壊、母親と父親の暴力やケンカが怖くて私はレンを連れて逃げだしたわ。それから十年間、私一人でレンを育てて来たって訳。だから今私は二十六、レンが十歳ね。弟と言うよりはむしろ、息子のほうが近いかもしれないわね。どう? 私もなかなかやるもんでしょ?」

「……お前もいろいろ大変なんだな」

「ま、このご時世、大変じゃない人間なんていないでしょ。人が人を食べる世の中……。神様は私たちをいったいどうしたいのかしらね?」

 キリエが研究室の天井を見ながら言った。

「……滅ぼしたいのかもな。人間はしぶとい生き物だ。だから滅ぼすには共食いが一番手っ取り早い」

「……そうね。こんな世の中になっても、私たちみたいに生き残っている人間がいるんだものね。人間って生き物のしぶとさは異常ね。それこそゴキブリ並み」

 キリエが笑いながら言った。マキナもそれにつられて笑ってしまう。

「俺たちはゴキブリなのか? さすがにそれは勘弁してほしいな」

「あら、私はゴキブリじゃないわよ? こんな綺麗なお姉さん捕まえてゴキブリだなんていい度胸ね」

「……そうだな、あんたは白鳥くらいが丁度いい」

 肩をすくめながら言った、マキナの言葉にキリエがクスクスと笑う。マキナはそんなキリエの笑顔に思わず見とれてしまう。それほどに綺麗で、優しい笑顔だった。

 するとキリエがここぞとばかりに意地悪な笑みを浮かべ、

「ん~? キリエお姉さんに見とれてたなぁ~」

「……ッ! そんなことっ!」

 図星をつかれ、思わず慌てるマキナ。言いながら、自分の顔が赤くなっていないか気になり、思わず近くのガラスで確認。しかしそんなことはキリエにとってはお見通しだったようだ。

「だーいじょうぶっ。顔、赤くなってないわよ」

 クスクスと笑いながらマキナをからかうキリエ。

 敵わない、そう思うマキナ。一緒にいるようになってからというもの、いつもキリエと話していると主導権を握られてしまっていた。だがマキナは、そんな状況すらも楽しく感じられてしまっていた。

 ふぅ、と大きい気を吐きながら方をすくめマキナは言う、

「……研究うまくいくといいな」

「大丈夫、そのために私は今頑張ってるんだから! キリエお姉さんに任せなさい。あんたは黙って待ってればいいのよ。もうあと何日かで完成なんだから。心配すんな」

 キリエがどんっ、と大きく胸を叩いて言った。

「げほっ、げほっ」

 強く叩きすぎてむせたらしい。マキナはゆっくりとキリエに近づき背中をさすってやる。

 照れつつもにっこりとほほ笑むキリエに対し、マキナも笑顔で応じる。

 そこでマキナは気付く。カイ以外の誰かに微笑むのなんていつ振りだろうか、と。不意にそんなことを考え、マキナは自分がキリエに対して心を開き始めているのだと自覚する。キリエと出会った時、何故か妙に懐かしい気がしたのと関係があるのかもしれない。

 ここしばらくキリエと一緒にいたが、キリエは本当にいい人だった。レンのために人食病を研究し、カイの事も気にかけてくれていた。

 この人なら信用出来るのかもしれない。

 出来るならこの人ともっと一緒にいたい。

 マキナはそんな風に思い始めていた。




     †     †




 その日の夜、事件は起きた。


 マキナはその日、普段とは違い珍しく深い眠りについていた。いつもならどんな状況になってもすぐに対応できるよう、最低限の睡眠しかとらない。しかし、この日ばかりは何故か安心したように、ぐっすりと眠ってしまっていた。

 そしてまさにマキナが深い眠りにどっぷりと浸かっている、その時だった。

「グググァァォェォェィォギャゥァァォェォァォェォッッッ!!」

 身体全体に響く不快感そのものであるかのような、凄まじい唸り声が病院全体に響き渡った。

 咄嗟にマキナは目を覚まし、自分が深い眠りに着いていたのだと自覚する。そのことに対し自分を責めたくなるが、今はそんな場合ではない。あの凄まじい唸り声の原因を探さなくてはいけない。

