第一章『人食い』

 殺される。

 殺される殺される殺される!

 殺される殺される殺される殺されるッ!

 少年は走っていた。辺りには、過去に文明が栄えていた証である大きな建物がいくつもそびえている。だが、もうそこに見る影はなくガラスは割れ、いくつかの建物は斜めに傾いていた。

 そんな景色に視線を向けることもなく、少年はただ走る。裸足の足は小石や散ら ばった建物の残骸で血まみれになり、何度も転んだせいで膝はボロボロ、身体中に傷をいくつも負っていた。もしかするとこれ以上走れば当分の間立てなくなってしまうかもしれない。だが、それでも走るしかなかった。

 生きるためには。

(なんでこんなことになってるんだ! 俺が何をしたんだ、ただ生きていただけじゃないか! なのに、なのになんでこんなこと……ッ!)

 そう、少年は生きていただけだった。ただ懸命に、ひそやかに、自らの命を繋ぐために日々を細々と生きていただけだった。

 心の中で叫ぶ年の背中には、今も尋常ではないほどの殺気が突き刺さっている。

 本当に、本当に突然だった。

 いつものように今日一日分の食料を手に入れるために、この『元繁華街』にやってきたのだ。ここでは、今も冷蔵庫や冷凍庫、さらには密閉装置などが作動しており、食事を漁るうえではもってこいの場所だった。

 文明が発達していた時期には、おそらく中華街であったはずのその場所でガラクタを漁っていると、今も起動している冷凍庫を発見した。中には肉や野菜、様々なものが入っており、当分の間は食料に困らないうえ、栄養面を考えても問題がないくらい様々なものが眠っていた。

 普段では考えられないほどの収穫だった。きっと普段の行いがいいからこんないいことが起こるんだ、なんてくだらないことを考えもした。だがそんな生易しい考えはすぐに消え去った。

 消え去った先にあったものは残酷で苦しい、現実だった。

 食料を見つけ出し意気揚々と帰ろうとしたそのとき、目の前に全身に黒い服を纏った男が現れたのだ。その男の目には明らかな殺気が宿っており、マズイ、と心が叫ぶのを感じた。

 今の世の中、人が人に対して殺気を持って接するのは二通りだ。その人の持っている物品もしくは食料を狙っているとき、そしてもう一つはその人自身を狙っているとき。

 少年は感じた。この男は明らかに後者だ、と。

 何かを選ぶ暇などなかった。手に入れた食料をすべてかなぐり捨てて駆けだした。逃げなければ殺される。生きたかったから、まだ生きていたかったから。

 逃げると言っても当てがあるわけじゃなかった。特定の住む場所があるわけじゃない。ましてや帰りを待つ家族もいない。そんな身の上でどこに逃げればいいのか。ただ、がむしゃらに走ることしか出来なかった。


(生きたい、生きたい、生きたいッ!)


 少年はまるで呪文のように、心の中で呟いた。

 ただ生きたいという生への執着が少年を突き動かし、身体中の痛みを忘れさせていた。

 少年は咄嗟に倒壊したビルの間にある路地裏に飛びこんだ。

 最近このあたりでずっと食料調達をしていたこともあり、この辺の地図は完全に頭に入っている。この路地裏はかなり入り組んでいるので、そうそう簡単には見つけられないはずだ。たとえ相手がこの辺の地理に詳しい相手であったとしても逃げきる自信が少年にはあった。

 しばらくたって、少年が物陰に隠れながらおそるおそる辺りを窺うと、周りに誰かがいる気配はなかった。

 大きく息を吐き、膝に手を着いて心を落ち着ける。身体はボロボロだし、恐怖で身体中が震えている。ふと足の裏を見てみると皮が剥げ血まみれになっていた。

生きていられるだけましだ、少年はそう自分に言い聞かせ、再び辺りを警戒しながら路地裏を出た。

 さすがにもう諦めたのか、先ほどから感じられていた強烈な殺気は跡形もなく消えていた。少年はゆっくりと歩き、自らの家へと向かう。家とは言っても、建物の残骸に落ちていたシートを引き、拾ってきたダンボールで周りを囲っただけのものだ。どうせここの食料を食べ終えたら他に移動しなくてはならないのだ。雨と風が凌げれば十分だった。