(これってまさか……ッ。嫌な予感がする)

 考えたくはないがマキナには心当たりがあった。

 異様な雰囲気を察したのか、隣で眠っていたカイも目を覚ました。

「お兄ちゃん……? 何があったの?」

「わからない。でも大丈夫だ」

 マキナはカイの頭を軽く撫で、ここで待っているように言うと、外していた拳銃を腰に着け、部屋を飛び出した。カイを一人で残すのは少し心配だったが、カイのいる部屋は鍵もかかりそれないに頑丈なので大丈夫のはずだ。マキナはそれよりも、自分の悪い予感が外れてくれていることを願っていた。

 マキナが部屋の外に出ると、反対側の研究室にいたキリエも部屋の外に出て来た。しかしマキナには目もくれず走り出す。目指す場所は間違いなく二人とも同じ場所だった。

 キリエの研究室からほんの少し離れた場所にある部屋。部屋のいたるところに血痕があり、床には数えきれないほどの人骨が転がっている。そして部屋に入ってすぐにわかる、病院という場所には似ても似つかない重厚に作られた檻。

 普通なら猛獣を捕獲しておくために使われるであろうそれの中には、鮮やかと表現しても足りないほどの金髪を持つ少年。響レンがいた。おとなしく、姉を思うがゆえに人食衝動を二ヶ月間も耐えた、不治の病に侵された健気な少年がいた。以前ならば。

 今、檻の中にいるのは以前のレンではなかった。低い唸り声を上げ、その手で地面を引っ掻き爪は剥がれ、自らの髪を毟り取っている。その口には人骨を咥え、肉の一欠けらも逃すまいとしゃぶり付いている。

 マキナの嫌な予感が当たってしまった。禁断衝動の発作だ。

 そもそも二ヶ月間も人食衝動を耐えていたのが奇跡なのだ。マキナとカイが来るまでの間の二か月、さらには来てからの一週間と少し。限界が来てもおかしくない。むしろ限界が来ない方がおかしい。

「ねぇ! ねぇ、レン? わかる? 私よ? キリエよ? わかるでしょ? あなたのお姉ちゃんよ?」

 レンの様子を見るや否や、キリエが檻の策を掴み懸命に問いかける。

 人食衝動に侵された人間、それはまさに獣だ。人間とは思えないほどの強靭な力を発揮し、衝動のままにただひたすらに人肉を求める。人間を超越した捕食者と言っても過言ではない。

 衝動に侵された人間には、どんな言葉も通じない。その行動は人肉を口にするまで止まらない。だが、

「ねぇ! レンっ! 私を見てっ!」

 キリエの言葉に、レンが僅かに反応した。今まで無茶苦茶に自分自身を傷つけ、床に転がる人骨を貪っていたレンがその動きを止める。ゆっくりとその視線をキリエへと向け、フラフラしながら立ちあがる。

「よかった、レン。私がわかるのね? 大丈夫。大丈夫だから。こっちにおいで、レン。お姉ちゃんがついてるから。絶対大丈夫だから」

 キリエはレンが自らの存在に気付いたことに安堵したのか、檻の柵の間に手を入れ、レンへと手を伸ばす。するとレンもそれに気付いたのかキリエの手を掴もうと近づいてくる。レンはキリエの側まで来ると、ゆっくりと静かにキリエの手を握る。そして――



「――キリエ、離れろッ!」



 マキナの言葉にキリエが反応し振り返るが、もう遅かった。

レンが勢いに任せてキリエの手首に噛みついた。

「……くそッ! 許せ、レン」

 マキナは一瞬の逡巡のあと、腰に下げた拳銃を一気に引き抜き、その引き金を引いた。出来る限りレンの身体を傷つけないよう、キリエの腕を抑えていた腕を狙った。人食病の人間は死なないとはいえ、身体は傷つく。どんなに傷つけても死なない、というだけだ。

 レンの腕に命中した弾丸により、レンはその口からキリエの腕を解放する。キリエは後ろへ倒れこみ、伸ばしていた右手の手首から下は真っ赤に染まっていた。出血量から見てかなりまずいと言っていい。

「おい、しっかりしろ。しっかりしろよ、キリエ。お前に死なれちゃ困るんだ。まだ、出会ったばかりだろ、くっそッ!」

 マキナは自分のズボンを破り、キリエの手首に巻き付ける。止血を試みるが思った以上に出血量が多く、いくらやっても血が溢れてくる。

「う……あァ……」

 幸いなのはこれだけの出血がありながらキリエの意識が途切れていないことだった。

「おい、キリエ。大丈夫か? ここを抑えろ」

 左手で自分の腕を抑えるように指示し、マキナは部屋のカーテンを巻き取ると、一気にキリエの腕に巻いていく。怪我の治療は得意ではないが、あくまで最低限のことは出来る。なんとかこれで応急処置は大丈夫なはずだ。今からキリエを連れて研究室まで戻り、しっかりとした治療をしなければならない。

 だが、人食衝動に侵されたレンがそれを許さない。

「ねぇ、レン、それはダメ。やめて。お願いだからやめて……。お願いだから……」

 すぐ側のキリエが絞り出すような声を上げる。本来ならば声を出すことさえ辛いはずだ。だが、そんな状態のキリエが声を絞り出して、願うような面持ちでレンを見る。

 マキナがレンを見ると、その視線の向こうには、自分の左目を抉りだそうとしているレンがいた。

「ハラ、ヘッ、タ……」

 グチュ、ブチッ、という不快な音と共にレンは自らの目玉を抉りだし、自らの口へ放り込む。そしてむしゃむしゃと、やっと飯にありつけたとでも言うように、ゆっくりと咀嚼する。その様子はもはや獣とも言えなかった。

 獣でも人間でもなく、ただただおぞましい何か。

「やめろ……。やめてくれ……」

 マキナは、レンがこうなっただけでも心がどうにかなってしまいそうだった。もしこれがカイだったら、そう考えると震えが止まらなかった。

マキナは今まで人食衝動に侵された人間が人を食べる場面を何度か見て来た。だが、人食衝動に侵された人間が自らの身体を食すなど、見たことも聞いたこともなかった。

 これが姉を想い、人食衝動を抑え続けた少年の末路。

「嫌っ……。もう、もうやめてよ……レン。お願いだから」

 マキナの側で、キリエが泣いていた。

 だが、大切な弟を想う優しい涙も、最愛の弟に向けた必死の言葉も今のレンには届かない。レンは自分の眼球を飲み込むと、ゆっくりと前へと足を踏み出す。この程度の食事で二か月もの間抑え続けたレンの人食衝動は止まるはずもない。それ以上に、とてつもない空腹の中で、僅かに食事をしたことでその衝動はさらに激しさを増す。これまでがまるで冗談だったかのように、レンの動きに力に満ちる。

 檻の内側から柵を掴むと、力任せにこじ開けようとする。

 この檻は普通の人間であれば絶対に開けることは出来ない。だが、ギリギリと音を立てて柵が曲がっていく。『人を食べたい』という衝動がレンを支配し、凄まじい力を与えていた。

「レン……。もう少し、もう少しなのに……。助けてよ……。ねぇ、お願いマキナ……。レンを止めて……」

 そう言ってマキナ胸に頭を預け、意識を失うキリエ。その様子は見たくない現実から目を背けるようだった。

 そんなキリエを見て、マキナは決意をする。無理かもしれない。だが、このままではどうしようもない。取れる道は一つしかない。

「……わかったよ」

 人食衝動に支配された人間の前では、他の人間はただの食料になり下がる。だが、そう簡単にやられるわけにはいかない。カイを守るためには。そしてもう一人……キリエという大切な人を守るためには。



「……ごめんな、レン。ちょっと痛いぞ」




     †     †




 マキナはまず、意識を失ったキリエを背中に背負うと一気に部屋を飛び出した。このままあそこにキリエをおいておいたら、レンの食料になるのは目に見えている。実の弟が姉を食べるなんて悲しいことあっていいはずがない。マキナはキリエに自分を、レンにカイを重ねていた。

(……絶対助ける。絶対だッ!)