 世界が死んで以来、こんな生活は人類にとって普通だ。むしろ毎日食事にありつけていること自体が幸運であった。そもそも人類がどれくらい残っているのすら怪しいのだ。

 はぁ、と大きく伸びをすると少年は家の前に立ち、扉代わりのダンボールを開けた。

 そして、背筋が凍った。


(ああ、俺、死んだな)


 少年は悟った。もう、ダメだと。

 扉の向こうには全身に黒服を纏った男が立っている。男は無言で少年に無慈悲な銃口を向けている。懸命に逃げようとした少年だが、もうどうしようもなかった。

ドンッ! という乾いた音と共に少年の頭から血が噴き出し、そして絶命した。

「ふう、手間取らせやがって……食糧確保っと」

 黒服の男はそう呟くと、冷たくなった少年を抱えて出ていった。




          †     †




「おかえり! お兄ちゃん!」

 マキナが寝床に戻ると、嬉しそうな顔でカイが出迎えてくれた。マキナはいつものように優しくカイの頭を撫でる。するとカイは、くすぐったそうに首を動かしながら聞いてきた。

「大丈夫? どこも怪我してない?」

 いつもと同じ質問。もう何度聞いたかわからない。マキナはいつもと同じように小さく笑みを浮かべて言う。

「してないよ、どこも。それにほら。ちゃんとお前の食事も確保してきた」

 肩に担いでいた男の死体をマキナがその場に下ろす。先程殺した男だ。歳は十五~十八くらいだろうか。入り組んだ路地裏に逃げ込まれたせいで、思いのほか時間がかかってしまったが、男の寝床を見つけることが出来たので、なんとか狩ることが出来た。

「ごめんね、お兄ちゃん。いつもこんなことさせて……」

 カイが悲しそうな顔でマキナを見る。

「それは言わない約束だろ? それに俺が好きでやってるんだ、お前が気にすることじゃない。いいから早く食べな。腹、減ってるんだろ?」

「……うん。いつもありがとう、お兄ちゃん」

 カイはそう言うと、床に転がった男の傍へ。

 男の傍に寄り、右腕を引きちぎるとそのまま口へと運ぶ。初めは小指から順に一本一本口に運んでいたカイだが、次第に我慢できなくなったのか、腕ごと一気に口に押し込んだ。流れ出る血を啜り、骨周りについた筋肉を勢いに任せて噛みちぎる。そして己の歯で租借する。次は男の腹を裂き、内臓を抉りだし、心臓、肝臓、腎臓、肺、膵臓そのすべてを貪り食う。その次は左腕。それが終われば右足、左足。そして最後は頭、すなわち脳だ。頭蓋を叩き割り、脳みそをまるでスープのごとく飲み干す。

 ただ本能に従って、人肉を貪り食う。その姿は肉を食らう野獣そのものだ。

 そして、それが梔子マキナの妹、『梔子カイ』。

 もう見慣れた光景だ。

 カイは少なくとも数週間に一回、人肉を食べなければ生きていけない。これは八年前からずっとだった。それ以外の食べ物はまったく受け付けず、人肉を摂取しなければ禁断症状に陥り、自我を失ってしまう。この世界の人間なら誰もが知っている病気だ。

 マキナはカイを守るために多くの人間を殺してきた。それしかカイを守る方法がなかったからだ。マキナは自分のしていることが正しくないのはわかっていた。仕方ない、ですまされることではないのは理解していた。でも、後悔はしていない。今こうしてカイが目の前で笑っているのだから。

 マキナが考え事をしていると、食事を終えたカイが話しかけて来た。

「大丈夫……? ……もう、あれから五年になるんだね」

「……ああ」

 そう、すべてのはじまりは5年前まで遡る。

 五年前のある日、世界は死んだ。


 『人食病』

 この奇病が世界を変えた。

 人肉しか食べられなくなる、まるで神が人類を滅亡させるために作ったかのような魔の病。どこで、どのように広がったのか、いったい何が原因なのか。細かいことはまったくわからないまま、この病気はすぐに世界中覆い尽くしていった。それと同時に、人が人を人食べるという目を覆いたくなるような暗黒時代が始まった。


 『人食病』の患者は、初めに、胸のあたりに黒い刻印が浮かび上がり、一切の食べ物を受け付けなくなる。そしてその後は『人食病』の名の通り人肉しか食べられなくなってしまう。だが、それだけなら良かった。人肉を摂取しなければ死んでしまう、というのであればまだましだったかもしれない。

 