 幸いなことにレンの動きは緩慢で、速さではマキナに分があった。そのため、レンに追いつかれる前にキリエをかくまうことが出来る。マキナは部屋を出て、先程までいた部屋――カイがいる部屋に向かう。

 扉を開け、中に入ると、カイがマキナを驚いた表情で迎える。

「キリエさん……ッ!?」

「悪い、説明している暇はない。キリエを手当てしてやってくれ。それから、俺がこの部屋から出たらすぐに鍵を掛けろ。俺が返ってくるまで絶対に開けるなよ」

 今もレンがこちらに向かっているはずだ。詳しく説明しているだけの時間はなく、マキナは端的にカイに指示を出す。

 必要最低限の指示を終えると、マキナは自分が持てるだけの武器を身体に装備し扉の外へ――


「――お兄ちゃん……死んじゃやだよ?」


 扉を閉める直前に、カイが声を掛けて来た。詳しい事情を説明せずとも、なんとなく察しているのだろう。それゆえ、今のマキナが何をしようとしているのかもわかっているのかもしれない。

「大丈夫。必ず戻って来るよ」

 マキナはにっこりと笑いかけながら、はっきりと口にした。まるで自分自身の決意を、改めて確かなものにするかのように。

(絶対に、レンにキリエを殺させない。そんなことあってたまるか……。絶対に、レンを止めてやる)

 レンにキリエを殺させてはいけない。そんな悲しい終わり方があってはいけない。たとえ世界がその結末を望んでいるのだとしても、マキナはそれを認めるわけにはいかなかった。キリエとレンのため。そして同じ境遇である自分たちのためにも。




     †     †




 マキナが部屋から出ると、カチリとしっかりと鍵のかかる音が聞こえた。カイはしっかり言いつけを守ったようだ。これで思う存分闘える。

とはいえ、人食衝動に侵された人間は、人のにおいに極めて敏感だ。この扉の向こうにキリエとカイがいることはすでに気づいているだろう。ゆえに二人を守るには、レンから身を隠すわけにはいかない。

 マキナは、常にレンの視界に入る位置で戦わなくてはいけないという、重いハンデを背負っていた。いわばマキナは馬の目の前につるされた人参のような状態を維持し、なおかつレンを無力化しなくてはいけなかった。

レンを無力化するためには、人食衝動に侵された者が発揮する絶大な怪力をも抑え込む強度を持った何かで動きを封じること、もしくはレンの人食衝動を満足させる食事をさせること、この二つをおいて他にない。

 だが、状況を鑑みるにどちらも限りなく不可能に近い。怪力を抑え込むにしてもレン先程壊した鉄檻以上に強固なものなどこの近くにはそう簡単にないだろう。そしてもう一つは論外だ。この病院にいる誰かを犠牲にしてレンを無力化しても何の意味もない。

「くそッ……。八方ふさがりだね……」

 マキナがそう呟く、するとゆっくりとした歩みでレンが部屋から出てくるのが見えた。その足取りはゆっくりだが、おぞましい力に満ちているのをマキナは肌で感じた。

 どうすればいいのかマキナはわからなかった。取れる手段は見つからない。だがやらなければならないのだ。

 マキナはじっくりと思考する。それはレンのスピードを考慮してのことだった。レンの足取りは極めて遅い。そのためマキナは、レンと戦闘になるにしてもそれまで少なくない時間があると考えていたのだ。

 しかし、マキナとレンの目が合った刹那、

「ソノ、目玉ウマソウ……チョウダイ」

 レンが今までとは比べ物にならないほどのスピードで突進してきた。先程食べた自分の目玉に味を占めたのか、マキナの目玉を見た瞬間衝動が活性化したようだ。

 マキナは扉を出てすぐの場所で考えていたことを後悔する。戦闘になるにしてもこちらから仕掛けるつもりでいたのだ。今のままの場所ではカイやキリエを巻き込みかねない。

 咄嗟の判断でマキナは腰に足に隠していたナイフを取り出し、レンへと向かう。ここで止めることが出来なければ、カイとキリエが危ない。ならば自分の身を危険にさらす他ない。

「はぁぁぁぁぁァッ!」

 幸いなことに先程の言葉でレンの狙いはわかっている。人食衝動に支配された人間は獣と同じ、自分が食べたいものをただひたすらに追い求める。ならば先程の言葉『目玉』に気をつけながら戦えば、危険は少なくなるはず。

「ぐギャぁァァァ!」

 耳に響く叫び声を上げながらレンも同様に突進してくる。右手をつき出し、勢いをそのままに肉を抉りだそうとしているようだ。レンの狙いはマキナの考えた通り、顔、すなわち目の辺りだった。普通ならこれで問題なく攻撃を防げるはずだ。しかし相手は人食病感染者。

 先程鉄檻を破壊したその怪力を、咄嗟にマキナは失念していた。

 鈍い音が響いたと同時にマキナは後ろに吹き飛ばされ、カイとキリエがいる部屋の壁へと激突する。その壁を壊されれば、カイたちが危ない。

 幸い目玉を奪われることはなかったが、レンの攻撃を受けた右腕、さらに後頭部は真っ赤に染まり心臓の鼓動と同じリズムで激痛を運んでくる。もはや感覚もなく、右腕はしばらく使い物にならないかもしれない。

『人食病患者の前では人間はただの食料に成り下がる』

 そんな言葉がマキナの脳裏をよぎる。しかし悠長に考えている暇はない。レンは今もその動きを止めず、マキナのすぐ側まで迫っている。

(……くそ。右手の感覚がない。これはしばらく使い物にならないな……。こんな状態で一体どうやってレンを止めれば……)

 そこでマキナは気付いた。止められる可能性が僅かながらあることに。禁断症状の発作を止める方法は何だったか。


――人食衝動を満足させること。


それは人肉であれば問題はないはずだ。たとえ大量に血を流していようとも、感覚がなくとも。人食病患者は死なず、禁断症状発作時には凄まじい力を発揮し、身体の痛みを忘れる。いわば、人肉を食べたいという衝動が身体を凌駕するのだ。ならば、ある程度身体を傷つけた後に、僅かでも人食衝動を満足させることが出来れば身体に痛みが戻り、隙が出来るかもしれない。その瞬間を狙えばレンを無力化出来るかもしれない。

「ったく……。世知辛い世の中だな」

 重い体に気力を宿し無理やりに動かすマキナ。マキナが立ちあがる頃には丁度レンがマキナのすぐ側にいた。

「やぁ、レン。腹減ってるんだよな? ならこれ、やるよ」

 そう言ってマキナは力を振り絞り右腕をレンの口の前まで突き出した。先程までは目玉に執着していたレンだ。だがしかし、空腹時に目の前に食糧があったなら食べずにはいられないはずだ。それが食糧であるならば、たとえ自分の求めるものではなくとも。

「クレル……?」

 マキナはゆっくりと頷き、レンを促す。そしてレンが自分の右腕を咥えるべく口を開いた瞬間、マキナは思い切りレンを蹴り飛ばした。

 そのまま馬乗りになり、空腹のあまり空いたままになっているレンの口に自らの腕を突っ込んだ。

 これは賭けだった。マキナは身体にダメージを与えた上で、少しの人食をさせることで痛みの感覚を思い出させ、レンに正気を思い出させようとしたのだ。だが、レンが痛みの感覚を思い出す確証は何処にもなく、仮に思い出すとしてもどの程度の人食が必要なのか。最悪、何も思い出さないかもしれない。