 怖いのは『人食病』に感染した挙句、人肉を摂取できなかったときだ。人肉を一定以上摂取出来ないでいると、人間とは到底比べ物にならないほどの怪力や運動能力で手がつけられなくなる。普通の人間が抵抗したところで何の意味も持たないそれは、『禁断症状』と呼ばれ、『禁断症状』に陥った『人食病』患者の前では人間はただの食料になり下がるしかなかった。

 

 そしてさらに『人食病』が魔の病と言われる理由はそれだけではない。『人食病』に侵された人間は死なない。冗談を言っているわけではなく、死なないのだ。それは昔の映画によく出て来たゾンビに近いかもしれない。拳銃で撃てば、動きは鈍るが死なない。どんなことがあっても、決して死ぬことはない。

 

 この病と共に世界は死んだ。

 この病が、人々の生きる希望や未来、すべてを根こそぎ奪い取って行った。


 そんな魔の病にカイが侵されたのはマキナが十一、カイが八歳の時だった。

 その当時の梔子家は極めて普通な、どこにでもあるような幸せを享受していた。母親と父親、マキナとカイ、時にはマキナと父親、ごく稀にカイと母親、小さなケンカは絶えなかったけれど、そんなことすぐに忘れて週末には家族で旅行に行く。

 梔子家はそんな普通の幸せをあって当然のものと、そんな風に認識して生きていた。だがそんな当たり前だと思っていた日々が、ある日を境に唐突に崩れるなど、誰も思わなかった。

 皮肉なことに始まりは父親の誕生日だった。

 母親は父親の好物や、値段の高い酒を買って、部屋の飾りなんかも作ってものすごく前から準備していた。マキナ自身もなんだか嬉しくて、いつもはプレゼントなんてあげないのに、その年だけは何故かネクタイを準備したのを覚えている。

 だが、もしかするとその時マキナ自身感じていたのかもしれない。これが最後の『普通の幸せ』だと。

 父親の誕生日の少し前から、カイがあまり食事を取らなくなった。この頃は『人食病』のことは公表されておらず、世界中の誰もが平和な日常が明日も続くものだと信じて疑わなかった。マキナもそうだった。

 風邪で少し食欲が落ちているだけ、父親も母親もマキナも、そう思っていた。カイの胸に黒い刻印が浮かんでいることすら、マキナは知らなかった。それから一週間後。

 父親の誕生日当日。

 マキナは気恥ずかしいのを隠すため、面倒な振りをしながらお祝いのケーキを買って帰った。ケーキ屋で母親が好きなチョコレートケーキするのか、それとも父親が好きなモンブランにするのか迷っていたら、帰るのがかなり遅くなってしまって、家に着く頃にはマキナ以外全員家にいる時間だった。

 いつも通りに玄関を開け、家に上がると、必ず付いているはずのテレビは消えていた。

 いつもなら漂ってくる、空腹の腹に染みる夕食の匂いもしなかった。

 いつもなら聞こえてくる和やかな笑い声もなかった。

 いつもならうっとうしいくらい聞こえる「おかえり」って声はなかった。

 違和感を覚えながら、マキナがリビングの扉を開ける。

 そこには、予想もしない、するはずもない、したくもない、残酷な光景があった。



 妹が、カイが、両親を食べていた。


 カイが両親の血肉を啜っていた。血の一滴も逃すまいと骨にしゃぶりつくその姿をマキナは今もよくお覚えている。その顔は笑っており、まるでこの世にこれ以上美味しいものはない、そう言っているかのようだった。

 怖かった。マキナ自身もすぐに両親のようになってしまうのか、一番最初に思ったのはそれだった。どうしようもない恐怖。一瞬目の前にいるのが自分の妹なのか、それすらも疑いたくなった。

 だが、両親を食べ終えたカイが言った一つの言葉。



『助けて、お兄ちゃん』



 恐怖が、吹き飛んだ。

 涙を流し、こちらを見つめる妹の姿を見た時、マキナは思った。

 守りたい、と。

 ただ守りたい、と。

 

 その後のことをマキナはよく覚えていない。両親の肉を食べ終えて、マキナに泣きながらしがみ付くカイになんて言ったのか、両親を食べたカイをどう思ったのか、何も覚えていない。だがマキナは唯一、ギュッと、強く強くカイを抱きしめたのを覚えている。カイはマキナにとって誰より大切な妹だった。