「思い出せ、レン! お前にはキリエがいるだろ! 大切な大切な兄妹だろッ! 俺の腕を食って、キリエの元に戻るか、それともこの病院にいる全員を衝動に任せて食い散らかして、畜生の道に堕ちるか、決めるのはお前だ、レンッ!」

 話している間も、レンの歯がマキナの腕へと食い込む。幸いなことに感覚がほぼ無いお陰で、痛みを感じることはなかった。だがこのまま腕を食いちぎられたらそうはいかないだろう。マキナはこれから訪れるであろう痛みへの覚悟を決め、なおレンへと言葉を紡ぐ。

「お前は一体何のために人食衝動を二か月も我慢してきたんだ!? キリエのためだろう? キリエと一緒にいたいから、キリエに迷惑を掛けたくなかったから、そうじゃないのか? だったら目を覚ませ、レン!」

 ガァァァ、と低い唸り声を上げながら、レンはマキナの腕を咀嚼する。レンの左目に眼球はなく、真っ赤に染まっている。マキナはその真っ赤な空洞がレンの失った正気のように見えた。

(ダメか……ッ)

 マキナは自らの腕を失う覚悟を決める。

 すると次の瞬間、その空洞に光が宿ったようにマキナには見えた。

 レンが残った方の目玉から、涙を流し、小さく小さく泣いていたのだ。

「食べたくない……。食べたくないよ……」

 マキナはレンの口から腕を離す。

「大丈夫か? レン? 頑張ったな。よく頑張ったな」

 マキナはレンを抱き寄せる。

 レンの姉に対する思いが、人食衝動に打ち勝ったのだ。マキナは腕の痛みも忘れて強くレンを抱きしめる。

 普通の小さな小さな男の子だった。本当に小さな男の子だった。

 騒ぎが収まったのに気付いたのかカイとキリエが部屋から出て来た。二人は一目散にこちらへと駆け寄ってくる。

 マキナの身体を心配するカイに大丈夫、と返事をし、キリエがしっかりとレンを抱きしめるのを見届けると同時にマキナの意識は途切れた。




    †     †




 ふぅ、とキリエは大きく息を吐いた。

 レンが暴走してから数日。レンは片方の目玉を失った他に、少なくない外傷はあれど命に別状はなかった。マキナは身体中に怪我を負っており、今も部屋で休んでいる。最もひどいのは右腕、骨にひびが入り、筋肉も切れてしまっていた。ここが病院だったこともあり幸い速く完治しそうだ。


「マキナ、か」


 キリエは呟いた

 マキナはまだ十六歳、いくら大人ぶっているとはいえ、普通に生活していれば高校一年生だ。そんなまだまだ子供な彼がその手に拳銃を持って、妹を守るために戦っている。そして、この前はキリエやカイのために戦ってくれた。

(……不思議な人)

 今、キリエやレンが生きているのは間違いなくマキナのおかげだった。彼がいなければ間違いなくキリエは死んでいた。

(いい子、なのよね。とっても、こんな世の中じゃなければ、もっと仲良くなれたかもしれない……でも)

 おそらくマキナは自分で思っている以上に、キリエに心を開いている。

 信頼しているからこそ、あんなことになった時に自らの命を危険にさらしてまでキリエを助けてくれたのだろう。キリエ自身もマキナの信頼を感じていたし、何よりキリエ自身、マキナの一生懸命な姿に惹かれていた。

(ダメよ……。こんな気持ち……。私みたいな人間が持っていい気持ちじゃない)

 キリエはゆっくりと自分の胸に手を当てる。

 すごく、優しい人だった。どんな事があっても妹を守ろうと必死で、だけどそれだけじゃない。こんな世の中で人の心を失わず、人を思いやる強さも持っている。普通に生きていれば間違いなく人を殺すことなんてなかっただろう少年。そんな彼だからこそ、今人を殺すことに何よりも苦しんでいるだろう。そんな姿を見てキリエの心は締め付けられるように痛んだ。


 そして、それと同時に助けてあげたいと強く思った。けれど、それは敵わない。

 マキナとカイ、あの二人には幸せになってほしいと心から思う。

 本当に、心から。

 

 だが、それでもやらなくてはいけない事があるのだ。

 

 キリエは、ゆっくりと手を動かし研究を続ける。あともう少しで完成する。こんな地獄から、キリエを救い出してくれる薬が。

 

 キリエ自身の目的を達成するためには、一人では出来なかった。そんな時に現れてくれたのが、マキナとカイ。人食病に侵されたカイ、そして未だに侵されていないマキナ。まさにキリエが望んでいた組み合わせだった。この二人がいればキリエの目的は確実に達成できる。


「私って嫌な女ね……」


 キリエが自嘲気味に呟く。

 キリエ自身、自分がやろうとしていることが正しいとは思っていなかった。自分を信じている人を裏切ろうとしている。心のどこかで後悔する自分がいるのを感じていた。


「でもね、でも私はもう嫌なのよ……。救われたいのよ……」

 キリエの目から雫がこぼれ落ちる。

「ははっ、私泣けたんだ……。まだ人間でいていいんだよね……?」

 涙を流せたことが嬉しかった。あと少し、あと少しで。


「ごめん、ごめんね。マキナ、カイ。私、嘘ついた」



「人食病を治す薬なんて作れるわけないじゃない……」



 キリエの頬を流れる涙は止まらなかった。




     †     †




 

 マキナが朝目を覚ますと、隣のカイはまだ眠っていた。

 マキナはカイの頭をそっと左手で撫でる。右腕はまだ完治しておらず、包帯が巻かれている。しかし、痛みはもうほとんどなく経過はかなり順調だった。

「……大丈夫だ。あと少しで」

「うぅん……? お兄ちゃん?」

 唸りながらカイが目を覚ます。

「悪い、起こしたかな?」

「ううん、大丈夫。いいかげん寝すぎだよね。あたし」

「ははっ、そうだね。そろそろ起きないと」

 にっこりと笑い合うマキナとカイ。

「身体は大丈夫か?」

 身体、なんて言ってはいるが、それがそのままの意味を持たないのは二人とも知っている。すなわち、人食衝動は大丈夫か? 人を食べたくなってはいないか? と。

「うん、大丈夫。キリエさんが頑張ってくれてるんだもん。あたしも頑張らなくちゃ」

「偉いな。カイは」

 再びカイの頭を撫でるマキナ。

「へへっ、ありがとう。あのさ、お兄ちゃんに一つだけ聞きたいことがあるんだけど……」

 カイが珍しくなにか言いづらそうにしている。何事かと思い、マキナが聞き返した。すると、

「あ、あのね……。お、お兄ちゃんは、キ、キリエさんのこと、す、好きなの……?」

 カイの質問にマキナは呆れてしまう。

「何、バカなこと言ってんだよ。あいつは確かに悪い奴じゃないが、そんなんじゃないさ」

 確かに、キリエに対して心を開いているという自覚はあったが、愛情とかそんな大層なものじゃない。

 ただ一つ気になったのが、キリエに出会った時、何故かとても懐かしい気がしたということ。でもそれがどこでなのか、思い出せない。マキナはこんな世の中になって以来、すべての人間を疑って生きて来た。それなのに、キリエのことを今ではすっかり信じてしまっている。マキナ自身が不思議に思うほどに。

「お母さんが言ってたよ。私みたいに白鳥のような綺麗な人を見つけなさいね、って。キリエさん、すっごく綺麗だもん。」

「白鳥? ああ、母さんの口癖だったな……」

 お母さん。

 その言葉を聞いて、マキナが反応する。

 (母さん……?)

 何か引っかかるものがあったが、いまいち釈然としない。マキナは考えるのを諦めて、カイの方に振り向いた。

「何言ってるんだよ、俺は大切な人をもう見つけてるよ」

 マキナがそう言うと、カイが照れくさそうに笑った。



 この笑顔を守るために生きるって、そう誓ったんだ。



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