 それから何度も、カイは自ら死のうとした。でも、決して死ぬことは出来なかった。自ら包丁を腹に突き立てたこともあった。マンションの屋上から飛び降りたこともあった。毒物を自ら服用したこともあった。でも、それでも死ぬことは出来なかった。どんな激痛をその身に与えても消して死ぬことは出来なかった。


 悲痛なカイの姿を目の当たりにして、マキナが決意するのに時間はかからなかった。

 

 守るために、殺す。

 その覚悟と同時に、地獄が始まった。

 初めは何度も吐いた。気持ち悪くて気持ち悪くて仕方なかった。でも、大切な人を守るためには殺るしかなかった。

 マキナは人を殺した。数週間に一度、カイの理性が限界に達する前に、人を殺した。相手が誰だとか、相手が何を思っているのかなんて考えなかった。まるで家畜を殺すように、ただ食糧を得るためだけに、殺した。

 マキナが人殺しにも慣れた頃だった。ようやく国連が人食病の存在を公にした。

今更か、と誰もが思っただろう。テレビやラジオを通じて同じ内容の言葉が何度も何度も繰り返された。

『現在、人食病研究の権威である帝教授を中心に治療法の確立を急いでいること、人食病患者は世界人口の半分に上るとされること、また人食病の発症に伴いここ一カ月程度で人口が半分近くまで減少したこと』など。

 人食病の事は世界中の誰もがすでに認識していた。だが、それでも国連が公表した情報は世界を震撼させた。ほんの一カ月という短い時間に世界中の人口が半分なったという事実。こんな事実を知れば人々が生き方を改めるのも仕方なかったのかもしれない。

 

 誰もが世界の終わりを実感した。

 だから人々はみな、生きることに執着した。せめて自分だけは生き残ろう、と。

たとえ、他人をその手にかけようとも。

 

 そして、世界は変わった。

 弱肉強食、生きるか死ぬか。

 

 文明は崩壊し、人は凶暴化した。

 人食病の治療法を待つほどの余裕は人々の心に残されておらず、ただ人間同士、殺し合うしかなかった。

 

 マキナも、殺して殺して殺して、殺した。何人殺したのか、もう覚えていない。




 それから五年が過ぎ、マキナたちはかろうじて生き残っている。


「……大変だったよね。ごめんね、お兄ちゃん。……あたしのせいで」

「別に大変じゃないよ。カイがいるなら俺は大丈夫だよ、ほら、もう寝よう」


 マキナは微笑みながら、カイに視線を送る。


「ねぇ、お兄ちゃん。治療法見つかるかな……?」

 

 カイは俯き加減で言う。不安、なのだろう。無理もない。自分の身体が人食病という謎の病気に侵されているのだから。人食病にかかっていないマキナにはわからないことがあるのかもしれない。


「……すぐに見つかるよ。心配しなくていい。俺が一度でも約束を破ったことがあった?」

「ふふっ……うん。そう、だよね。……おやすみ」

 そう言ってカイは布団にもぐった。

 マキナたちは今、人食病の治療方法を探して旅をしている。

世界中の研究所をあたり、資料を集め、多くはない手掛かりを元に希望を生み出して、それに縋って生きている。世界は、5年前とその姿を大きく変えている。火山の大噴火や大型ビルの一斉倒壊に伴い、地形は変わり、街と呼べるものは存在しなくなった。そんな地図も当てもない旅を続けている。

 正直、途方もない話だと思う。カイにはああ言ったが、そんなに簡単じゃない。可能性は低いと言わざるを得ない。世界中の研究所で人食病に関する研究は行われたはずだ。たとえ手掛かりを見つけられたとしても、マキナのような医療のド素人がどうこう出来るのだろうか……。

 マキナはゆっくりとカイに近づき、並んで横たわるとそっと頬に手をやった。

 希望は限りなくゼロに近い、時折心が折れそうになることもある。だが、この寝顔を守るためには、自分の大切なものを守るには、やるしかないのだ。

世界は死んだ。神はいない。何も与えてはくれない。なら自分たちで希望を手に入れるしかない。

 

「……お兄ちゃん?」

「悪い、起こしたかな?」

 眠そうな目を擦りながらカイが視線を向けて来た。

「ううん、いいよ。……お兄ちゃん?」

「どうした?」

 マキナが聞くと、カイがギュッとしがみついてきた。

「ずっと、一緒だよね……?」

 答えは決まっている。考える必要すらない。

「ああ、ずっと一緒だよ。……おやすみ」

 悩む暇なんてない。


 守る。カイを守る。

 絶対に。



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